第16話 告白

「ええと、ハイボールのダブルとウーロン茶。それと豚骨ラーメンのチャーシュートッピングを二人前。餃子もね」


 注文を聞いた店主は無言で頷き、厨房の奥へ消えていく。

 行きつけの中華料理屋は今日も客が少ない。食事は美味しいのに店舗が狭く、店主も不愛想、その上立地がとても悪い。いつ潰れたっておかしくない店だが、何故か今日までこうして生き残っている。

 カウンター席に置かれたピッチャーには、氷水とともにレモンの切れ端が入っている。私はグラスに水を注ぎ、グイと一気に飲み干した。ほんのりと香る爽やかさが心地良い。

 小夜はというと、どこか落ち着かない様子でいる。きょろきょろと辺りを見回したり、無意味におしぼりで手を拭ったりしている。普段こういう店には連れて行かないせいか、どうにも慣れないみたいだ。


「すみません、小夜はあまり外食をしないものですから」

「何謝ってるの。他に人もいないんだし、気にしなくていいのよ」

「そういうものですか?」

「そういうものなのよ」


 中華料理屋で周りを気にする奴なんて一人もいない。ジョッキ片手に自慢話や愚痴を言うような輩ばかりなのだから、気にするだけ無駄だ。

 そうは言っても小夜がすぐに順応できる訳もなく、背筋をピンと伸ばしたまま両手を膝の上に置いている。場末の飯屋には似つかないお行儀の良さだった。

 コトン、という音がして丼が目の前に置かれる。なみなみと注がれた乳白色のスープから湯気が立ち、食欲を誘う匂いが鼻孔を擽った。隣に置かれた餃子の皿も、艶やかに光る焦げ目が美しい。


「オヤジ、また無言?」


 呆れてそう言うも、店主はこれまた無言でハイボールのジョッキを手渡してくる。そんなだから客が少ないんだ、なんて強面のオヤジに言えるはずもなく、諦めて割り箸を手に取った。


「そんじゃ、乾杯」

「何にです?」

「親愛なる小夜に」

「あら」


 ゴチンと音を立てて乾杯をする。そのまま一息にジョッキを呷り、濃い目のハイボールで喉を灼いた。


「飲み過ぎないで下さいね」

「吐かなきゃいいのよ」


 言いながらジョッキの半分を飲み干す。全身をアルコールが侵していく感じがして、頭がぼうっとしてくる。思わずと息が漏れた。

 そんな私を、小夜は心配そうに横目で見る。


「食べなよ、冷めちゃうぜ」

「知ってますよ」


 餃子を一切れ箸で摘み、そのまま口に放り込む。一口噛むごとに肉汁が舌を灼き、それを冷ますためにまたハイボールを流し込む。ブラックニッカの風味が口中に広がって気持ちが良かった。

 そうして小夜のことも忘れて晩酌を楽しんでいると、すぐにハイボールが底をついてしまう。店主に二杯目を要求し、私はラーメンを啜る。


「それで、いつからですか?」

「何が?」


 ずるずると音を立てながら、私は目線を小夜に向ける。


「いつから小夜に恋をしていたんですか」


 小夜は平然とそんなことを言い出す。

 突然だったもので私はつい、麺を喉に詰まらせてしまう。ゲホゴホと咳をして、店主がくれた二杯目のハイボールで喉を潤す。


「何だよう、急に」

「気になったものですから」


 私はううんと唸り、考える。


「さあいつ頃かしら。もう覚えてないよ、気づいたら……その、好きになっていたというか」

「気づいたら? 切っ掛けはなかったんですか?」

「どーかしらね。強いて言うなら、小夜が初めて私に笑ってくれた時かな」

「乙女ですね」

「からかうな」


 身体が火照るのを感じる。アルコールのせいか、それとも8ビートを奏でる鼓動のせいか。私はピッチャーの水をグラスに注ぐ。手元が覚束ないのは、きっと軽く酔いが回っているせい。


「注ぎますよ」


 小夜は私の手からピッチャーをひったくり、グラスに注いだ。手慣れた手つきで、美しさすら感じさせる注ぎ方をする。

 中国文化の茶芸、だったか。注ぎ口が長い急須を使ったパフォーマンスだが、彼女も練習すればできるんじゃなかろうか。しなやかに伸びる腕を見てそう思った。


「酔ってるなあ」

「そうでしょうね」

「こっちの話よ」


 気恥ずかしさを隠したくて、私はまたハイボールに口をつける。これ以上飲んだら何を言い出すかわからなかったので、黙々とラーメンを食べることにした。

 小夜もそれを察してくれたようで、髪を掻き上げ、お上品に食べ始める。

 その仕草がどうにも色っぽく見えて、私は目を逸らした。ジョッキは既に空っぽで、無口な店主にそれを差し出す。

 彼は何も言わず、静かにウイスキーを注いでくれる。そうして差し出された満杯のジョッキを、私は一息に煽った。

 小さな吃逆が口を突いて出る。三杯目のハイボールは、何故か普段より薄く感じた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 会計を済ませ、店を出る。暖房の効いた店内とは打って変わって、肌寒い風の吹く凍えた夜だった。


「もう冬よねえ」

「まだ秋ですよ。紅葉はまだ樹上にあり、紅い雨も地を染めず。木枯らしすら吹いてませんから」

「感覚よ、感覚」


 これだけ寒ければ冬でいいのだ。紫煙にも似た白い息を吐いて、私は思った。

 気温は体感で十度を下回っているくらいだろうか。指先は既に凍り付いたかのように冷たい。

 あまりにも寒いので、ポケットに手を突っ込んだまま歩いた。小夜は「はしたないですよ」と言うが、自分だって掌を吐息で温めている。

 そうして歩き出してから暫く、一言も喋らないまま時間だけが過ぎる。頭上を照らす街灯の数が五つを超えた頃、小夜が控えめに「あの」と口を開いた。


「どうしたの、小夜」

「そろそろ話して頂いてもいいですか。お嬢様が言おうとしていたこと、全部」


 それを聞いて、ズキンと胸が痛むのを感じる。彼女にそんなつもりはないのだろうけど、私には「逃げるのか」と言っているように思えてならなかった。

 そりゃあ私だって言うつもりでいた。だから彼女をここまで付き合わせているのだし、自分の気持ちだって伝えた。今更隠す必要などないだろうに、こうして逃げ腰でいてしまうのは、己の臆病さ故か。だとすれば滑稽だ。


「いえ、話したくないのならそれでいいのです。小夜だって覚悟ができている訳ではありませんから。でもお嬢様は、そのために今日まで悩んできたのでしょう?」

「何でそれを……」

「何年メイドやってるとお思いですか」

「ああバレバレってことね。やだやだ」


 くすくすと小夜は笑った。


「……変だな、ずっと考えてきたはずなのに、どこから話せばいいかわからないや」


 考えても考えても、湧いてくる言葉は支離滅裂なものばかりだった。思わず自嘲気味な笑みが漏れる。


「大丈夫ですよ。時間はありますから」

「ええ、そうね」


 大きく息を吸って、吐く。ひんやりとした空気が肺を巡り、すーっと胸がすくような気分だった。


「たまには冬もいいものね」

「秋ですってば」

「頑固ねえ」


 私はコホンと咳をして、


「『生きるとは、この世でいちばん稀なことだ。たいていの人は、ただ存在しているだけである』……。聞いたことある?」

「オスカー・ワイルドですか?」

「そう。アイルランドの詩人ね」


 流石はウチの専属メイドだ。私は少し嬉しくて、鼻を鳴らす。


「端的に言うと、私は『生き』たかったの。オスカー・ワイルド的に考えて」

「それはつまり、普通の生活ではいられない……と?」

「ううん。ほら、私って余命二年もないでしょう? それで思ったの。どんなに寿命が短かろうと、存在しているだけの人間にはなりたくないって。そう思った切っ掛けが、コレ……」


 私はワンピースの袖を捲って見せる。生々しい傷痕が顔を出し、小夜は静かに息を呑んだ。


「お嬢様……」

「ごめんね、こんなもの見せて……」


 目は口程に物を言う。小夜の怯えるような視線を感じ、私は思わず謝っていた。

 こうする他なかったのだ。彼女には私の全てを知って欲しかった。エゴといえばそれまでだが、彼女に対して誠意を尽くしたかったのだ。


「小夜は信じてくれる? これから言うことは滑稽で突拍子もなく、それでいて荒唐無稽なノンフィクション……」

「聞かせて下さい」


 唾を飲み込む音が聞こえた。私のモノでもあり、恐らく小夜のモノでもある。


「天国は存在する、地獄はそこにある」


 自分の頭を指さして、私はそう言った。

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