第22話 覚悟だなんて嘘ばっか

 目を開くと見慣れた彼岸花が私を迎えた。川のせせらぎや小鳥の囀が鼓膜を震わせて、川面に反射する夕陽が目を灼く。さっきまでの殺風景な部屋はなく、優美で幻想的な空間が広がっていた。

 一瞬の混乱の後、気づく。

 あの世だ。あの実験で私は地獄に送られたのだ。

 私は焦った。今すぐ裁判所に出向いて菊花に会わなければならない。どうにか彼女に頼み込んで現世に送り返してもらうのだ。

 このまま私の肉体を放置していたら、もう実験などと言っていられなくなるかもしれない。焦りは次第に恐怖となり、身体を動かす動力となった。


「よう」


 その時、駆け出そうとする私を呼び止める声があった。驚いてそちらを見ると、声の主は煙管を吹かしながら退屈そうに私の顔を見つめている。

 糸杉菊花、死神だ。


「き、菊花!」

「なんだよ、そんな慌てて」


 丁度いいなんてものじゃない。私は彼女に抱きつくくらいの勢いで駆け寄った。そんな私を、菊花は蚊でも見るかのように鬱陶しそうな顔をする。


「ねえ菊花、お願い。今すぐ私を現世に戻してよ。お礼は弾むからさあ……。借りたい本があれば持ってくるし、食べたいものがあるならそれでも……」


 あまりにも必死に捲し立てたせいか、菊花がプッと吹き出す。


「いつになく慌てるじゃない。らしくないよ」

「らしさなんて気にするもんかい。大変なんだって」

「はいはい」

「少しくらい真剣に聞いてくれたっていいじゃんか! だって私たち、何年越しの付き合い? そんな無下にされちゃあ世話ないよ」


 涙混じりにそう言うと、菊花は困ったように頬を掻く。そして大きなため息を一つ吐いて、俯いた。


「違うよ。なああんた、違うんだってば」

「ええ?」

「違うってんだ。いい加減わかってよ」


 菊花はうんざりとしたようにそう言った。

 その投げやりな言い草に、最初は憤りを覚えた。

 こっちが必死に頼み込んでいるのに、まるで相手をするのが面倒くさいみたいな態度じゃないか、と。実際普段の彼女はこういう態度を悪気なくしていた。まあその原因は大体私にあるのだが、今回ばかりは腹が立って仕方がなかった。

 ただ一つ、気になることがあった。目だ。

 彼女が顔を伏せるその一瞬、垣間見えた瞳は暗い色をしていた。それは今までに見せた彼女のどの表情よりも暗いものだった。そこに秘められたものが何か、私は薄々感じ取っていたが、認めたくなかった。

 いや、認めたくないというのは語弊がある。それに気づいてしまった自分の正気を疑うというか、正気ではいられないというか。とにかく私の心をざわつかせるのには十分過ぎるものであったのだ。


「あのさ、菊花。あなたの言う『違う』って……」


 言えなかった。その先を言ってしまえば、きっと私はおかしくなってしまうだろうから。

 菊花はそんな臆病な私を、ただ静かに、暗い色の瞳で私を見ていた。

 長い沈黙が流れ、やがて鳥も囀るのをやめた。全ての音が消えてしまったような世界で、さらさらと流れる川の音だけが生きていた。

 そして時間だけが過ぎていく。ある種の息苦しさが私を責めてやまない。呼吸すら咎められてしまうような静寂の中、菊花がゆっくりと口を開く。

 ダメだ。反射的にそう思った。彼女にそれを言わせてはいけないと、私に何かが囁いた。それはきっと私の理性か何かで、自己防衛的に感じているのだ。

 でも彼女は躊躇なく言うだろう。私の正気を打ち砕くような一言を、躊躇いなく言ってくれるのだろう。私は「待って」の一言すら言えず、ただ待った。

 そして彼女は呟いた。天命、と。

 瞬間、サッと血の気が引くのを感じた。


「待ってよ、まさか今だっていうの? 今この瞬間が私の天命で、私は正真正銘死んだっていうの? 違うでしょ?」


 それは半ば願望だった。ただ、菊花が一言「冗談だよ」と笑ってくれればそれでよかった。

 だから彼女が無言で頷いた時、私は安堵感からその場にへたり込んでしまったのだ。


「ほ、本当に?」

「ああそうさ。あんたは死んじゃいない、天命は今じゃない。それは正しいよ」

「だったら!」

「ああ、だがねえ……あんたは一つ見落としをしてんだ」

「見落とし……?」

「ああ、見落としさ」


 こういう時、いつもなら菊花は優越感からニヤついた顔をする。多分私もそうだ。自分だけが理解できていることを説明するのは気分がいいものだからだ。

 でもこの時の彼女はそうじゃなかった。唇をぎゅっと噛みしめて、できるだけ感情を表に出さないようにしていた。

 歪んだ表情のまま彼女は口を開く。


「植物状態って知ってるか?」

「植物……?」


 菊花の言葉は聞こえた筈なのに、私はそれをただ復唱することしかできなかった。理解が追いつかない……そう言った方が正しいだろうか。


「脳が機能を失って、もう元に戻らなくなるって奴。聞いたことくらいあるだろ、近頃じゃそういうドキュメンタリーとかあるんだろ」

「でも天命は……」

「まだわからないのか? 人間の死の定義は精神的、及び肉体的な活動が全て停止した時よ。脳死だろうが何だろうが、肉体的にはまだ死んじゃいない。詳しいことは医者にでも聞けよ。……ああ、もう聞けないか」


 視界が歪んだ。菊花の声も聞こえているのかいないのか、よくわからない。自分が今どこにいて、何をしているのかすらわからない。地面に座り込んだまま、私は理解の追いつかない事象について、考察する余裕すらなかった。

 絶望とも違う感情……いや、感情を挟む余地すらない。菊花の言葉に、私は思考する力すら奪われていた。


「まあつまり、天命は指標でしかないのさ。事実上の死って奴は天命を迎えずともやってくる。だから、見落とし」

「嘘」

「本当さ。長い付き合いのあんたに、嘘なんて吐くかよ」

「嘘だよ。だってそんな大事なこと、一度も……」


 涙目で訴えかけても、菊花は気まずそうに目を逸らすだけ。

 わかっている。彼女を責める権利など私にはない。こんな単純なこと、少し考えればわかった筈なのだ。

 天命がまだだからといって後遺症が残らない訳ではない。高所から飛び降りれば骨は折れるし、首吊りしたら括約筋は緩む。あれだけ何度も煙を吸っていれば喘息症状が現れてもおかしくないし、つまりはわかりきったことなのだ。


「蓮華様にも聞いてみるかい。特例だが、きっと裁判を前倒しにしてくれるよ。あんたの裁判は長引きそうだからねえ」


 菊花は遠い目をして言った。


「……知ってたの?」

「何が」

「こうなるって知ってたのかって聞いてんだ」


 自分でも聞き取れないくらいに声を潜めて言った。

 すると菊花は少し迷うような素振りをして、ぎこちなく頷いた。


「そう、そうだったの。馬鹿みたいだわ」

「馬鹿みたい? 何で?」

「だってそうじゃない! 私は結局何も成し遂げられず、このまま死んでいくんだ! 先生も小夜も巻き込んで、あなたの忠告も聞かずに死ぬんだ。そんなの何の意味もない。それじゃ私は『生き』ることすらできなかった……」

「覚悟してたんだろ? たとえこうなっても構わないから、精一杯生きるって言ってただろ?」

「してたさ! 言ったさ! でも実際こうなってみろ! そんなのは詭弁だ。覚悟なんて言ってもただの言葉だ! ただの、嘘つきだ……」


 身体の中で何かが崩れる音がした。それは理性だったり、心の支えだったりするだろう。もしかしたら私という存在そのものが崩れ落ちたのかもしれない。

 私は泣いた。それ以上感情を言葉に表せなくて、それでも湧き上がる感情の行き場がわからなくて泣いた。

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