第28話 前の"私"

「菊花ったら好き勝手言ってくれちゃってさー。今の私が哀れって、そりゃないでしょ」


 早口にそう言うも、小夜は素知らぬ顔をして「そうですか」と呟くだけ。


「つれないね。もっと優しくてもいいんじゃないの」

「小夜だって暇じゃありませんから。……それで、いつお電話なさるんですか?」


 寝転ぶ私に、小夜は急かすように携帯電話を差し出す。

 菊花が帰ってすぐのこと、小夜が私の電話も持って部屋に上がりこんできた。聞けば真下先生から着信があったらしいがすぐ切れてしまったらしい。


「あのね、ワン切りするようなケチンボにこっちから掛けてやる義理もないでしょ。こういうのは待ってればいいのよ」

「そういうものですか」

「そもそも用があって電話するのよ。反応がなければまたすぐに掛け直してくるわ」


 通話代をケチるために生徒から電話を掛けさせようとするとは、流石に〈魔の九階〉組だけのことはある。


「わかった? 次に先生から掛かってきたら全速力で応答するの。一泡吹かせてやりましょ」

「お嬢様がそう言うなら従いますが、今度からはナシですよ」

「そうかい、こっちもケチンボだ」


 そんなことありませんよ、と小夜は咳混じりに嫌な顔をする。


「そもそも忙しいって、何の忙しさ? 家事じゃないでしょう」

「家事ですよ。炊事洗濯掃除……、お嬢様の世話をしながらでは終わりませんわ」

「その割には最近よく出かけてるじゃないの」

「買い物ですよ。まさか食材が冷蔵庫から勝手に湧くとでも?」


 はぐらかす小夜の横顔は、どこか悪戯めいた笑みをしていた。釈然としない気持ちでそれを見ていると、突如電話の着信音が鳴った。椎名林檎の『歌舞伎町の女王』だ。


「ちょっと、出てよ」

「いえ、前にカラオケで歌ってたなあと思いまして。それにワン切りかどうかもわかりませんでしたから」

「ええ、そうですわね。ほら出て」


 歌い出しに掛かろうかというところで、ようやく小夜が電話に出る。二言三言、言葉を交わしてから電話を私の口元に差し出した。


「やあ君か。繋がってよかったよ」


 スピーカーから聞こえた声は真下先生のものだった。


「ご機嫌麗しゅう、先生」

「あれから一年だろう。生きてるかどうか気になってね」

「さて、どうでしょう」


 先生とはしばらく会っていない。それこそ一年ぶりくらいに声を聞くくらいだ。


「聞いたよ。もう手が動かないんだって?」

「足もですね。どっちもダメです」

「そうか、じゃあ一年ずっと寝たきり?」

「そうなりますね」


 それから少しの間、私たちは世間話に花を咲かせた。世間話といっても殆どは先生の話題だ。教え子の論文が酷いとか、奥さんから離婚を切り出されたりとかっていう、私にとってはどうでもいい話ばかり。

 そんな下らないお喋りでも意外に時間は潰せるようで、気づけば三十分も電話をしていた。〈魔の九階〉組の変人とはいえ、一年も会わなければ会話も弾む。


「覇気がないね」

「はい?」

「声だよ。声に覇気がない」


 そんな楽しい会話の最中、先生が急にそんなことを言い出した。


「どういう意味でしょう」

「一年ぶりだからだろうね。以前の君とは全然違うような気がしたんだ。……まあマイナスの意味でだけど」

「酷いな。私だって……」

「酷いもんか。どうせ拗ねてダラけてたんじゃないのかい」

「まさか」


 同じような話を菊花としたばかりだったから、私はやや不愉快だった。

 覇気。溢れる意気込みとかオーラみたいな意味だったと記憶している。二人が言うには、以前の私には備わっていたソレが今の私にはないらしい。

 余計なお世話だ。そんな腹立たしさを腹の内に抑え、私は小さく舌打ちをする。


「ダラけてたんじゃないわ。それに拗ねてる訳でもない」

「じゃあなんなんだい」

「つまりね、今の私は高校生の頃の時分と同じなの。肌にナイフを突き立てて血を見ることだけが楽しみの、無気力さと虚無感に覆われたあの頃と」

「前に言っていた?」

「そう」


 彼らが美化している以前の私は本当の私ではない。焦りが生んだ虚構の人格だ。元々空っぽだった身体に、偽の魂が宿っただけじゃないか。それは偽物の私だ。

 嘘で塗り固められた人格を求めるなんて無意味だ。無駄な努力だ。だって誰かが期待していた私はそこにはいない。抜け殻になった肉体に「あの頃のお前はどこへ行った」と責めても空しいだけだろう?

 濁った瞳に光は灯らず、ただ朽ちていくだけだ。全ては元に戻るだけ。地球がそうして循環していくように、私もまた朽ちよう。


「結局私は私なの。ちょっとしたきっかけでハイになっていただけ。私の本質っていうのは、ただの鬱屈とした肉塊だ」

「そうかい」


 ノイズが走る。マイクに息を吹きかけた時のような音。


「なんです、そんな素っ気ない」

「いや、それなら僕が君に感じた情熱は嘘ってことになるな」

「嘘?」

「君がそう言ったんだろ?」


――そうだ。あんなのは嘘に嘘を重ねた偽物だ、私じゃない。

 言おうとした。いつも通りヘラヘラとした口調で、なんてことのないように言おうとした。信じたあんたは大馬鹿者だ、って大笑いしてやりたかった。言えなかった。

 言いたいのに言えなくて、でもそんな自分にどこかホッとしている。全てを失って、自分すらもかなぐり捨てたかったのに、それができなかったことが嬉しかった。


「そう……そうなのかしら」


 わからない。困惑が頭を支配し、曖昧な言葉だけが口を動かした。


「そうだろう。君の本質がそんなならね」

「いいよ。先生がそうしたいならそれで」

「君がどうしたいかだろ。やっぱり拗ねてるんだよ」


 何も言い返せなかった。それとも彼の嫌味に反応する余裕もなかったのか。小さな疑問が、彼の言葉をきっかけにふと湧いた。

 私は何がしたいのだろう。


「そうか。だから君は研究をやめたんだな」


 先生の納得したような声が、朧気に霞む頭に響く。


「だから、身体のこともあるんですよ」

「小夜さんに協力してもらえばいい。実験も執筆も、彼女に頼めばいいじゃないか」

「駄目ですよ。そんな危険はさせられない」

「いいや、前の君ならやらせたね。被験者が君のままでも彼女に介護してもらえばできるだろう。それに執筆なんて口頭で伝えればいい」

「また前の私……」


 一体誰の話をしているのだろう。偽物の私か本物の私か、それとも私ではない誰かか。

 黙りこくっていると先生は呆れたようなため息を吐いた。


「腑抜けたな。小夜さんも頑張ってくれているというのに、君は……」

「小夜? 小夜がどうしたんです」

「聞いてないのかい。小夜さん、最近……」


 その時ふと、先生の声が遠ざかってやがて聞こえなくなった。目線を上げると、小夜が電話口で何やら言っていた。小夜が電話を取り上げたのだと気づくには時間がかかった。


「どうしたの」

「すみません、電話代が気になってしまって」

「掛けてきたのは向こうだよ」

「そうでしたか?」


 有無を言わせないような鋭い視線が私を刺す。私はそれ以上何も言えなくて、そっと寝返りをうった。


「それではお食事の支度がありますので」


 そう言って小夜は部屋を出て行く。扉を閉める音はいつもより大きかった。扉に煽られた孤独な寒風が、私の顔をそよいで消える。

 ふと思いついて外を見ると、と小雨が降っていた。それはまるで今の私を表しているようで、妙に悲しげに映った。

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