第48話 欲望に忠実な魔法使い
次に起きたとき、乳母が私の子供のおしめを替えていた。「元気でちゅねー」と甘い声を出している。
私の子供の乳母に選ばれた女は20代に見えるが、かなり恰幅がよく、子供の世話が上手そうだった。髪を後ろにまとめている。こういうと語弊があるだろうがいかにも乳の出が良さそうだ。
「自分の子供はどうしたんだ?」
私が
「さっき起きた」上体を起こす。かなり調子がいい。問題なく体を動かせる感覚だった。窓の外は薄暗いというか薄明るいというか。あれだけ寝てまだ夕方ということはないだろう。「今は明け方か?」
「そうです」
部屋の中を見ると長椅子が増えていて、ネゾネズユターダ君も寝ている。ほかに人はいないが、見張りが廊下に立っているのだろう。部屋の入口の扉には
二度寝をするにはもう寝すぎていて眠くない。私はベッドから足を出した。自分がローブや黒のドロワーズを脱がされて寝間着になっていることに気づいた。既婚女性用のかわいくもなんともない普通の寝間着だ。来客用の新品といった感じで、仕立てたばかりの感触がする。
床に立つ。窓の外に青くなっていく
喉が乾いた。ベッドの方を振り返ると水差しが置いてある。私はそちらに戻ってゴクゴクと一気に飲んだ。水差しが空になった。
乳母はおしめの交換を終えると、汚れた方を持って出口に向かった。私はその様子をじっと見ていた。彼女は自分で閂を外して外に出て行った。扉のところで見張りの兵士の姿が見え、二言三言会話をしていた。
返事はなかったが、乳母に選ばれるのは子供が死産だったり早死にした母親ということが多い。彼女の子供もそうだったのだろう。
花瓶の薔薇は交換してあった。今は赤と白の薔薇が2本ずつ差されている。壁に掛けられた絵画は私も知っている天候を司る神様の姿だった。私の地元で人気があり、ここがレシレカシではないと実感できた。
おむつを洗いに行ったのなら水のお代わりもついでに頼めばよかったな。私は思った。それからベビーベッドに近づき、娘と息子を見た。
表情が穏やかになっていた。こうやって見ると最初に見たときに眉間に皺を寄せて苦悶の表情を浮かべていたというのが分かる。今はそんな皺もなく、小さい口を半開きにして間抜けな様子で寝ていた。娘も息子もネゾネズユターダ君にそっくりだ。思わずニヤニヤしてしまう。手を伸ばして、指の腹で娘の頬をつるんと撫でた。不思議な感触だった。産毛の生えた桃のようだ。
母親の力なのか、精神魔法のエキスパートとして沢山の症例を見てきた経験によるものなのか分からないが、2人とも脳の発達に萎縮があると感じた。虐待を受けた子供に特有の症状だ。顔の感じなのか、目の感じなのか、それとももっと別の何かを私が読み取っているのか、それは分からない。しかしおそらく脳の成長が遅れている。
そして私は自分の口を手で押さえた。息を飲み、顎に力を入れた。『虐待の後遺症を治す魔法』を唱えたくないと思った。そしてそれは自分がこれまで適当に学内でやってきたあれこれを否定しているんだとはっきり自覚した。赤の他人の脳はいくらでもいじれるのに、自分の子供が相手ではそれができない。その事実が突き付ける圧倒的不正義に私は夜明けの寝室で一人で動揺していた。おののいた。
死んでもいいし取り返しがつかない結果になってもいい。“まあいいや”で私はやってきたのだ。
そんなことはないと否定する自分もいる。失敗する可能性はなかったし、事実、これまで精神治療の魔法を失敗したことなどない。大丈夫だと確信があった。それでもやっぱり目の前の自分の子供にそれを唱えるのには躊躇してしまう。無理して治癒をする必要があるだろうか?
私は長椅子に寝ているネゾネズユターダ君のそばに行き、その体を揺すった。うーんと言って眠そうに彼は目を開けた。
挨拶があって、どうしたのというやりとりがあって、それから私は事情を説明した。説明が終わる頃には太陽が地平線から顔を出して部屋の中が明るくなっていた。
「あの子たちに精神魔法と遺伝子操作をしてもいいと思う?」
彼はしばらく無言だった。ベビーベッドを見ていた。
「難しい問題だね」彼は組んだ手の上に顎を乗せた。「僕は治療魔法をかけた方がいいと思う」
「それはどうして?」
「君が色々考えていることは分かるよ。僕も怖い。自分が自分の子供じゃなくなっちゃう気がして」
私は
「僕も君の人助けをいくつも見てきたけど、君の魔法は本人にはほとんど感謝されないんだ。感謝するのは周りの人ばかり。これは僕もしょうがないと思っていた。本人は自覚がないんだもの。自分が病気になっているっていう」
私はまた
「あの感謝の意味を考えた方がいいんだと思う」
私はあの感謝に普段からあまり価値を見出していない。「あの感謝は私の親が私に子供を産んでくれてありがとうっていう感謝とあまり変わりない気がする」私は彼の顔をじっと見た。「あれのために魔法をかける気にはならない」
ネゾネズユターダ君は私の肩に手を回し、頬と頬をくっつけてきた。「魔法をかけてくれたことで僕が君に感謝するって意味じゃないよ」
「うん」スキンシップは嫌いではない。私も彼の腰に手を回した。「それじゃあ、なに?」
「本人は治っても治らなくてもどっちでもいいんだ。本人にとってはそれが当たり前だからね。だから君の魔法は本人のためになるかとか感謝するかとかを気にしなくてもいいんだ」
私は驚いて彼の体を強く抱いた。私が気にしていたのはまさに治癒魔法が子供のためになるのかという点だからだ。子供たち本人はそんなのどっちでもいいというのは乱暴な意見だ。
「君が一番よく使う魔法は『アルコール依存症を治す魔法』じゃないかな。年に10回か15回は唱えてる」
覚えてないがこの10年くらいはそんなもんだ。「そうだね」
「あれを君が使ったときの、家族の反応と、君のドヤ顔が好きだよ」
意味が分からなくて私はあれこれ考えてしまった。部屋の中に差し込む日の光はどんどん高くなっている。
「思い出してみて」彼は言った。
といっても大したことはない。そのほかの人助けと同じだ。こっちは古代魔法の人体実験のノリで唱えるんだけど、患者を連れてきた家族や友人は私に五体投地せんばかりに感謝する。
『アルコール依存症を治す魔法』は私の得意魔法の一つになり、最近では左手でスコーンを食べながら右手で相手に触れてかけるくらい、普通のものになってしまった。
何か大事なことに気づいた。「ああ」私は彼の体を離して立ち上がった。ベビーベッドの方へと進む。顔はドヤっていたんじゃないかと思う。「私がやりたければやればいいのか」
というわけで私は自分の子供の障害を治した。あとになって考えると、治さずに愛でようとしてたなんて馬鹿みたいだ。
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