第23話 <地獄行き>

 一体どれくらいそうしていただろう。気づけば涙も涸れ果てて嗚咽だけが辺りに響き渡っていた。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を手の甲で拭う。


「汚いな」


 菊花がそう言うので、私は仕方なく三途の川で手を洗った。思ったよりも流れが速く、鼻水たちが物凄い勢いで流されていく。


「気をつけなよ、その川は罪人の罪の重さに比例して速くなるんだ。もし落ちたらもみくちゃにされて身体中の肉が削がれるぞ」

「先言えよ」

「いやあ、知ってるかと」

「知るもんかい」


 そういや文献でそんな話を見たなあ、とぼやけた記憶を辿る。曰く川の中にある岩に身体が当たって次第次第に肉が削れていくそうな。それでも魂だけの人間は死ぬことさえできず、永遠に苦しみ続けるらしい。おお恐。

 そんなことを考えていたら、私はくすくすと小さな声で笑っていた。心なしか頬が痛い。随分と長いこと笑っていなかったみたいに表情筋が痛んだ。


「落ち着いた?」


 笑みを漏らす私に菊花が言った。


「お陰様で」

「そうそう、その調子」

「茶化すなよ」


 にやけ顔のまま言い返すと、菊花もつられて笑っていた。くくく、という性格の悪そうないつもの笑い方だ。


「酷いな。いつもそんな風に思ってたの」

「悔しかったらもっと豪快に笑うなり、お淑やかに笑うなりしなさいな」

「ムカつくなあ」


 悪態を吐く菊花を余所に、私は大きく伸びをした。すると身体中からボキボキと音がして、どこか不思議な気分だった。ここにあるのは私の魂の筈なのに、どうしてこんなに『生きている』って感じがするのだろう。


「簡単だよ。そういうのはイメージなんだ。あんたがそう感じるってことは、きっと『死んだ』って実感がないからだろうね」


 菊花に聞くとそんな答えが返ってきた。魂というのは精神の影響を深く受けるから、結局は心の持ちようらしい。


「本来、地獄に来た時点で肉体に戻ることは難しいんだ。今まであんたが現世で無茶しても帰ることができたのは、その鈍感さのお陰さね」

「じゃあ、こうやって痛みを感じている間なら現世に帰ることは可能ってこと」

「ああ。今だってあんたを肉体に帰すことは可能だよ」


 菊花は事もなげにそう言った。


「ああ、勘違いするなよ。あんたを現世に帰さないのは、そっちの方があんたにとって幸せだからなんだぜ」

「幸せ?」

「ああ。確かにあたしなら、あんたの目を醒まさせることは可能さ。植物状態ってのは大脳が機能を失った状態のことで、それはつまり魂が抜け落ちちまってる状態だ」


 魂が抜け落ちている状態……それはいつもの〈地獄行き〉と何が違うと言うのだろう。

 私からしてみると、菊花が無理に話を紛らわしくしているようにしか思えなかった。


「聞けよ。そもそもどうして魂が大脳から離れたかわかるか? そりゃ機能が損傷したからだ。そして壊れたままの器に魂を無理矢理入れようとしたらどうなるか」

「……どうなるの」

「言わせる気? 壊れるんだよ、魂そのものも」


 そう言って菊花は河原の石を拾い、水切りの要領で三途の川目掛けて投げた。二度三度と川面を跳ねたと思えば、すぐに水中に沈む。激流に飲まれ、そのまま視界の外へと消えていった。


「わかったろ。魂が壊れたらそれで終わりだ。永遠の責め苦があんたを襲うぞ」


 壊れたテープレコーダーにカセットテープを入れるとどうなるか。大抵の場合、テープは飲み込まれたまま再生すらできず、取り出すことも叶わないだろう。イジェクトボタンすら受けつけず、結局機械ごと捨てるしかない。

 同じことだ。壊れた身体に魂を入れて無事に再生できるなんて、考え自体が愚かしい。


「でも嫌だよ、あんまりだ。このまま黙って裁判を待つだけだなんて、あまりにも無意味で無価値だ。結局私は何もできなくって……」

「その道を選んだのはあんただ。忠告したろ、散々」

「そうだね。菊花はずっとそう言ってくれてた。それを無視したのは私で、これは当然の報いってことか」


 私は今後も〈地獄行き〉を続け、やがてその末に死ぬ。彼女の言った通りだ。運命を無視することはできず、未来はそこに収束する。


「怖いか」

「怖いよ、私は強くないから。精一杯生きたって胸張れる程、自分に自信が持てないから」


 これまでの人生で私がしたことなんて、死にたくないと泣き喚いていただけ。自殺のフリばかり上手くなって、閻魔様にコネがあるだけのただの小娘だ。


「ねえ菊花。やっぱり戻るのって駄目だよね」

「九分九厘アウトってとこ。やめとけよ」

「そう、そうなの」


 それじゃ本当に死んだようなものだ。いや、最初からそう言っていたか。


「……ごめん」

「何であんたが謝るのさ」

「友達の言うこと、もっと信用するべきだったなって」

「やめろよ、そういうの。こんなんだから人死には嫌なんだ」

「ごめんって」


 私はケラケラと声を上げて笑った。それを菊花が同情するような目で見るものだから、私は何だか空回りしているみたいに思えてやめた。


「ねえ、裁判が終わったらどうなるの」

「なんだよ急に」

「ちょっと気になってさ」

「あそ」


 つれないなあ、と小声で呟く。


「あんたの場合、地獄行きは確定だな。どこの地獄に送られるかはわからないけど」

「やっぱきつい?」

「地獄だからな」

「嫌ねえ」

「ま、運が良ければ閻魔様のお付き人になれるかもな。今人員不足みたいだし」

「あまり期待しないでおくわ」


 蓮華の付き人になった自分を想像して、やめた。あの人といると煙草休憩すらできそうにないだろうから、きっとストレスで死んでしまう。

 菊花にも私が考えていることが伝わったのか、口元に笑みを湛えている。

 そうして馬鹿話ばかりしていたら少しは気が紛れるような気がした。前みたいに菊花と話しているとやはり落ち着くし、楽しい気分にさえなる。それでもふとした拍子に涙が溢れそうになるのは、一体どういう訳なんだろう。


「そりゃ後悔してんだよ。あんたの中で、やっぱりまだやりきれない想いがあるのさ」

「後悔、か」

「前にも聞いたことあったね。現世に未練あんのかって」

「ああ、そうだっけ……」

「そうさ」


 後悔なんていくらでもある。研究を達成できなかったこともそうだし、酒や煙草をもっと嗜みたかった。

 それだけじゃない。私にはもっと大切なことがあったじゃないか。


「小夜」

「……それって、例の?」


 コクリと小さく頷く。


「あの子にはずっと迷惑を掛けてきたし、それに今だって心配してるわ。私の我儘にいつも付き合ってくれてたあの子と、せめて最期に話をしたかった……」

「無理とは言わないさ。でも危険すぎる」

「そう、そうよね。これだってただの我儘だわ。気にしないで」


 死者は何も言わず、ただ死にゆくのみ。誰だって少なからず現世を悔いるのだ。最期の時くらい、潔く諦めるのが道理じゃないか。

 まあ、そうやって割り切れる程私は強くない。だからこうやって、菊花にも見られないように涙を隠すのだ。

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