第19話 暗雲

 眼を開けると私は殺風景な白い部屋にいた。

 部屋の真ん中には大きめの七輪と、赤々と燃えるキャンプ用の木炭があった。扉や窓にはガムテープで目張りがしてあり、木炭から上る白い煙が行き場を求めて空中を漂っている。誰かが自殺でもしていたのかしらん、と私は他人事のように思った。

 頭痛がする。ズキズキと、まるで脳を直接締め上げられているかのような痛みが私を襲っているのだ。そんな痛みの渦中に突然叩き落されてしまったから、私は何を言うでもなく、ただ呻き声を上げていた。

 練炭を使用した実験は繰り返し実行するのに適していた。一度準備さえしてしまえば、他の方法に比べて容易に実験ができる。だからこうして一酸化炭素を幾度となく接種しているのだが、如何せん実験後の頭痛がネックである。

 どうしたものか、と考えていると突然、ベリベリと何かが剥がれる音がして扉が開いた。

 マスクを着けた長身の女性が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「お目覚めですか?」

「ええ。おはよう、小夜」


 懐中時計をカチャリと開き、小夜は視線だけをそちらに向ける。


「時間ピッタリですね。いつもはお寝坊さんじゃありませんか」

「ええ、ええ。お時間が来たものですから」

「それではこちらも、お時間ですので」


 小夜はマスクを取ってニッコリと笑う。そして私の口から吸入器を外し、代わりに酸素スプレーの先端を宛てがった。


「これ嫌い」

「我慢してくださいよ。安全第一って約束したじゃないですか」

「そうだけどさ」


 シューという音を立て、酸素が私の口目掛けて発射される。冷えたO2の奔流が私を襲い、嫌々ながらもそれを吸い込む。

 十秒程経ち、小夜はスプレーを私の口から外す。


「どうです?」

「やっぱ嫌い。冬にこんなの拷問でしょ」

「死ぬよりいいじゃありませんか」


 そうだろうか。私は首を傾げる。


「それで話はついたんですか? その……閻魔様と」


 言い淀んだ後、小夜は苦笑する。


「なんだか傷つくわ」

「違いますよ。すんなり言えない自分が可笑しくって」

「そう?」

「本当ですって」


 小夜の子供みたいな主張の仕方が、私はどうしても愛らしく思えて仕方なかった。別に疑っちゃあいない。単にそういうスキンシップ、じゃれ合いだ。小夜にそれが伝わっているかはどうかは別として。

 私は部屋の隅に置いた木炭の在庫を確認し、


「一応、閻魔様は許可をくれたよ。これで気兼ねなく実験ができる」

「これから忙しくなりそうですね」

「そりゃそうよ。締め切りは待っちゃくれないわ」


 ついでに天命も、と心の内で思った。

 それを表情に出したつもりはなかったけれど、小夜はどういう訳か寂しそうな顔をする。私に見られていることに気づいたのか、彼女は無理に笑顔を繕う。

 その時、廊下の方から足音がした。ピクリと身体を震わせてそちらを見る。

 私が視線を逸らせたからか、小夜は目の端でどこか安堵したような表情をした。


「やあやあ、これはどういうことだい」


 そう言いながら部屋に入ってきたのは、この殺風景な部屋の持ち主である真下先生だった。白スーツ姿の彼はA4サイズのアタッシュケースを手に、困惑の眼差しをこちらに向けている。講義が終わったばかりなのだろう、提出物を纏めたファイルをもう片方の手に提げていた。


「どういうこと……って、先生。こっちの台詞ですわ。研究室を一つ貸してくれるって言ったの真下先生じゃないですか」

「いや、確かに言ったけどね。それは君が隠れて実験ができる場所が欲しいって言うから……」

「いいじゃありませんか。それとも嫌いですか? こういう情熱的なのは」

「そう言えば僕が頷くとでも思ったかい。それに〈魔の九階〉から煙が上がってるのが見えた、なんて生徒に言われたんだ。目立ち過ぎると後々困るんじゃないか?」

「後々って?」

「そりゃ色々あるだろう。学会発表の時とか」


 一理ある。私は小夜と顔を見合わせた。


「小夜」

「心得ております」


 小夜はスカートのポケットに財布があることを確認すると、そのまま部屋を出て行く。


「彼女は何を?」

「あら、わかりません? 買い物に行ったんですよ」

「だから何を買いに行ったんだい」

「察しが悪いなあ」


 先生は明らかに不服そうな表情を見せる。


「それは……僕の言った現状を打破できるような代物かい?」

「ええ! そりゃ完璧に」

「わかった、菓子折りだな。残念だけど僕はそんなんじゃ懐柔されないよ」

「いやあ、もっと根本的なことですよ」


 お手上げだ、という風に肩を竦める彼を見て私は笑った。


「笑うなよ。正解はなんだい」

「厚めのカーテン! 簡単でしょう?」


 聞いて、先生は途轍もなく大きなため息をつく。

 そういう反応は傷つくなあ、と嘯く私を、彼は呆れた目で見ていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 結局小夜に頼んだカーテンは、好みの色が売られていないという理由で研究室に届くことはなかった。思いつきで行動したっていいことはないのだな、と私は彼女と笑い合う。

 小夜と共に家路につくと、日はもう沈みかけ。吹きすさぶ寒風に背中を押されながら寒さに凍えた。


「完全に冬ね」

「ええ。文句なしに冬です」


 小夜が一丁前にそんなことを言うものだから、私は可笑しくてつい笑ってしまう。

 すると小夜は不貞腐れたみたいにプイと横を向き、


「だって木枯らしまで吹いちゃって、もう秋なんて言えませんよ」

「紅葉はまだ落ちちゃいないけど?」

「立冬はもう過ぎましたからね」

「あ、そう」


 話している間に、気づけばもう自宅であった。

 得意げに鼻を鳴らす小夜を置いて、玄関の鍵を開ける。暖かい空気が迎えてくれるかと思いきや、外と変わりない寒気が押し寄せる。暖房をつけていなかったのだ。

 寒い寒いとぼやきつつストーブの電源を入れる。灯油も最近は高くなったなあ、なんて呟きながらも今はその熱気に肖っておく。


「お金の心配だなんて、珍しいことをなさいますね」

「そりゃあするでしょう。親から無心できる金も無限じゃない。チューハイだって煙草だって、我慢しなきゃいけない日がいつか来る」

「別に我慢なんてしなくたっていいじゃないですか。いざとなれば小夜も働きますし」

「ダメ、小夜にそんなことさせられないでしょ。それに……」


 言ってから私は気づく。別に今、彼女にこのことを告げる必要もないのだ。


「それに?」


 小夜は好奇心に満ちた目で私を見る。普段は可憐に思えるその瞳も、今はその視線から逃れたかった。


「……いえ。何でも」


 教えてくださいよ、と小夜は言う。当然の反応だ。勿体ぶって結局言わないのは私の悪いクセかもしれないけど、こればっかりはどうしようもなかった。

 部屋で休んでいよう。夕飯の支度を始めた小夜を尻目に階段を上る。


「お嬢様」


 小夜の呼ぶ声がして、私は足を止める。


「何?」

「今日は少し、いつもより綺麗な目でした」

「そう?」

「ええ。物憂げな視線というのは誰から見ても明らかで、美しく感じるものです」


 そう言って小夜は台所に戻った。

 私は駆け足で階段を上がって部屋に飛び込む。そして綺麗に整えられた寝具にしがみつき、ぐしゃぐしゃに搔き乱す。


「あー! やっぱわかるよなあ!」


 枕に顔を埋めて叫んだ。


「だからって言える訳ないじゃんかあ! 言える訳ないじゃないかあ……」


 必死に声を押し殺し、枕で口を抑えながら叫ぶ。小夜にだけは聞かれてはいけないから、布団を頭まで被って感情のまま叫んだ。ついには喉が痛くなって、ゲホゴホと大きく咳をした。

 しばらくそうしていたから、枕のシーツはぐっしょりと濡れていた。唇を押し付けていたから唾液のせいでもあるだろう。とにかく汚いので、部屋の隅に投げ捨てた。


「小夜に残す金が減っちゃう、なんて言ったら泣いちゃうだろ」


 天井を仰ぎ見て言う。

 そうだ、言える訳ないんだ。私が死んでからの話なんてするもんじゃない。今を生きるしかないんだから、ずっと先のことを考えるなんてナンセンスだ。

 私は目を瞑った。眠ってしまえば、きっとこんな気分は忘れられる。


――天命があることをお忘れなきよう……。お前がいくらゴネても期限が延びることは決してありませんので。


 蓮華の言葉が私を苛む。逃げようと夢に縋る私を、現実に引き戻そうとするのだ。


「小夜……」


 掛布団を抱いて、私は眠った。一度夢に堕ちてしまえばすぐだった。小夜が夕飯に呼ぶ声すら聞こえないまま、私は意識を手放した。

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