第21話 怖くなんか、ない

「……よし、異常なしだ」


 カルテに何やら書き込んで、センセは言った。

 私は診察室の隅にある籠から上着を取り、袖を通さずに羽織る。


「本当に異常なし? もう帰っていいの?」

「なんだよ。ここ嫌いか?」

「臭いが嫌なの」

「俺もだよ」


 仮にも院長が言っていい台詞だろうか。思わず首を傾げる。

 小夜と実験を開始してから今日で一ヶ月。それなりに回数をこなしてきたが、毎週末毎に病院で検査を受けるのは正直言って億劫だ。そういう約束だから仕方ないのだが、面倒なのには変わりない。


――毎週必ずメディカルチェックを受けて頂きます。これが最低条件です。


 なんて小夜に言われてしまったら逆らえない。


「で、どう? 寿命伸びた?」

「お、聞きたいか?」


 ニヤニヤ笑いが私を捉えた。


「あー、やっぱいい。どうせよくないのはわかってるわ」


 賢明だな、とセンセは言う。


「まあ減ってもないし伸びてもない。順調だよ」

「それはどっちの意味?」

「捉え方次第」


 順調に病気が進行しているか、もしくは順調に現状維持できているか。どちらにせよ、寿命はもう二年を切っている。


「怖いか?」

「さあ」

「さあ、ってお前」

「わからないよ、そんなの。センセだって同じこと聞かれたら同じこと言うよ」

「そうかなあ」

「そうなの」


 私はゲホゴホと咳をして、そのままベッドに腰掛けた。センセは文句を言おうとこちらを見て、やめた。どうせ馬鹿らしくなったのだろう。

 センセには告げなかったが、実際死ぬのは怖い。私が何かを残そうと必死になるのも死への恐怖から来るもので、そういう意味では恐れているというのが正しい。

 ただ実感がないというのもまた事実だ。余命宣告を受けた当初ならともかく、今となってはその衝撃も薄れ、極端な話他人事のようにも感じられる。


「本当にそうか?」


 心臓を鷲掴みされたような痛みが、私を襲った。


「な、なにが」

「死ぬのが怖い怖くないっていう今の話だよ。お前、本気でそう思ってるのか?」

「どっちでもいいでしょ。他愛のない世間話なんだから」

「声震えてんだよ。昔っからお前を診てるからわかる。強がってるというか、自分にすら嘘を吐いているようにも見えるんだ」

「何さ、それ」


 嘘なんか吐いていない。格好つける必要なんてなかったじゃないか。そう言おうとして、何故か言えなかった。

 ふと、夢で見た那由多の笑みが胸の内に湧いた。彼女はどうだったのだろうか。今わの際でも笑顔を崩さず、命を失うその瞬間まで恐怖などないように振舞っていた。

 私もそうなれるのだろうか。あんな風に飄々と、笑って最期を迎えられるものだろうか。

 そうして答えられないでいると、センセはため息を吐いた。


「まあいいさ。お前がそう言うならそうなんだろ」


 呆れ顔でそう言うのを見て、私は安堵の息を漏らす。


「どうせ仮病だろ。わかるんだよ」

「信用ないな」

「医者だからな。患者の言うことはまず信用しない」


 なんて珍しく医者みたいなことを言う。私が笑うと、センセは不満そうに口を尖らせた。


「こっち来いよ。喉見てやる」

「喉? そんなフェティシズムあった?」

「違うよ。咳してただろ」


 そういえばそうだ。近頃よく咳が出る。愛煙家故の事象だろうと無視してきたが、バレていたらしい。


「別に、大したことないと思うケド」

「診なきゃわからないんだよ」


 そう言ってセンセはゴム手袋を着ける。

 私は諦めてセンセの前の椅子に座り、口を開ける。歯を掻き分けて侵入するゴムの指が気持ち悪い。この感触が嫌だから言わなかったのに。


「おおこりゃ……」

「どう?」

「やばい」

「ええ?」

「喘息症状だな。排ガス吸いまくったりするとこうなるんだ。心当たりあるか?」


 疑うような視線を向けられ、私はそっと目を逸らした。

 排ガスどころかそれ以上に有害な代物を、好き好んで吸い込んでいるだなんて言ったら何言われるかわかったもんじゃない。


「どうせ煙草だろ。ちょっと吸い過ぎじゃないか?」

「別にそうでもないよ」

「とりあえず禁煙な。そんな状態で吸い続けたら肺炎で死ぬぞ」

「愛煙家冥利に……」

「尽きねえよ。禁煙外来紹介してやろうか?」

「そりゃ勘弁」


 ブラックデビルの外箱をちらつかせて、私は診察室を出た。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 数日後、私は再び殺風景な研究室に来ていた。小夜も一緒だ。

 無機質なドアを潜り、早速七輪のセッティングを始める。と言っても新しい木炭を継ぎ足すだけなのだが、まあインドア派の私がすんなりと用意できるはずもなく、ただ時間だけが過ぎていく。


「お嬢様、測定器の設定はどうされますか?」

「ああ、先生から貰ったメモがあるからその通りによろしく。鞄に入ってるでしょ?」

「わかりました」


 小夜は背負った鞄から物々しい機械を取り出すと、同梱されているA4ペーパーと睨めっこし始めた。出来損ないのヘッドセットのような端末をノートPCに接続し、難しい顔でキーボードを叩いている。

 日はまだ高い。幸い時間ならたっぷりとある。私たちは各々の作業をただ黙々と、時折軽口を叩きながら進めた。

 真下先生から借りた脳波測定器の設定は、案外早く終わったようだ。偏に小夜が機械に強かったお陰だ。先生曰く説得力を上げるには実数値が一番らしいが、私一人でそれができたかは果たして疑問だ。

 対して七輪の準備だが、もう何度もやって来たクセして上手くいかない。小さい頃にボーイスカウトでも経験しておくべきだったか。


「あー、ダメだわ。着火剤買ってこなかったっけ? あれがないときついかも」

「もう慣れてきたからいらない、って言ったのはどなたでしたか?」

「うるさいなあ。節約よ節約」

「またお金の話」


 小夜は見かねて私の手からジッポを奪い取る。


「これくらい簡単ですよ」


 得意げにそう笑うと、テキパキと木炭を組み直して点火した。途端にパチパチと音を立てて炭が燃え始め、私はただ無言で拍手を送った。


「流石メイド」

「ヘルパーですよ。ちなみに二級です」

「それって高いの?」

「今で言うと初任者研修突破レベルですね」

「あらそお……」


 一ヶ月もあれば取れますよ、とは小夜の言。

 私は釈然としない気持ちを抱えたまま、吸入器と測定器を身に着ける。そして小夜が部屋から出たのを確認すると、ドアをガムテープで目張りする。

 これでいい。後は一酸化炭素を程よく吸い込んで、地獄に行くだけだ。それで発生する脳波の特異性を示すことができれば、死後の世界を証明する助けになるだろう。


「先生様々ね」


 私は吸入器を咥えたまま、煙が部屋に充満するのを待った。

 そうして五分が経過した。次第に意識が遠のいていき、自分の身体が死に近づいていくのがわかる。手足の力が抜け、視界が歪む。何度も経験してきた症状だ。

 いつも通り。小夜と共に研究を進め始めてから、これで五回目だったか。全てがいつも通り、万事上手くいっている。不安になることもない。後はただ、じわじわと全身を巡る死に身体を委ねるだけだ。

 だが何故だろう? 私は今、その『いつも通り』が嫌で嫌で仕方がなかった。勿論継続して煙は吸い続けているし、実験自体は順調だ。それなのに私は、この密室で死を選ぶことに途轍もない嫌悪感を抱いていた。

 やいやい何が不満なんだ、と聞けたらどれ程楽だっただろう。だって私自身の中に、この疑問に対する答えが浮かんでこないのだ。縋りたくもなる。

 一つ、咳をした。それは他人の注目を集めるための咳払いでも、喉に唾が詰まったのを解消しようとするものでもない。肺の奥底から来る咳だった。

 私は驚いた。

 決して誇れることではないけれど、私とて愛煙家の一人だ。死ぬまでに一本でも多く吸うため、肺の管理は常日頃から怠らずやっている。痰が絡むことはあっても、煙に咽ることなんて一度もなかった。だから驚いたのだ。

 そうして二度目の咳が出た。追うようにして三度目、四度目の咳が次いで出る。それは吸入器なんて咥えていられないくらいの勢いで、私は咄嗟に手で口を抑えようとした。

 するとバタン、と遠くで何かが倒れる音がした。同時に視界がぐるりと横倒しになる。おいおい、何やってんだ。こんな時に冗談じゃない。身体を擡げようと力を込めるが、どうも上手くいかない。

 五度目の咳が出た。私は我慢しきれずに吸入器を吐き出してしまう。思ったよりも勢いが強い。手を限界まで伸ばしてようやく届くような距離だ。


――さあ手を伸ばせ。目の端っこにある吸入器くらい、簡単に取れるだろ。そいつをつけなきゃ冗談抜きで死んじまうぞ。……ああ何だって? 手が動かないなら足を動かせよ。そうか足も動かねえか。そいつはご愁傷様。


 誰なんだ。今私に話しかけているのは一体誰なんだ。やめてくれ。そうやって現実を突きつけるのはやめてくれ。それじゃあまるで、私はこのまま死んじゃうみたいな口ぶりじゃないか。そんな現実は見たくないんだから。

 そしてようやく気づいた。あの時地獄で、月下那由多という存在が私に落とした影の正体に。それは麻痺していた私の感覚を正常に戻しただけで、何らおかしいことではないのかもしれない。でもそれは明確に『影』であったのだ。

 死は誰にでも訪れる。例外はなく、だからこそ恐ろしいものなのだ。

 死への恐怖。そんな簡単なことすら私は忘れていた。そして月下那由多の死は、私にそれを実感させるには十分すぎる出来事だった。

 苦しい。ただ苦しかった。

 果たしてこの行為に何の意味があるだろう。ただ苦しくて、怖いだけだ。目の前に転がるチャチな吸入器が、今はとても恋しい。

 ああ、瞼が落ちていく。白い床も吸入器も、瞼が落ちるにつれて見えなくなっていく。それは私の意思じゃなくて、だからこそ恐ろしい。抗いようのない死が私を襲うのだ。

 待ってくれ。きっと瞼が閉じ切った時、私は死んでしまうだろう。まだ死にたくない。まだ生きていたい。そう思うのは当然じゃないか。

 意識が消えていく。ついに死が私を掴んで離さない。生に手を伸ばそうにも、伸ばせない。

 私はこの時初めて、心の底から『怖い』と思った。

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