第29話 本当の"私"

「偽物め」


 耳元で誰かが囁いた。それは辛うじて言葉として認識できたけれど、おおよそ雑音に等しいものだった。不愉快でギザギザとした音。甲高い電子音と下手くそなヴァイオリンを混ぜたような不協和音だ。

 ぞわりという恐怖が全身を襲い、鳥肌が立つのを感じる。

 同時に恨みがましい視線が身を打った。真っ暗闇の中、夥しい数の目が私を見ていた。それは突き刺すようであり、殴りつけられているようでもある。痛みはない。ただ気持ちの悪い、暴力を受けている感触だけが身体を走る。


「偽物め」


 まただ。でもさっきより聞き取りやすい、整理された音だ。

 反響する声を聞いていると、それはどこか聞き覚えのある声のように思えてくる。こういうの、なんて言うんだっけ。デジャヴ? 認知バイアス?


「偽物め」


 また言った。

 女の声だ。ややハスキーで、穏やかな声。やはりこれも聞き覚えのある……。


「あんたは偽物だ。今のあんたは、あたしが憧れていたあいつの偽物なんだ」


 朧げな像が目の前を漂う。


「本物を返してくれなんて言わないよ。でも本物がいなくなったら、偽物は何のために存在するんだ?」


 像は菊花の姿を象って、蔑むような目を向ける。


「馬鹿みたいだろ? だって生きる目的もないのにダラダラ生きるなんて無駄な努力だよ。呼吸も無駄、食事も無駄、思案も無駄感情も無駄。無駄無駄無駄……、無駄で一杯だ」


 菊花は虚空から取り出した鎌を肩に担いだ。見つめていると、鈍色の輝きが私を捉えたような感じがした。


「どうだい、こんな無駄に満ちた人生。嫌だろう? 終わらせてやるよ」


 振り下ろされた大鎌が風切り音を伴って迫る。私は思わず目を閉じて、恐ろしい現実から逃れようとした。


「はは、今怖がったね。君はやっぱり偽物だよ」


 菊花じゃない。男の声がした。

 目を開けると菊花は既に消えていて、白衣姿の真下先生が私を見て笑っていた。


「本物の君ならこんなことにはならない。随分と劣化したものだ」


 先生は胸元からボールペンを取り出して、くるくると回し始める。だが下手くそなのか、三回転目で地面に落ちた。


「過去の君には情熱があった。何が何でもやりたいことを成し遂げてやろうという気概があった。その理由も教えてくれたね。……はて、なんだったか」


 苛立ったようにボールペンを拾い、今度はそれを握った。満杯のアタッシュケースを持ち上げるみたいに、強く握りしめていた。


「思い出せないのなら、きっとどうでもいいことだったのだろうね。価値がなくって無駄なことだ。……ああ、確かそれが生きる理由だとか言っていたかな? じゃあもう、生きる価値もないんだ」


 一瞬聞こえた呼吸の後、先生の右手のボールペンが私の左の眼球を突き刺そうと繰り出される。突然のことに私はどうすることもできなかった。

 ぐちゅり、と嫌な音が耳にこびりつく。生肉に菜箸を刺した時のような音が、不規則に鳴り続ける。ぐちゅり、ぐちゅり、ぐちゅり。マットブラックの高級ボールペンが私の眼球をぐちゅぐちゅと掻き回しているのだ。

 少しして、先生は満足したらしくかき混ぜるのをやめた。引き抜いたボールペンには真っ赤なジェル状の何かが貼りついていた。

 痛みはないが左目が見えない。空っぽになった左目からはダラダラと赤いジェルが垂れ続けている。零れる血が鬱陶しくて、私は左の目があった部分を手で押さえた。


「ほら、少しはマシになったんじゃないか?」


 そう言って彼は消えた。

 何もない。辛うじて見える右目で見渡しても、そこには何もなかった。菊花も先生も、大鎌もボールペンもない。虚無だった。

 漆黒の闇だけだ。私の目の前にあるのは暗く、虚ろな闇。音さえも闇に消えたかのようで、滴り落ちる血の音しかしない。それはまるで……。


「まるで私のよう、ですか」


 背後から投げかけられた声が、私の心臓をきゅうと締めつけた。

 ゆっくりと振り返る。時計の秒針よりもずっとゆっくりと。


「ああ、可哀そう。全てが空っぽのお嬢様。死ぬのが怖いから虚構の自分を生み出して、それすら残念壊れちゃった。……全てが嘘、全てが偽り。必死で目を逸らしていたのに、結局逃げられなかったんですものね」


 鈴を転がすような澄んだ声、モデルみたいに綺麗な脚、しなやかな手。そして見間違えようのない、私を虜にした美しい表情かお。小夜だ。


「どうして、って顔をしていますね。まあちょっと考えればわかるんじゃないですか? お嬢様が小夜をそういう存在として認識しているだけですから」


 違う、小夜じゃない。私は直感でそう思った。

 本当の彼女はこんな抽象的な言い方をしない。私みたいに意地悪い言い方なんてするはずがないのだから。


「でも、それって押しつけじゃありませんか。お嬢様が小夜を定義づける権利なんてどこにあるんでしょう」


 理不尽だ。不条理だ。それが押しつけだと言うなら、皆が私に対してしていることも同じじゃないか。誰にも私を定義づけることなんてできやしないんだ。偽物だとか本物だとか、そんなの馬鹿馬鹿しい話じゃないか。


「ええ、その通りです」


 小夜の形をした誰かは笑みを湛えてと身を乗り出す。鼻と鼻がぶつかりそうなくらいの距離で見る笑顔は、恐ろしいほど美しかった。

 心臓が脈打つのを感じる。小夜じゃないとわかっているのに、私は彼女の微笑みから目を離せなかった。


「わかっていますか? 自分を自分たらしめるのは他人じゃない。それはいつだって自分なんですよ。思い出してみてください、あなたを偽物だと決めつけているのは誰? 過去の自分に一番囚われているのは?」


 小夜は腕を組み、見定めるように冷ややかな目をしていた。

 私を偽物だと決めつけている人物だって? それは皆だ。よってたかって今の私を否定する。私の気持ちなんて誰もわからないくせに、今だって小夜の姿を借りて私を追い詰めようとしているじゃない。

 何も間違っちゃいない。私は小夜を睨んだ。


「大外れ」


 その時、身体が揺れた。全身から力が抜けていく。そんなつもりはないのに、私は膝から崩れ落ちていた。

 おかしいな。意識はハッキリしているのに、どうして仰向けに倒れているのだろう。

 眼前には小夜の顔があって、どうやら彼女に押し倒されたみたいだとわかった。辛うじて見える右目で見渡すと、自分の腹から銀のテーブルナイフが生えているのが見える。彼女に刺されたのだと気づくには、少し時間がかかった。


「ホラ、ちゃんと見てくださいよ。

 誰があんたに過去を押しつけているのか?

 誰が君を偽物に仕立て上げたのか?

 そして誰があなたを殺めたのか」


 声にノイズが混じる。それは一言喋る毎にどんどん激しくなっていき、ついにはまともに聞き取ることすら困難なほどにまでなった。

 それはやがて私を包み込むように広がっていく。サラウンドでバイノーラルなノイズが、耳打ちをするみたいに一斉に囁き始める。


「オマエハニセモノダ」


 ノイズが言う。


「オマエハカラッポダ」


 ノイズが言う。


「ヌケガラダ」「イモムシダ」「ミノムシダ」


 ノイズが言う。ノイズが言う。ノイズが言う。


「バカダ」「キョムダ」「ムイミダ」「ムカチダ」「ウゴクニクカイダ」


 ノイズが言う。ノイズが言う。ノイズがノイズがノイズがノイズがノイズが!

 ノイズだ。こんなのは全部まやかしで、ただの雑音だ。


「ウソツキノクセニ」


 ノイズだ。


「シンデルクセニ」


 これもノイズ。


「ソウダロ」


 ノイズ。


「タダ ニゲテイルダケダ」

「イミナイノニネ」

「ドウセ ナニモ ナシトゲラレナインダ」


 ノイズだ雑音だ騒音だ。

 数多の声が私の鼓膜を犯す。それはまるで無数の手に責め立てられているかのようで、代わる代わる私の身体を這っていく。

 それは次第に一つのシルエットを描き出す。気づけば腹上の小夜は消えていて、代わりにシルエットが馬乗りになって私を見下ろしている。


「誰か、お願いです」


 シルエットが言った。それはもうノイズとは呼べない、人の声だった。


「誰だっていいんです。どうか私を救ってください。どうか私を解放してください」


 シルエットがまた言った。女の声だった。どこか聞き覚えのある声で、ぞわぞわという嫌悪感が掻き立てられる。


「嗚呼、誰かお願いです。いっそのこと一思いに、すっぱりと……」


 シルエットが色づいて、やがて人になった。それは私の知り合いの誰とも一致しない顔なのに、どういう訳か既視感があった。これまでに何度も見てきたような顔だった。

 彼女は泣いていた。涙を流し、嗚咽混じりの声で頻りに何かを乞うていた。


「殺してください」


 どろどろの顔でそう願うのだ。見てみろ、無細工で無様で哀れじゃないか。

 私は力なく笑った。

 わかってる。こんな風に取り繕うのは滑稽だし馬鹿らしい。

 彼女はまだ泣いている。


「どうかすっぱりと、私の生を終わらせてください」


 そればかりをずっと繰り返して泣いている。自分を責め続けてすべてを失った少女は、いつまでも泣き続けるだろう。

 そうだ。この少女は――。

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