第六章

 私はワイシャツ一枚を着て、駅のホームにいた。まだ陽はその姿を見せ始めた頃だったけれども、たしかにその存在を知らしめる暑さを空気にもたらしていた。けれどもそれはまだ心地よい程度だった。朝早い出勤も、この点だけは悪くないと思った。五時三十三分の電車まで、まだあと十分もあった。階段の側の少し狭くなっている通路のところで二号車を待っていた私は、ふと左を眺めた。それはただ右を見たから左も見る、というような、何の理由もないことだった。けれども私はとんでもないものを見た。黒のパーカーにグレーの半ズボンをお揃いで着た一組の男女が、ホームの端の方、自販機の少し奥で、キスをしていた。それはとても長いキスだった。お互い唇から融け合うようにキスをして、鼻では大きく息を吸って吐いてしていた。女は手前側に見えて、唇の角度を変える度にその長い金髪を揺らした。それは朝日に煌めく川のようで、とても美しかった。男はその無造作な髪を、女を真似るように揺らした。それは川の水を飲みに来た蝶のようだった。それもとても美しかった。少なくとも、悪くはなかった。男も金髪だった。それは春風が吹いていないとおかしいような、激しくも美しくのどかな光景だった。私はひどく興奮した。お互いまさしく貪るようにキスをしながら、お互いを確かめるように抱きしめながら背中を撫ぜていた。女の背を撫ぜる男の腕はよく見えて、女も肘から先は見えないけれどもそうしているに違いなかった。二人はそうして動く内に少し角度を変えて、私に女が男の背を撫ぜるのをちらちら見えるようにしてくれた。女は男の背を手のひらで包むようにしかし乱雑に撫ぜ、それは愛であるに違いなかった。私はとても嬉しく思った。少なくともこの女は、孤独ではなかった。まだ電車の影も何もない線路に、まっすぐ光が差して、私をジリジリと照らした。汗がダラダラと流れた。私はその男と女に釘付けだった。私はひどく興奮した。

二人のキスはあまりに長かった。少し顔を離して見つめ直したと思えば、またすぐその数秒が数十年であったかのようなキスをした。私はこれをとても美しいと思った。それから私の耳に入ってくる音は、この美しい光景によって、貧弱な私の想像力にも大きく呼びかけた。電車の到着を知らせるアナウンスが入った。それはチャペルの中の美しい神父の話に聞こえた。電車が大きな汽笛を鳴らして入ってきた。それは結婚式場に鳴り響く美しいベルに聞こえた。

電車がホームに滑り込んできて、それでもまだ二人はキスをしていた。私はただ茫然とそれを眺めながら、もう高く上がった太陽の電車と跨線橋との間から指す光線を真っ直ぐにしっかりと受け、髪と髪の間、耳の前、首の後ろ、だらだらと汗をかいた。それは私が上気していたせいで全く気にならなかった。ものすごい芸術作品を観た後の冷や汗にも近かった。首を中心に筋肉のこわばりと心臓の鼓動を感じた。ドアが閉まります、というアナウンスが入って、女だけが電車に駆け込んだ。私はそれを意外に思ったけれども、驚きはしなかった。この美しい景色はいつまでも続かないという予感はあった。私はその光景を見て、まだ自分が電車に乗っていないのを思い出して、急いで駆け込んだ。その間も男と女を眺めていた。早朝の電車にはまだあまり人がおらず、女も私も同じく、少し離れてはいるが、開いたドアと逆側の席に座った。女は、座ってからもずっと男のことを眺めていた。男も女のことを眺めていた。私は彼らが離れなければいけないことを悲しく思った。塔に囚われた美女とそれを見つめ助ける覚悟を抱く貴公子のようだった。私はこの儚さとこの二人の間にある微妙な関係性とが結局のところこの世の全てなのだと思った。私は全てを愛しく思った。この二人がずっと長く続けばいいと思った。




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