第17話 馬鹿、馬鹿、馬鹿……

「冗談がお好きなようで……」


 全てを話し終えて、小夜が言った。目を逸らして口に手を当てている。

 当然の反応だ。こんな馬鹿げた話を信じる方がおかしい。


「そう言われても仕方ないわ。でも本当の……」


 くくく、という笑い声が聞こえた。それは小夜の口から漏れ出たものだった。


「小夜!」

「怒らないで下さいよ。そんな話、誰が信じてくれると思うんですか? あー、おかしい」


 普段の無表情はどこへやら、小夜は腹を抱えて笑っていた。目には涙を浮かべ、時折酸素を求めて激しく息を吸う。

 ひとしきり笑い、小夜はいつもの仏頂面に戻った。伏せた目で私をじっと見つめ、まるで品定めするみたいに腕を組む。


「それで、お嬢様」

「何」

「そんな話を小夜に信じろというのですか。そんな馬鹿げた話だけで、気が触れた主人の奇行に付き合えというのですか」

「私は本気だよ。実際にこの目で見て、確かめた。何度だって何度だってこの身を犠牲にしてきたんだ。人は死後どうなるのかという永遠の疑問に、私は答えられる。その証明をすることが私の人生なんだよ」


 訴えかける私の言葉を聞いても、小夜は眉一つ動かさなかった。

 耐えられない。静寂が作り出す見えない圧力が、私を責め続けている。いっそ拒絶してくれれば楽になれたというのに、彼女は何も言ってくれない。

 この静寂が意味するのは、結局彼女は信じてくれなかったということだ。私を無条件に愛してくれていた、小夜でさえ信じてくれないのだ。

 不安が心を埋め尽くしていく。小夜を失った私はどうすればいいのだろう。たった一人で、これまで通り実験を繰り返す? でも小夜すら満足に説得できない私が、証明などできるのだろうか。だとしたら私は……。


「小夜……」


 行く当てを失った亡者は、ただ無意味に漂うという。成仏すらできず、自分が死んだことも忘れて彷徨うのだ。私はそれ以下だ。小夜という安息を見失った私は迷うこともせず、ただその場に立ち尽くしていた。

 菊花、あんたの言う通りだ。こんな苦しい思いをするくらいなら初めから諦めた方がマシだった。呼吸が苦しい。首を吊った時なんかよりも、ずっと。


「馬鹿ですよ、あなたは」


 項垂れる私を見て、小夜は呆れたように言った。


「そんな笑っちゃうような話を馬鹿みたいに信じて、本気で成し遂げようとしている。あなたは大馬鹿者ですよ。違う道もあったというのに、わざわざこんな茨の道を通るんですもの」


 茨の道。確かにその通りだ。

 必死に思考して、努力して、進み続けた。そうして歩みを止めなかった私の身体は、棘に晒されて傷だらけ。醜くなった私に与えられたのは、麗しき茨姫の嘲笑だったという訳だ。

 乾いた笑いが漏れた。

 馬鹿みたいだ。一人で盛り上がっちゃって、まるで思春期の学生みたいな思考回路だ。相手がどう思うかなんて気にもせず、告白することが目的の馬鹿と同じじゃないか。


「ごめんね小夜。私馬鹿だからさあ……」


 声のトーンは明るいのに、震えているのがどうにも滑稽だった。でも止めることはできなかった。涙は出るし、嗚咽が言葉を犯す。

 そんな私を、小夜はやはり冷ややかな目で見る。


「お嬢様は一つ、勘違いしています」

「勘違い?」

「茨姫は呪われていました」


 声は耳元から聞こえた。そう思った次の瞬間、頬に柔らかい感触が触れる。


「小夜?」

「姫は百年の眠りについたまま。あなたが見たのは鏡に映った自分自身でした。つまりは幻、勝手な思い込みに過ぎないのです」

「そんな曖昧な言葉で惑わさないでよ。私は……」

「それはいつだってお嬢様の方でしょう」


 小夜は私の頬を流れる涙を指で拭った。冷えた肌に触れた彼女の指は暖かかった。


「お嬢様が余命宣告を受けたあの日、小夜は自分を責めましたわ。そしてそれ以上に……、怖かった」

「怖かった?」

「人殺し、ですから。小夜は無意識のうちに一人の人生を滅茶苦茶にして、そして殺しました」

「でもそれは……」


 小夜のせいじゃない。私の内面的な弱さがそうさせたのだ。

 でも小夜はふるふると力なく首を振る。


「わかっています。でも一度それを意識してしまったら、もう戻れませんよ? 罪悪感とは厄介なもので、刺激された過激な良心が、丁寧に自身を刺し貫こうとします。だからわたしは、小夜は自分を殺したのです。これ以上苦しまずに済むように」


 彼女が感情を殺したのは、私に対する贖罪のつもりだと思っていた。

 だが実際は逆。そうして罪悪感から逃げようとしなければ、きっと彼女は……。


「身の回りのことに鈍感になると、日々は平穏に進みました。ああ楽でしたよ、そんな傷にすら気づかないくらいですもの」


 小夜は私の腕を指して言う。


「でもそれだけ鈍感になったって限度があります。だってそうでしょう? 自分の身内が自殺未遂で搬送されたなんて聞いて、平然といられる人なんていませんから」

「……そうね」

「それからは――ああ、これは比喩になりますが……地獄でした。リストカットに飛び降り自殺、首吊り自殺、練炭自殺なんかもしていましたね。それを目撃する度、小夜の内に沸いた良心がこれ見よがしに自分を責めるのです。

 止めようと思えば止められたかもしれません。でも『これは小夜に対する当てつけだ』と思ってしまったものですから、できるはずもありません。これは自身に課せられた罪なのだと、言い聞かせるしかなかったのです」


 小夜は自嘲気味に微笑んだ。それを見て私の胸はずきりと痛む。


「違うよ。それは私が自己中心的だっただけだ。小夜がどうとかってのは関係ない話だ」

「ええ聞きました。ついさっき、ね。でもわかるでしょう? 言わなきゃわからないんですよ。お嬢様がそうやって鈍感だったから、小夜はこんな風に苦しんでいたんです」

「小夜……」


 全て私が勝手にしていたことで、小夜は関係ない。そう一言でも言えていたら、また違った結果になっただろう。けれど今更それを言ったところで、過去は変わらない。傷ついた小夜の心を癒すことにはならない。

 また一粒、涙が零れた。


「そんな顔しないでください。そりゃ、小夜がそうさせてるっていうのはわかります。でも違うんです。小夜は恐らく気づけなかったんですよ。お嬢様がどうしてそんなことをするのか、確かめようとすらせずに勝手に傷ついていた。結局は似た者同士ってことでしょうか」

「似た者同士?」

「お医者様に言われたんですよ。『君はきっと、彼女を理解したいと思っているはずだ』って。それまで全然思いもしなかったんですよ、自分の内にそういう感情があっただなんて」


 あの検査の日。去り際、センセが小夜に何やら言っていたのを思い出す。


「でも怖かった。もし本当に小夜に対する当てつけだったら、と思うと恐怖で胸が締め付けられてしまいそうだった。だからこそお嬢様が、ああ言ってくれたことが嬉しかった」

「それって……」


 小夜はまた微笑んだ。嘲ってなどいない、純粋な笑みだった。


「お嬢様が全てを話してくれて、小夜の中にあった重苦しい枷をどかしてくれた。それで小夜は満足です」


 そう言うと、小夜は私の手を取り、自分の胸に当てた。ふわりと心地よい触感がして、私は少し驚く。


「ほら、触ってみてください」

「やらかいね」

「そうじゃないでしょう」


 ムッとした様子の小夜を見て笑い、私は改めて彼女の胸に手を触れた。

 微かに、だが激しく脈打っている感触がした。


「心臓がこうやってはしゃいでいるのは、あなたのせいなんですよ。あなたが『一つになりたい』なんてことを言うから……」


 小夜の白い肌に朱が混じった。ほんのりと熱を帯びた身体が私を包み込む。


「小夜はお嬢様のメイドです。あなたに成し遂げたい目的があるのなら、小夜はそれに従います。何があろうと、あなたの味方であり続けますから……」

「それってオッケー……ってこと?」

「それ以外にありますか?」


 違いない。私はくくく、と菊花の真似をして笑った。「はしたないですよ」と小夜は言うが、今くらいいいじゃないか。こんなに気分がいいんだ、我慢なんて毒にしかならない。

 ひとしきり笑って、私は小夜から離れた。すると待ってましたと言わんばかりに寒風が差し込み、火照った身体を冷やそうとする。


「ま、こんな季節だものね」

「ですから……」

「秋だってんでしょ? わかってるわ」


 小夜は拍子抜けしたようだった。目を丸くして、口をぽかんと開けている。


「相手に合わせることがデートなんでしょ?」


 そう言うと小夜は「別に冬でもいいんですよ」などと言いだす。

 小夜は私の手を取って歩き出す。その横顔は笑っていて、それがどうにも愛おしかった。

 帰ろう。御茶ノ水の寒い夜は、まだ長引くだろう。


「ありがとうね、小夜」

――これでようやく、私の人生が始まるのだわ。


 心の中でそう呟いて、小夜の背中を追った。

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