第24話 小夜

「それでいいのですか」


 その時だ。背後から厳めしく且つ柔らかい少女の声がした。私たちは二人して振り返り、その場にいた人物に驚いた。

 地獄の最高裁判長、閻魔王の蓮華がそこに立っていたのだ。


「蓮華様? この時間は裁判の予定では」

「そんなの投げてきたに決まってるでしょう」


 さりげなく凄いことを言う蓮華に、私は開いた口が塞がらなかった。


「地獄には素晴らしい制度がありましてね。私くらいになれば当日に有給を取得するくらい容易なのですよ」


 蓮華は得意げな顔をして微笑む。


「それで何の用ですか」

「ああ、お前が遂に死んだと菊花から報告を受けたものですから、つい。お前の行く末は私も興味があります」

「興味本位ですか」

「いけませんか?」


 臆面もなくそう言うものだから、私はそれ以上言い返す気にもならなかった。


「行く末だなんて……ここですよ。これ以上、何もできやしないんだから」

「それは変ですね。あなたにはまだ可能性が残されているでしょう」


 不愉快な笑みだ。彼女の言葉と笑みに込められた厭味ったらしい空気を、私はそう感じていた。そんな可能性、私はとうに捨て去ったのに。

 隣で聞いていた菊花はハッとして、


「可能性って、蓮華様! まさか彼女を戻せと言うのですか」

「そうは言ってないわ。選ぶのは彼女。私はただ聞いているだけですよ。……それで、どうなのです。お前はこれでいいのですか? こんな中途半端なところで全てを諦めて、足掻くことすらせず死んでいくと?」

「うるさい!」


 自分でも驚く程の声量が喉を震わせた。


「知らないよそんなの。だって怖いんだ。怖いんだから仕方ないじゃないか」

「怖い? 何が怖いというのですか」

「死ぬことさ! 私は死ぬのが怖い。何よりも何よりも怖いんだよ」


 ずっと心の内にあった、けど気にしないようにしてきた私の呪い。死にたくない、まだ生きていたい、そんな思いが二十年あまりの時間をかけて濃縮されてきた。

 他人と同じように生きることすら許されず、平均寿命に嫉妬して、街で笑う若者の集団が憎くて憎くて仕方がなかった。自分の親が憎かった。病気が憎かった。そして自分自身が憎かった。世の中の全てが敵だと思っていた。

 そんな負の感情も全て、私の中に眠る死への恐怖が引き出したものだ。呪いは長い時間をかけて全身を巡り、そして今、死を前にして私自身を喰い殺そうとしている。

 そんな悲痛な叫びを聞いて、蓮華はまるで興味を失ったかのように鼻を鳴らす。


「そうですか」


 一言、そう呟いて踵を返した。


「蓮華様、どこへ……」

「決まっているでしょう、自宅ですよ。折角の有給を無駄にできませんから」


 蓮華は一度振り向き、項垂れる私を見た。軽蔑の眼差しが深々と突き刺さる。


「がっかりですよ。私はお前が真に人間らしい、充実した人生を送ってくれるものと信じていましたのに。僅かでも可能性があればそれに縋りつく、そんな意地汚さすら力に変えるのがお前という人間だったはずです。でも所詮は他の人間と同じ、ただの臆病者でしたね」

「どうとでも言ってくださいよ。私はもう死んだ身らしいですから」


 不貞腐れているのではない。ただの事実だ。そんなのわかり切っている筈なのに、蓮華は自分勝手に言葉をぶつけてくるのだ。それがたまらなく不快だった。

 ふと、蓮華が足を止めた。


「ああ、一つ言い忘れていたことがありました」

「何です」

「お前の付き人……小夜と言いましたか。彼女、心配していましたよ」


 ズキン、とどこかが痛んだ。


「……何でわかるんだよ」

「閻魔ですから」


 彼女はまた厭らしい笑みを浮かべて、そのまま立ち去った。


「ああもう。答えになってないだろ」


 むしゃくしゃして地面の石を腕で薙ぐ。それでも収まらないので、私は頭を思い切り掻いた。

 上から目線で適当なことばかり言って、勝手に失望されてちゃ敵わない。あんな風に言われたら相手が閻魔だろうがなんだろうがムカついて仕方ない。好きにほざけよ、私は精一杯やったんだ。それでこの程度の結果だったんだ。

 それでもどういう訳だろう、私の胸の内に湧くのは怒りなんかよりも悲しみの方が大きかったのだ。

 それは恐らく、あの糞閻魔の去り際の言葉のせい。


「小夜……」


 一度その名を口に出してしまったら、もう止まらなかった。とっくのとうに涸れたと思っていた涙が、両目からボロボロと零れだす。


「大丈夫?」

「別に、大したことじゃないよ」

「そうかい」


 菊花は静かに私の肩を抱き、そっと身を寄せる。

 彼女の胸に顔を埋め、わんわん泣いた。柔らかくて温かくて、それが小夜を思い出させたからか、また更に泣いた。


「ねえ菊花」

「……何だい」

「私、やっぱり辛いよ。あの子に……小夜に何も言えないまま死んじゃうなんて嫌だよ。後悔したまま死にたくなんかないよ」

「そうかい、そうだろうね……」


 背中を擦る菊花の手は微かに震えていた。

 それから暫く、三途の川の畔で私たちは泣いた。互いの顔を見て変な顔だと笑いつつ、涙を流した。

 いい加減泣き疲れてきた頃、私は菊花の手を解いて立った。


「菊花、一つ頼みがあるんだ」


 言うと、菊花は内容を察したのか俯いた。


「わかってるよ。現世に戻してくれ、だろ」

「流石。話が早い」

「戻ってどうするつもり?」

「……さあ。まだ決めてない」


 これから先、まだ実験を続けるか、それとも静かに暮らすことを選ぶか。そんなの今すぐには決められない。そもそも無事に現世に戻れるかすらあやふやなのだ。

 ただ、私はあの閻魔の言葉を忘れることができなかった。無視なんてできないくらい、彼女の言葉がべっとりと心にこびりついて離れない。


「これからどうするかなんて決められないよ。私はただ、小夜に会いたいだけなのかも」

「そんな心持ちでいいのかい。ひょっとしたら魂が壊れてなくなっちゃうかもしれないんだぞ? ここに留まっていれば、まだ……」


 菊花の言うこともわかる。どうせ死ぬのならそちらの方がマシだ。

 だがどうしてだろう。私はこんな状況に陥ってもまだ、冒険的な選択肢を選ぶ人間のようだ。死ぬのが怖いと言っておきながら、少しでも可能性があるならという思考をする。それはもしかしたら蓮華に焚きつけられたからかもしれないし、そういう人間性だったからなのかもしれない。ただ結論は同じだ。

 小夜に会いたい。今はただ、それしか考えられなかった。


「あたしは責任持たないからな。どうなったって知らないぞ」

「わかってるって」

「そう言ってまた、こんな筈じゃなかったって喚くんじゃないだろうな」

「言う暇もないでしょ、多分」


 そう言うと菊花は目を背けた。一瞬だけ見えた彼女の頬には、一筋の涙が走っていた。


「もしこれで私が消えてなくなったら、小夜によろしく伝えてね。そうじゃなきゃ、死んでも死にきれない」

「そういうのは自分でやりなさいよ。あたしは責任持たないっての」

「……そうだね」


 背中に菊花の温もりを感じる。ふっと意識が薄れ始めた。


「さ、やるよ」

「一思いにね」

「そういう訳にはいかない」


 泣きながら微笑む菊花の顔が、今はとても頼もしく感じた。

 意識が消える。何故だろう、恐怖はない。ただ小夜に会いたいという想いだけが、私の中で渦巻いていた。

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