第七章

 夜が訪れて、私に挨拶をしに来た。それはビルの退出時間を知らせるチャイムが流れたという意味だが、それはこのコンテクストにおいて私が帰れるという意味ではなかった。この二十二時のチャイムの後も、三十分後に鍵を閉めに来るこのビルの警備員に一言いえば、なぜか会社に残ることができた。そのせいで、このフロアはいつも明かりがついていた。私や、他数名の同期が残ることが多かった。

 今日は一人で残っている。警備員にぼそぼそと挨拶して鍵は閉めずにいておいてもらい、仕事に没頭すると二十三時を少し過ぎていた。集中が完全に途切れて、背中を逸らせてストレッチをすると、今日中に処理しなければいけない書類の山が目に入った。改めてその量を把握するとそれは膨大で、ため息が出た。会社中のミスは、私含め若手にツケが回ってくる。今日は課長の確認ミスで書類の中の数字に何個ものずれがあったから、もう印刷済みのそれを全て紙で確認して、元データを直す、という作業をしていた。課長は十七時に帰った。

 ペットボトルのコーヒーを飲んで一息ついて天井を見上げた私は、この口の中に広がる味から空想を広げた。基本的に残業というのは、、、ショートカット、なぜか茶髪のショートカットの女が可愛らしい声で「あぁ~、今日も残業かぁ~」と嘆息混じりの声を出しながら、パソコンの前で姿勢をぐにゃぐにゃさせていると、画面の左上、女の右肩越しにコーヒーがすっと差し出され、女が思わずその方を向くと、爽やかなヘアスタイルの男の先輩が、ワックスの臭いがする笑顔をたたえながらそこに立っている。女は言う。「先輩…」……こういうもんだ。でもこういうもんではなかった。思えば私は高校時代に男女三人ずつでプールを洗ったこともないし、大学時代に宅飲みで誰かといい雰囲気になったこともなかったから、社会人になってもそういうことが起きないのは推して知るべしであった。けれども、人はその時々の苦境を乗り越えるために次のステップでの楽園を妄想するものなのだ。

「あーっ」と声を出して、背中を弓なりに逸らせながら椅子を右に回転させ、その勢いで首を再び正面に向けた。さっきまで仕事をしていた私の後ろには、暗闇の中に三つの島になったデスク達と、通りに面した広い窓があった。窓にはネオンだか電車だかの青い光がぼやっと全面的に射し込んでいた。

課長の尻を拭くどころか、ケツの穴を舐めている気分になった。

私はパソコンに向きなおして、もう一度作業を始めた。




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