第20話 夢
「どう、菊花。もう慣れた?」
「いいや。そもそも慣れたいとも思っちゃいないよ」
「だろうねえ。あんたはそのままでいて欲しいや」
暗い、暗い空間で二人の女の声が響いた。一人は死神の菊花、もう一人はわからない。
「人が死ぬことに慣れたら、きっとあたしはあたしじゃなくなっちゃうよ」
「死神のクセによく言う」
ケタケタと女は笑う。
「なあ、那由多。あんたは怖くないのかい。この先にあるのは地獄、ハッタリでも何でもない現実さ。……きっと痛いぞ」
「ああ痛いだろうね。針山地獄なんか特に」
「だろ?」
とても寂しげな吐息を漏らして菊花は笑った。
那由多と呼ばれた女は、そんなことにはお構いなしに続けた。
「私はね、怖いと思ったことは一度もないよ。……いや嘘吐いた。死ぬことは怖くないけど、何もできないまま死ぬのは怖いね」
「どういうこと?」
「そのまんまの意味さ。何も成し遂げられないまま死ぬのって、そいつは自分が生きた意味を遂行できなかった愚者ってこと。わかんだろ?」
「そうだけどね」
奇妙な間が数瞬流れた。
二人は無言のまま互いを見つめ、そして吹き出すようにプッと笑う。
「で? あんた、何を成し遂げたって?」
「あん?」
「教えてくれたっていいじゃんか。結局あんたのやっていること、聞けなかったからな」
那由多は少し考えて、「嫌だ」と悪戯っぽく微笑んだ。
「じゃあ成功したかもわかんないじゃん」
「シュレーディンガーの猫箱だ。開けゴマってな」
「それ意味違うだろ」
「そうだっけ」
菊花が那由多を小突くと彼女は痛い痛いと嘯く。
ひとしきり笑った後、那由多は小さくため息をつく。その横顔は、覚悟を決めた時のような達観した表情にも見えた。
それに菊花も気づいたのか、少し目線を逸らした。
「でもあんたは、連れてってくれるんだろ。私がどんなに嫌がっても絶望しても、お構いなしに現実を突きつけてくれるんだろ」
「仕事だからね」
「ああ、そう。それでいい。それでこそ私の友人だ」
「……あんたはこれで満足?」
「ああ。相対評価は関係ない。絶対的な自己評価こそ、人生の結論さね」
くくく、という笑い声が響く。
菊花は虚空からいつもの鎌を取り出し、那由多の首筋にあてた。その時になって初めて、私はその鎌の役割を思い出す。
——待って!
私は叫んでいた。理由はわからないけど、とにかく菊花のその行為を見たくなかった。
声は誰の耳にも届かなかった。二人は達観した表情で互いを見つめ合っていた。
「それじゃ、やるよ」
「優しくね?」
「そいつは保証できないな」
「あはっ、残念」
菊花が鎌を振りかぶって、それを振り下ろす。その切っ先が那由多の肩に食い込むより先に、私は思わず目を逸らしていた。
視界は黒一色。でも私の鼓膜は、一瞬の風切り音を聞き取っていた。
死んだ。
目で直接見た訳ではない。心臓が止まっているのを確かめた訳でもない。ただ、月下那由多は死んだという実感だけが私の内にあった。
人が倒れる音がして、私はふと顔を上げた。そこには地に横たわる那由多と、それを見て静かに涙を流す菊花の姿があった。
声にならない叫びが喉を駆けた。理由(ワケ)の知れない激情が叫喚となって、際限のない不協和音を奏でる。無限に垂れ流される絶叫は、やがて現実の世界に漏れ出して鼓膜を
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目を覚ます。そして此の世に引き戻された私は再び暗闇に包まれた。
半ばパニックに陥りながらも手探りで携帯電話を探す。ディスプレイの明かりは夜中の三時を指していて、私はようやく現実を感じられた。
生きている。エイトビートもかくやという鼓動が、私に生の実感を与えてくれる。そう、私は生きている。
汗でびっしょりと濡れた服を脱ぎ、寝具の傍の寝間着に着替える。呼吸はまだ荒い。どうってことない夢を見ただけのはずなのに、私は激しく動揺していた。
ベッドに戻り、布団を被ってもそれは変わらなかった。心臓のドラムは休むことなく鳴り響き続ける。
こんな気分は寝て忘れよう。そう思って目を閉じた。
意外な程早く私は眠りに堕ちた。やがて小夜の呼ぶ声が起こすまで、ぐっすりと眠った。
「またお寝坊さんですね」
そうやって揶揄する彼女の言葉も、寝起きの私にはまるで届かなかった。フラフラとした足取りで一階に降り、食卓に着く。そんな主人の様子を、小夜は不思議そうな目で見ていた。
熱々のコーヒーを冷ましながらデジタル朝刊を読んでいると、ふと気になる記事を見つける。
それは他愛のない、言うなればありふれた事故の記事だ。今朝の午前三時頃、二十代の女性が車で轢かれて死んだらしい。名前は月下那由多。全身の骨が砕け、即死した。
記事にはその時の状況が、憶測を交えながら事細かに記されていた。その道は深夜になると誰も通らないので、車を飛ばすドライバーが多いこと。見通しが悪く、黒い服を着ていた彼女を視認できなかったのではないか、ということ。
よくある話だ。交通事故の死亡者数は一日平均、大体十一人。二時間もあれば、一人は事故で死んでいる。その中の一人が彼女だったというだけ。
死とはありふれたものなのだ。誰にでも訪れる平等な終わり、天に定められた終焉。小夜も私も月下那由多だって特別じゃない。本当に、他愛のない話だ。
「お嬢様!」
その時、慌てたように小夜が叫んだ。私は不意の大声に現実へと引き戻される。
「どうしたの」
「あの……大丈夫ですか?」
「えっ、ああ……」
言われて目線を下げると、淡色の寝間着が茶色に染められていた。足元には砕け散ったマグカップがあって、そこでようやく零れたコーヒーに気がつく。
あーやっちゃった、なんて言うこともなく、ただ淡々と事実だけを脳みそが辿っていく。あたかも他人が粗相をしたのを見ていた時のように俯瞰していた。
台所から焦った顔の小夜が飛び込んできて身体を拭いてくれる。立ち昇る湯気が、しゃがみ込んだ彼女の顔を白く汚す。
夜中に目を覚ましたものだから疲れているのだ。小夜にそう説明すると、呆れた顔で納得してくれる。変な時間に寝るからですよ、なんていうお小言まで貰う始末だ。
今日はちゃんとした時間に寝よう。心に残るしこりを無視して、私は席を立った。
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