三章 Journey Through My Body

第18話 菊花と那由多

 無数の曼殊沙華が赤く咲き誇っている。その奥には青々とした河川、更には煌々と照る夕焼けの橙が視界を彩っていた。

 美しい。

 幻想的で優美なこの光景を表すには不足かもしれないが、そう小さく呟いた。


「どうだ、死後の世界は」

「よくってよ。前に来た時よりも、なんでか綺麗に感じる」

「前だと?」


 眼前を歩く黒髪の青年は懐疑的な視線をこちらに向ける。


「あら、菊花から聞いてないの? 一応アポは入れといたんだけど」

「送迎課の糸杉菊花か。あいつめ、引継ぎもロクにできないのか」


 それを聞いて思わず苦笑した。迎えが菊花以外の死神だったので何事かと思っていたが、同僚に仕事を任せていたらしい。


「菊花はどうしたの? クビにでもなった?」

「まさか。臨時で裁判が始まったので蓮華様共々駆り出されているよ」

「そういうこと」


 青年はそれきり口を閉ざして黙ってしまう。菊花みたいにお喋りな死神だったらよかったのに、彼は黙々と歩き続けるだけだ。気まずさを感じながら、私は代わり映えのしない景色ばかりを眺めていた。

 それから三十分程歩いた頃、視界の端にようやく裁判所が現れる。息はもう絶え絶えで、日頃の運動不足がひしひしと感じられた。今すぐにでも足を延ばして寝転びたい気分だ。


「随分と長旅だったな、罪深い女だ。さっき連れて来られた女もそうだったらしいが、最近はそういうのがブームなのか?」

「単なるマイブームですわ」


 ふざけた女だ、と彼は言い、裁判所の門扉を潜る。


「閻魔控室で待っていてくれとの話だ。場所はわかるんだろ?」

「当然」


 裁判所の中は外観に違わず落ち着いていて、以前のような忙しなさは消えていた。今の時期は過ごしやすいから、態々死のうとも思わないのだろう。春夏冬二升五合あきないますますはんじょうとはよく言ったものだ。

 控室は以前訪れた時と同様に、赤い。歩き疲れた身体を癒すべく、私はソファに腰を落とす。

 相も変わらず落ち着かない部屋だ。違うところといったら、卓上に置かれた複数のカップとコーヒーメーカーくらいだろうか。ご丁寧にミルクとガムシロップまで置いてある。


「気が利くじゃん」


 きっと菊花が用意してくれたのだろう。私は早速カップにコーヒーを注ぎ、そのまま口をつけた。仄かな苦みが鼻を抜けるのを感じる。

 真下ゼミのものと比べて高いコーヒーを使っているのだろう、いい味だ。流石は高給取り、と勝手に決めつけて気前よく煙草に火を点けた。


「お前!」


 その瞬間、可愛らしい怒鳴り声が私の耳を劈く。

 慌てて入口の方に目をやると、コーラルピンクの髪をした少女がこちらを鋭い目つきで睨んでいた。地獄の閻魔様のお戻りだ。


「やっべ」

「以前は大目に見ましたが、今回ばかりは許しませんよ。お前が聞きたいことがある、だなんて言うから態々時間をとってやったというのに……」

「あーあー聞こえなーい」


 突然降りかかった説教に耳を塞ぐ。そういえばこの閻魔、煙草が嫌いなんだった。


「まあまあ蓮華様、それくらい許してあげませんか。あたしだって吸う口でさあ、気持ちはわかりますんで……」


 蓮華の後ろから菊花が顔を出す。今日は仕事着のようだ。


「菊花、次に口答えをしたら減給ですので。覚悟なさい」

「げえっ」


 菊花は「禁煙禁煙」などと言いながら私の煙草を取り上げる。裏切り者め、と睨むも、彼女は素知らぬ顔をして口笛を吹く。

 そんな菊花を見て、蓮華は大きくため息をつき、私の真正面に座った。


「さて煙草の件はまた追々……。遅れてしまってすみませんね。何しろ急だったもので」

「臨時の裁判、という奴ですか。珍しいこともあるものですね」


 言ってから、私は二人分のジトっとした視線を向けられていることに気づく。


「いえ、その……ね。私以外にもいるんですねぇ、そういうヒト」

「ええ。その度に私たちは臨時の裁判を開き、予算が割かれ、時間も取られ、挙句の果てにはココの査定が下げられるのです」

「それは結構なことで……」


 前に来た時は「素晴らしい」だの「応援しよう」だの言っていたクセに、随分な言い草だ。それはそれ、これはこれという奴だろうか。

 蓮華はカップにコーヒーを注いで一口啜り、


「まあいいでしょう。事前連絡さえ入れてくれれば臨時裁判なんて開くこともありませんからね。その点、お前はキチンとしてくれていますから」

「ええと、その人は違うんですか?」

「アポなしっていう点を除けばあんたと同じさ。あたしの友達でね、那由多っていうんだが」

「へえ。菊花の友達ねえ」


 意外と顔が広いんだと自慢する菊花。ただその顔には疲れが見えた。


「どうしたのさ」


 疑問に思い、私はついそう聞いていた。菊花がそういう表情をするのは珍しかったから、興味本位ではあったかもしれない。

 けれど菊花の表情が僅かに歪んだのを見て、聞いたことを後悔した。それでも菊花は笑顔を繕って「何でもないさ」と言い張る。


「いや、何。あいつを追い返そうとするといつもゴネるからさ、疲れるんだ」


 菊花は頭を掻いて笑う。


「それなりに長い付き合いだけどさ、その……なんだ。親しき中にも何とやらって言うだろ? あいつはいつもそうなんだ。いつも……」


 言い淀む菊花を、蓮華は手で制した。


月下那由多つきしたなゆたのことはもういいでしょう。菊花、お前が気に病むことはありません。外で煙草でも吸っていなさい」

「……ありがとうございます、蓮華様」


 菊花は足早に部屋を出て行った。

 彼女がいなくなって、部屋は途端に静まり返った。


「どういうことです?」


 私は聞いた。


「明日なのよ、天命」

「その……月下那由多のですか」

「そう。言ったでしょう? 菊花はまだ、人の死に慣れていないの」


 蓮華は呆れているような、それでいて愛おしさを感じさせる目をしていた。


「最近大病を患ったらしくてね、時々こちらに来るようになったそうで。……お前とあまり変わらない年頃の娘よ。だから余計に、ね?」

「思い出させちゃうってことですか」

「そうかもね。帰ったら調べてみなさい。月下那由多……珍しい名前だからすぐわかるわ」


 言ってから、蓮華はコーヒーをまた一口啜った。

 不思議な気分だ。

 この地獄で、私は自分以外の人間が裁かれているところを知らない。ここに来てもいるのは死神ばかりで、ヒトの霊魂は影も形もなかった。ここが死者を裁く場所である、という当たり前の事実すら認識できていなかったのだ。

 つまりは違和感。じわじわと迫り来る死について、私は今、違和を感じているのだ。

 月下那由多という人物のことは知らない。だが菊花の反応を見て実感した。死は現実に存在する、と。


「どうしました?」


 考え込む私を見て、蓮華は不審な目をこちらに向ける。


「何か、思考していたようですが」

「まさか」


 私は手を振って否定した。別に大したことではない、個人的な話だ。彼女に態々伝えるまでのことではないのだ。


「ならいいのですが」


 幸い、蓮華は特に気になって聞いた訳ではなかったようで、興味なさそうな様子でコーヒーカップに口をつけた。


「で、話っていうのは?」

「えっ」

「話があって来たんでしょう? 伺いますよ」


 彼女にそう言われ、私は思わず失笑していた。ここに来た目的すら忘れていたなんて、とんだ間抜けがいたものだ。


「ええ。閻魔様に許可して頂きたい事柄がありまして……」


 蓮華はニヤニヤと笑いながら私の話を聞いていた。

 その様子がまるで、どこか見下されているようにも感じてしまって私は嫌だった。天命を知っている彼女にしてみれば、行き先が見えないまま必死になっている姿を見るのはさぞ愉快なのだろう。


「成程。論文が完成するまでの間、こっちに来るのを許して欲しいと言うのですね?」

「その通りです。閻魔様のお手を煩わせたくありませんので……」

「気が回るのね。いいでしょう、送迎課の死神には通達しておきます。お前が地獄に来ても迎える必要はないとね。ただし……」


 蓮華は右の人差し指を立てて、


「必ず一度はこちらに顔を出しなさい。菊花に帰してもらう必要がありますからね。それともう一つ」

「何です?」

「天命があることをお忘れなきよう……。お前がいくらゴネても期限が延びることは決してありませんので」

「わかってますよ」


 今更言われるまでもない。私は蓮華に負けないくらい口角を上げて答えた。


「成功を祈ってますよ。精一杯足掻いて、お前の人生を成し遂げるのです」


 その言葉を背に受けて、部屋を出る。すぐ外で煙管を吹かしていた菊花に声を掛け、私はホッと一息ついた。


「どうした、疲れたのかい」

「いいえ。ちょっとした考え事」

「何だい」

「笑うなよ?」


 菊花の隣に立ち、煙草に火を点ける。


「死ぬって、どういう感じなんだろうな……って」


 言ってから、私は自分で吹き出していた。吐いたはずの煙が肺に逆流して、むせる。


「笑うなってのはあんたの台詞だろ」

「失敬失敬。ああ、だめだな。子供みたいなこと聞いちゃった」


 ゲホゴホと何度も咳をする。心配する菊花を余所に、私は彼女の友人だという月下那由多のことを考えていた。

 明日、彼女は死を迎えるという。それは私のように自殺未遂をして地獄に行く、などといった紛い物ではない。絶対的な死だ。

 それは一体どんな感情を引き起こすというのだろう。その局面において、私はどう思うのだろう。菊花が彼女の名を口にして以来、ずっとそのことが頭を離れなかった。

 顔も声も知らない彼女に、私はどういう訳か心惹かれていたのだ。


「そんなもん、あたしだって知らないよ」

「えっ」


 突然投げかけられた菊花の言葉に、私はつい聞き返していた。


「なんだよ、上の空かい」

「そういう日もあるさ」

「もういいさ。教えてやらんもんね」

「なんだとケチンボ」

「うっせーヘンタイ」


 ひとしきり罵り合った後、菊花は静かに私の背を押した。そろそろ時間だ、とでも言いたいのだろう。私は彼女に身を任せ、地獄に別れを告げた。

 また来るよ、なんてね。

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