第26話 プルガトリオの囚人

「ねえ小夜。幸福の条件ってなんだと思う?」


 煌々と輝く太陽に目を細め、私は言った。


「さあ。小夜はあまり深く考えたことはありません」

「そう」


 真冬の昼下がりは心地良さとは程遠い。照りつける日光でじりじりと肌を焼かれ、吹きつける寒風がそれを一気に冷ましていく。熱気と寒波が同時に襲い来るのだ。

 御茶ノ水駅を歩く通行人たちも、オータムファッションに毛が生えたくらいの薄着をしている。どうせ夜には皆凍えるのだろう。


「お嬢様」


 ゆっくりとスライドしていく景色を見ていると、小夜が言った。


「何さ」

「こうしてお嬢様が生きていてくれていることが、小夜にとっての幸せですよ」

「こんな状態でも?」

「贅沢は言えませんから」

「言うねえ」


 そう笑ってから、改めて自分の身体を眺めた。

 力が抜けたようにだらんと垂れた両腕、細く骨ばった両足。車椅子に座らされて、自由に出歩くことも叶わないこの身体で幸せだと思える程、私は強くなかった。


「まあいいか。そう思ってないとセンセにまた怒られるわ」


 小夜はくすくすと同調するように笑った。

 私はそれで以前センセに言われたことを思い出す。


『どうにかしてくれだって? 自業自得だろ、それ』


 あの時、センセはそう冷たく言い放った。私は彼に反発するような気力もなく、ただ黙って俯くことしかできなかった。

 もう一年も前になるか。私は菊花の力を借りて現世に帰ってきた。成功確率は低かったようだが、無事に目を覚ますことができた。それは確率論上で言えばかなりの幸運だったが、その時の私にそういう理論的な思考はできなかった。

 目を覚ましてすぐ、私は小夜の姿を探した。彼女に会いたい。会って、一言でいいから言葉を交わしたい。そう思って仰向けになった身体を起こそうとする。

 だが無理だった。不思議と身体に力が入らないのだ。手足を動かそうとしても動かない。指先一つ動かなかった。

 まるで血が通っていない、マネキンになってしまったような気分だった。


「小夜!」


 私は小夜の名を呼んだ。それは彼女に会いたい一心からじゃない。単にこの不安をどうにかして打ち消して欲しかった。

 私の声が聞こえたのか、看護服を着た女が慌てた様子でドアを開けた。そこでようやく、ここが病院の病室であることに気づいた。

 彼女は私に意識があることを確認すると、すぐにまた消えた。先生先生と叫びながら廊下を駆ける様子はどこか滑稽に見えた。

 それから一分もしないうちに、また病室のドアが開いた。


「起きたか」


 難しい顔をして、センセがベッド横の椅子に座る。


「センセ……」

「やってくれたなあ。飛び降り、リスカ、挙句の果てには練炭自殺か」

「御託はいいよ。そんなことより小夜……小夜はどこ?」

「今、夜中の三時。連絡は看護師が入れてるけど、気づきはしないだろうな」

「ねえセンセ。私、どうなっちゃったの?」

「なんだよ聞きたいの? いつも言うなって怒るクセに」


 彼は終始怒っているような表情をしていた。いつもはお茶らけた調子で笑っているのに、そのギャップが私を苛む。

 センセはカルテを取り出し、それに目を落とした。冷ややかな視線が私から逸れて、そっと安堵する。


「一酸化炭素中毒はわかるだろ。お前がやった練炭自殺の本質だ。お前は密室でそれを吸い過ぎてここに運ばれたんだ」

「それ、小夜が?」

「ああ。血相変えてどうしたんだと思ったら、これだ。まあただの一酸化炭素中毒なら、酸素さえ吸わせてりゃよかったんだが……」


 彼は一度、そこで言葉を切った。胸ポケットのボールペンを二度三度回し、またしまう。


「筋萎縮性側索硬化症……まあ言ってもわかんねえか。多分その亜種だな」

「何それ」

「脳の障害の一つだよ。筋肉に対してする命令ができなくなってる状態。簡単に言えば、お前の手足は一生そのまんまって訳」


 金槌で思い切り殴られた気分だった。眩暈がして頭を抱えたくなる。まあ、それすらできなかったんだけど。


「冗談でしょ?」

「俺からしたらお前の行動の方が冗談に見えるがな。世の中を舐め過ぎたツケが来たんだよ」


 重度の一酸化炭素中毒は脳神経に悪影響を及ぼすらしい。私のこの症状は、恐らくそれが悪化し過ぎた結果なのだろう。脳にできた腫瘍のせいかもしれない、とセンセは言う。


「理不尽だよ」


 だってそうじゃないか。生まれつき身体が弱くて、その上腫瘍ができたせいで寿命まで短くなった。それでも一生懸命に生きていたら、今度は手足が動かないって?

 一生このままだなんて酷過ぎる。あんまりじゃないか。たとえ二年も保たない身体といえど、こんなのあんまりじゃないか。


「こうなるってわからなかったか? お前の選んだ道は、どうしたってこういう結果に繋がってたんだよ。大人しく暮らしていれば避けられた結果だよ」

「でも……誰も言ってくれなかったよ。夢も叶えられない、こんな悲惨な結末になるなんて誰も……」

「ちょっと考えればわかることだ。いや、考えるまでもないかもな」


 それだけ言うと、放心した私を置いてセンセは部屋を出た。

 結局、私は現実を見ていなかったのだ。視線の先に成功した未来の幻想を置いて、現実から目を背けてきた。きっと上手くいく、きっと上手くいくと自分に言い聞かせてきたのだ。

 そんな根拠のない自信を幾重にも積み重ねてきた。実を結ぶかもわからない危険な実験に身を投げ、魂が壊れるかもしれないのに現世に戻ろうとする。それは僅かな可能性に賭けているんじゃない、ただの希望的観測に縋る愚者だ。

 だからセンセは私を突き放したのだろう。現実を見ろ、と半ば無理矢理目を覚まさせようとしたのだ。

 でも小夜は違った。彼女は私を見捨てなかった。あれから一年が経った今でも、芋虫みたいになった私を掴んで離さない。

 それは私にとって救いでもあったし、ある意味呪いでもあった。小夜の期待するような目が私を勇気づけてくれることもあれば、逆に針に刺されたように感じることもあった。

 私は抜け殻だ。本当の私は一年前に既に死んでいて、身体だけがここにある。

 可能性なんて残されていない、ただ呼吸して食事して排泄するだけの物体。アイデンティティなどとうに失われていて、ここに存在する意義すら見出せない。抜け殻は大人しく有機体としての役割を終えるべきなのに、こうして意地汚く生き残ってしまった。それを理解できてしまっているからこそ苦痛だった。


「あら、サンタさん……」


 キィ、と音がして車椅子が停止する。ふと前を見ると、紅白のサンタ衣装を着た数名の若者が風船を配っているのが見えた。


「もうすぐクリスマスですね」

「そんな時期だったかしら」

「ええ。あと一週間もすれば、みんな大きな靴下を用意し始めるでしょうね」


 クリスマスイヴの夜にはサンタがやってきて、靴下にプレゼントを詰めてくれる。世界中の子供達が切望するクリスマスが今年も訪れるのだ。


「小夜は何か欲しいものでもあるの?」

「いえ。ただこういう催し事ってワクワクしませんか」

「ああ、そうかもね」


 あからさまな空返事をしても小夜は何も言わなかった。それどころか私に向けてそっと微笑むと、何事もなかったかのように車椅子を押し始める。

 虚無だ。私の心には何もない。小夜の笑顔を見ても、もう何も感じることができない。私の目はただ眼前の事象を追うだけで、何も見ていないのだ。だから虚無。どんなに取り繕うとしても存在していないのと同じだ。

 これはいつまで続くのだろう。ふとそう考えることがある。

 天国にも地獄にも行けず、苦しみ続けるなんてまるで煉獄プルガトリオに囚われているかのよう。

 煉獄の罪人は、いつか罪を浄化して天国にいけるだろう。だが私は? この永遠にも思える責め苦を受けながら、地獄へと送られるのを待たなければならない。希望なんてない、拷問のような執行猶予。

 嗚呼どうか、どうか私を解放してくれないだろうか。誰だっていい。いっそのこと一思いに、すっぱりと私の生を終わらせてくれ。


「そろそろ帰りましょうか。今度はお洋服でも見に行きましょう」


 小夜は変わらず先の話ばかりする。クリスマスだとか次の出掛ける日程だとか、そういうのばかり。

 どうせその時まで私は生きているのだろう。そしてそれからもずっと。天命を迎えるまで、私はいつまでもプルガトリオの囚人なのだ。

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