第27話 神も仏も……
退屈とは人間の精神を殺すに際して最も有効な凶器である。血沸き肉躍るような物語も手に汗握るような体験もない人生など退屈の極みだ。即ち自らそのような物事を得ようとしない限り、自らの首を絞めているのと同じことなのだ。
今の私がそうだ。這いずることさえできない芋虫と化した私は、如何なる刺激を享受することも叶わない。
まあ自宅療養なんてそんなものだ。つまらない日々をただ平穏に過ごす。それが私に課せられた罰だ。
「酒も煙草もありゃしない。絶望だよ」
「神も仏も、じゃないのね」
くくく、と菊花が笑った。今日は私服だ。
「だって本当に何にもできないんだ。携帯電話も弄れないし本も読めない。小腹が空いてもお菓子を持ってくることすらできないんだぜ」
「つまり暇なんだろ」
「そう。アルコールとニコチンは退屈の特効薬だけど、それすらできないんじゃ救えない」
「ああ、ホント。
わかってくれたか、と抱きしめてやりたかったが生憎と両手が動かない。私は布団にくるまったまま、意味深な顔をして頷いた。
私が現世に戻って以来、菊花は事あるごとに私の部屋を訪ねてくる。その理由は専ら『お見舞い』らしいが、今のところお土産の一つでも持ってきた試しはない。今日も勝手に私の椅子に座り、煙管を咥えて吹かしている。
どうせ暇つぶしだ。暇を持て余しているのはお互い様だけど少し腹立たしい。
「というかあんた、そんな身体で食事はどうしてんのさ」
「小夜だよ。食べるのも着替えるのも風呂に入るのも全部」
「えー、凄い。どんな感じなの?」
寝たきりの女に何を要求するというのか、菊花は期待に満ちた顔をする。
「こんなんで表現できる訳ないでしょ」
「気になるわ。あんたが大人しくお人形さんみたいになってんでしょ。見てみたい」
「ユーチューブで検索しなさいな。好きなだけ見れますわ」
「嫌だよ。どうせジジババの排泄シーンばっかり映ってるんじゃないか?」
「御名答」
まあ嘘だ。まだ二十歳なのに誰が介護の動画など見るというのか。それもされる側だぞ。どう見たって嘘っぱちだ。
菊花はわかっているのかいないのか、煙管片手に笑っている。
「ずりーよ。自分だけ吸いおってからに」
「なんだよ、吸うか?」
「嗚呼、菊花様。地獄に仏とはこのことですわ」
自分一人じゃ火を点けることすらできないのに、小夜は頑なに煙草を吸わせてくれない。もう一年もブラックデビルのフレーバーを感じていないのだ。酒もそうだ。ブランデーもハイボールもチューハイすら、小夜は許してくれていない。
そういう訳で菊花が差し出してくれた煙管は、まさに地獄に仏。私の溜まりに溜まった喫煙欲を素晴らしく満たしてくれる。
「いいね、最高」
「そうだろ、手巻きのブラックデビルだよ。懐かしいか?」
「どうりで」
久々のブラックデビルだ。じっくりと味わいたかったけれど、肺に雪崩れ込んだ煙がそれをさせてくれなかった。濁った咳が部屋に響く。
「老いかな」
ひとしきり咳をしてから言った。
「吸い過ぎなんだよ。過去の自分を恨むんだね」
「いやホント。ろくでもないね」
菊花は煙管の火皿に残った灰を捨て、軽く拭いてから胸元にしまう。ポケットの類が見受けられないのに、一体どうやってしまっているのか。
本人に聞くと雑にはぐらかされた上、「あんたにゃ無理とだけ言うよ」と馬鹿にされた。腕さえ動けば部屋から摘まみ出しているところだ。
コホンと咳をして、菊花が席を立った。
「あら、もう帰る?」
「最近蓮華様が厳しいんだ。こうして現世に出てばかりだと人間に情が沸いてしまうんだと。……ま、完全に那由多のせいだな」
苦笑する彼女の顔に、僅かばかりの憂いが混じる。
「一人前の死神になりなさいって?」
「そうなのよ。人が死んだくらいで一々泣かれてちゃ敵わないってね」
「だと思った。菊花は泣き虫だもんな」
「あんたもだろ」
カラカラと声をあげて笑っていたら菊花はどうしてか悲しい顔をしていた。それをからかってやると「あんたも同じだ」なんて生意気な口を利く。
「ああ、でも寂しくなるね」
「何が?」
「だって一人前になっちゃったら、私が死んでも泣いてくれないんでしょう」
年寄りみたいな台詞を吐く自分に思わず苦笑いする。
「ムカつくなあ……。絶対泣いてやらないわ」
透き通るような金髪をぐしゃぐしゃに掻いて、菊花は言った。
「勝手に寂しがってなよ。絶対泣かないからな」
「そっか。じゃあ安心だ」
「安心?」
「友達が一人前になったら嬉しいでしょ?」
菊花は何も言わなかった。ただ照れくさそうに顔を伏せるだけだ。
馬鹿だな、そんな風にされたらこっちまで恥ずかしくなってくるのに。
「……帰るよ」
顔を背けたまま、菊花は窓枠に足をかける。
「待った。窓から出てくつもり?」
「そうだけど」
「勘弁してよ。私一人じゃ閉められないんだから」
「それもそうだ」
窓から離れると、菊花はまた私の椅子に座った。
「なんだよ、帰らないの?」
「いや、聞きそびれたことが一個」
わざわざ指を一本立ててそう聞いた。
「〈地獄行き〉はもうしないのかい」
「ばーか。するしないの話じゃないわ、こんな身体で……」
「違うんだ。あたしが聞きたいのは、あんたにその意思があるのかってこと」
私はもう死んだ人間で、何もない。それはつまり意思すらもないという訳で、だから彼女の質問は見当違いだった。
それでも菊花は諦めるつもりはないみたいで、不満げな顔を覗かせる。
「あたしはあんたの〈地獄行き〉をどうしても止めたかった。それは単にあんたが苦しむのを見たくなかったからなんだけど、最近あんたを見てるとまた別の感情が浮かんでくるんだ」
「別のって?」
「哀れみ。あんたのその、覇気のない目を見てると思うんだ。あんなに生き生きしていたコイツが、どうしてこんなになっちゃうんだって」
「さあ」
「それで気づいたんだ。あたしは〈地獄行き〉をするあんたを心配すると同時に、どこか憧れに近い感情を抱いていたんだとね」
「冗談」
「ホントだって」
唇を尖らせる菊花。
そんなの今更だ。だってそれは今の私じゃない。過去の壊れた思い出に縋ったって、なんの救いにもなりやしない。実験もできず論文も書けないなら、私にはもう価値がない。生きる意味だってありゃしないんだ。
「今のあんたを見てると悲しくなる。……まあ、それで聞いただけだよ」
しみじみと言う菊花の顔から目を逸らす。別につられて悲しくなったんじゃない。ただ申し訳なかった。彼女が私に抱いてくれている感情に対して報いることができなくて、それが単に申し訳なかったのだ。
「こうなってもう一年だ。慣れたよ」
「嘘」
「ホントさ」
部屋の扉が開く音がした。フローリングを踏む足音が二度して、止まる。
「わかったよ、わからず屋」
しばらく音が消えた。何気なく扉の方を見ると、既にそこに菊花はいなかった。
「閉めろって言ったじゃん」
開け放たれた扉を見てそうぼやいた。
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