第30話 選択

「お目覚めですか」


 小夜が言った。


「ええ、そうみたい」


 肩を竦めたかったけど、身体が思うように動かない。そりゃそうだ、芋虫なんだから。


「困りますよ。お食事を運んでくる間に寝られるなんて」

「ごめん。ちょっと寝不足だったのかな」

「寝たきりですのに」

「寝たきりだからだよ」


 ベッドの上に座らされて、私はただぼうっと天井を見つめていた。焦点の合わない瞳では照明はぼやけて映る。視線を落とすと壁の時計は午後七時を回った頃で、目の前には湯気の立つ皿が置かれている。


「随分と魘されていたようですが」

「そう?」

「ええ」


 小夜相手に中途半端な誤魔化しは通用しない。改めてそれを実感する。


「偽物だって言うんだ」

「偽物、ですか」

「そう。皆が私のことをそう言うの。以前のお前はそんなんじゃなかったって言って、偽物呼ばわりするんだ」


 菊花も先生も、小夜すらもそうだった。偽物だなんだと、あの世界の人間は皆、私を口々にそう詰ってきたのだ。


「私の知り合いがやってきて、代わる代わる罵るんだ。お前は偽物だ、生きている価値なんてないって」


 小夜は静かにそれを聞いていた。そして納得したように何度か頷く。


「何よ」

「いえ……」


 彼女は一度目を閉じ、また開く。


「夢というのは深層心理の象徴的表現であると聞いた覚えがあります。もしかしたら心当たりがあるんじゃないかと思いまして」

「夢なんて元々理不尽なもんだろ。理由なんてないって」


 そう言っても、小夜は満足しない。静かに私を見つめる双眸は、暗に続きを促している。


「皆私が実験するのを止めていた癖に、やめたら今度は文句つけるだろ。それが嫌だったんだ」

「それが原因かもしれないと?」

「そう。私は何も変わっちゃいないのに、そうやっていじめるんだ。勝手に期待して勝手に失望されて……迷惑だわ」

「そうですか?」

「そうでしょ」


 そう言うと小夜は首を傾げて、


「それってお嬢様のことじゃないですか」


 と言った。

 私は少し驚きながらも、どこか納得していた。


「だってそうですよ。小夜が知っている限り、そんなことをお嬢様に言った人はいませんでしたから。そもそも、前の自分と今の自分なんていう区別がナンセンスですわ」

「そうね。あれはきっと私だ。心の奥底に眠っていた、叫びだ」


 偽物、虚構、虚無。それは私が、今の情けない自分を見て思っていたことだ。一年間、毎日動けないベッドの上でずっと言い聞かせてきたことだ。


「こんな身体になってもう一年だ。そろそろ疲れてきたみたいね」


 怖くて、苦しかった。寝返りを打つしかできないこんな身体で、私はあと一年近く死の恐怖に怯え続けなければならない。ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる死。

 だからこそ私は今の私を認めたくなかったのだろう。過去の自分を神格化して、それになり切れない自分を偽物だと無意識に思っていた。


「でも心のどこかでそれを否定したくもあった。何故なら過去の私がやっていたこともまた、死に近づく行為だったから。周りに対する反発もあったかもしれないけど、結局は怖がりな私の独り相撲だったのね」

「そうかもしれません。ただ……」

「ただ?」

「いえ。それが理由で全てを諦める必要はないと思っただけです」

「ああそお」


 別に諦めているんじゃない。ただ怖いのだ。

 先生も言っていたように、こんな身体になろうと私には小夜がいる。私自身に覚悟があるのなら多少の不便があっても不可能ではない。それがわかっていても実行に移さないのは、単に私が恐れているからだ。

 原因はわかり切っている。一年前のあの日、じわじわと身体を蝕む死が私をおかしくした。トラウマ……そう呼んでもいいかもしれない。


「知ってますよ、それくらい」

「ええ?」


 何年一緒にいるとお思いですか? なんて言いながら、小夜は私の隣に腰掛ける。


「お嬢様がそうやって苦しんでいることなんて、小夜には筒抜けでした」

「だったら小夜は……その」

「何で助けてくれなかったんだ……ですか?」

「……まあうん」


 不服だが小夜の言う通りだった。私がこうなってから、小夜は〈地獄行き〉について全くと言っていい程触れなかった。それはもう気持ち悪いくらいに。

 彼女は少し迷ってから、


「待ってたんです。お嬢様が決断するのを」

「待っていた?」

「ええ。お嬢様の夢を、ご自身の手で叶えて欲しかった。また自分の意思で、死に立ち向かってくれる決意をして欲しかった」


 無茶を言う。私はつい吹き出していた。

 私は途轍もなく弱い人間で、誰かに助けてもらってようやく一丁前に生きている。遡れば小夜と出会った子供の頃からずっとそのまま。そんな私が、誰の力も借りずに何をできると言うのだろう?


「もう私には何をすることもできない。そんな力も気力もない。ただ寿命が来るのを待つしかできないのよ」

「そうやって決めつけないでください。だってまだ……」

「可能性は残ってる? 無理さ。私はもう、生きることさえ怖いんだ」


 夢でノイズわたしが言っていた。一思いに殺してくれ、と。それは多分、ただ生きることすら苦痛だった私の悲鳴だ。

 自分が惨めで惨めで仕方がなかった。これまで自分に感じていた価値を全て失った。ボロ雑巾みたいな自分をこれ以上見ていたくなかった。


「お嬢様は……死にたいのですか」

「そういうことになるのかしら」

「死ぬのが怖いのに?」

「そうね。怖いからこそ、早く済ませたかったのでしょうね」


 だから『一思いに』だったのだ。

 煉獄はカトリックの教義で、天国にも地獄にも行けなかった人が行く場所。現世で犯した罪を全て浄化するまで火で焙られて、永遠とも言える苦しみを受ける場所。まさに今の私のことじゃないか。


「死なせてあげましょうか」

「えっ?」


 小夜の口から出た言葉は、研ぎ澄まされたナイフのように私の心を抉った。

 怖かった。小夜はとても冷ややかな瞳で私を貫く。


「どういう……」

「言葉の通りですよ。死にたいのか、生きていたいのか。それを答えるだけじゃありませんか」


 苛立ったように言う彼女の手にはいつの間にかテーブルナイフが握られていた。夢で見たものと同じ、銀色に光るナイフ。

 冗談でしょ? そういう暇もなく、小夜は私の腹目掛けてそれを突き刺した。


「痛っ……」

「答えてくださいよ。死にたいんでしょう? これをちょっと動かせば楽に死ねますよ。どうなさいますか?」


 小夜は表情一つ変えずにぐりぐりとナイフを押し付ける。形容しようがない痛みが走り、玉のような汗が湧くのがわかる。


「な、何を……」

「小夜はお嬢様に仕える身です。あなたの命令なら何でも聞きますし、それだけの覚悟があります。あなたが殺してくれと願うなら、小夜は今すぐにでも実行できます」


 本気だ。

 彼女の言うことは一点の曇りもなく正確で、そう思わせるだけの気迫を感じた。


「どうしたんです。そうやって黙っていたら苦しむ時間が延びるだけですよ」


 ナイフが更に抉り込んだ。濁った血が彼女の手を濡らす。


「小夜……お願い。やるなら一思いに……」


 絞り出すようにそう言った。

 もう、これ以上何かを考えたくなかった。痛くて苦しくて、今にも意識が飛んでしまいそうだった。こんな辛い想いをするくらいなら死んだ方がマシだ。そんな考えさえ浮かんでいた。

 ただ少しでも早くこの現実から逃れたかった。


「なんです、殺して欲しいのですか?」

「そうだよ、そう言ってるじゃない」

「それはおかしいですね。お嬢様のソレは、多分その場しのぎの言葉ですよ」


 怪訝な顔をしながら小夜はナイフから手を離す。


「だって今、生きていたいって思ったんじゃありませんか」

「そんなこと……」

「だったらもう一度仰ってください。殺してくれと」


 小夜はそう言って立ち上がる。デスクの上に置いてあったコーヒーを飲み、レザーチェアに腰掛けた。


「さ、どうぞ」


 足を組み、ベッドに座る私を見下ろす。

 私は彼女の言う通りに口を開こうとする。生きていたいなんて思っちゃいない、私をこのまま殺してくれと言おうとした。

 でも無理だった。口を開けても頼りない吐息が漏れるだけ。まるで声帯を奪われたみたいに何も言えなくなっていた。

 コトン、とコーヒーのカップがデスクに置かれた。小夜はわざとらしい大きなため息を吐く。


「小夜がお嬢様の実験を手伝おうと思ったのは、あなたが家族……本当の家族だと思っているからですよ。家族だから愛するし、家族だから信頼もする。小夜はあなたの覚悟と決意を信じたから、こうやって今に至るまで従ってきているんです」

「でもそれは……」

「別にいいんですよ。あなたの覚悟がその程度なら、殺してくれと一言言えばいいんです。それでジエンド。……でももし、あなたに少しでも未練があるのなら……小夜はあなたの覚悟に報いましょう。あの真っ白な密室で、何度だって死んでみせます」


 小夜が信じていたように私は覚悟できていたんだろうか。きっとできていなかっただろう。以前の私はただ我武者羅で、手段を選ぶ余裕すらなかっただけだ。

 でも少し……ほんの少しだけ悔しいと思った。

 このまま彼女のナイフで死ぬか、だらだらと生き恥を晒して腐っていくか。私がここで逃げていたら、そんな消極的で後ろ向きな二択を迫られることになる。結末は同じ、何も成し遂げられずに無駄死にだ。


「小夜はもう選びました。今度はあなたの番です」


 小夜はそう言って部屋を出て行った。

 たいしたメイドだ。主人を刺しておいて怪我の治療なんて頭の片隅にもないみたいだ。自然とにやけた笑いが浮かぶ。

 彼女は気が触れてこんなことをしたんじゃない。その逆だ。不貞腐れて、寝てばかりいる私を焚きつけるにはこれしかなかったのだ。

 それに気づけたのなら、選択肢は一つだ。

 僅かでも可能性があればそれに縋りつく。そんな意地汚ささえ力に変えられるのが私という人間の本質なんだろう?

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