第15話 ロマンチック? ナンセンス?
「お嬢様」
その時、小夜が突然口を開いた。しばらく聞いたことのなかった、暖かみのある優しい声だった。
「すみません、少し小夜の話を聞いて頂いてもよろしいですか?」
「どうしたの、急に」
さっきも見た光景だな、と他人事のように思った。
「いえ、小夜は思うのです。月並みな考えですが、今日という日が永遠に続けばいいと。こういう考え方、ナンセンスでしょうか」
「ロマンチックとは思うけど、それが何か?」
「特に深い意味はございません。ただ……」
「ただ?」
何気なくそう聞き返すと、小夜の顔から笑みが消えた。
「ここから家まで約五分といったところです。それで一つ提案なのですが、その間一言も発さないで頂けますか。お嬢様が喋らないのであれば、小夜も黙っています」
ふと表情が強張るのを感じた。全身の筋肉が緊張して、まるでキンキンに冷えた水風呂に膝まで浸かってしまった時みたいだった。
「今、何か言おうとしていましたよね。それを言わないで下されば結構ですから」
「小夜……」
「わかりますよ、お嬢様の言いたいことくらい。何年一緒にいると思うんですか」
気づいていたのだ。彼女は私がどういう目的で誘ったかなんて、端から知っていたのだ。
「いいでしょう、お嬢様。小夜にも我儘を言いたい時が少なからずあるのです」
「小夜、私は……」
「喋らないで!」
突然の大声に、私の身体はピクリと震えた。自然と腕の力が抜け、私の両腕は小夜の左腕をするするとずり落ちていく。
「もう、いいじゃありませんか。小夜は十分苦しんだじゃありませんか。あなたはこれ以上、私に何を望むんですか」
歩く速度は徐々に落ち、やがてゼロになる。誰もいない路地の真ん中で小夜の声だけが響いた。
「悍ましい、とても悍ましいじゃありませんか。お嬢様の中に蔓延る欲望と死への執着は、周囲を巻き込んでどす黒く変色しているじゃありませんか。それがいずれ小夜の心も身体も縛り上げて、嗚呼、悍ましい終末を迎えるのです」
小夜は息継ぎを忘れたかのように捲し立てる。
「いつか小夜はお嬢様の闇に蝕まれて死んでしまう。そんな恐怖が常に傍にあるのです。最初は仕方がないと割り切っていました。お嬢様がこうなってしまったのは小夜の責任ですから、それは果たすべきでしょう?」
「それは……」
「そうして過ぎて行く日々は常に苦痛を伴いました。お嬢様が小夜に投げかける笑みも、素直に見つめることすらできない。次第に小夜は呼吸すら苦痛に感じるようになりました」
涙が彼女の頬を走る。小夜は一度大きく息を吸って、吐いた。
「でも今日だけは違ったんです。昨日の夜、お誘いを受けてからは胸がすっと軽くなって、今まで感じていた痛みが嘘みたいに消えてなくなりました。お嬢様の言葉も声も一切が心地良くて、まるで昔に戻ったみたいでした」
昔。私と小夜が、まだ家族として互いを愛し合っていた頃だ。
「だから喋って欲しくないのです。お嬢様がさっき言おうとしていたことは、きっと今日という日を終わらせてしまう。今日くらい、今日くらい思い出に浸らせてくれたって、いいじゃありませんか」
やはりそうだ。私はやはり他者を省みないエゴイスト。彼女がどんな気持ちでここにいるのかをわかった上で、今日という日をぶち壊そうとしている。だから小夜は涙を流したのだし、言い慣れない長台詞など使い出すのだ。
言いたいことは言い切ったと言わんばかりに、小夜は私を置いて歩き出す。その歩みには迷いがなく、大きな歩幅でこの場を離れていく。そのまま彼女が私の元から去っていってしまいそうで怖かった。
――こんなこと、もうやめちゃえよ。あんたの天命は短いけど、ちゃんと存在する。残りの人生を有意義に過ごすんだ。それでいいじゃないか。
昨日の菊花の言葉が、ふと浮かんだ。
それもいいかもしれない。どうせ小夜に無理矢理打ち明けたところで、もう彼女の答えは決まってる。聞きたくないと泣かれるだろう。そして私はそんな彼女に罪悪感を覚え、それ以上言えなくなる。そうなるくらいなら、初めからしない方がマシだ。
だから今は黙って、彼女について行くのだ。ごめんねと一言謝って、それでこの話はおしまい。緩やかに死を待っていれば、きっと誰も傷つかないさ。
「嫌だ」
私に囁く誰かに向けて、大声で叫んだ。
そんな妥協で終わってしまうような人生なんて嫌だ。誰かに合わせるだけで終わってしまう人生なんて嫌だ。そう、叫んだ。
私の声を聞いて、小夜は足を止める。振り返らず、静かに手を震わせている。寒さのせいだけじゃないことは明白だった。
「嫌だよ。今日という日が永遠にだって? 言わせてもらうわ、ナンセンスよ」
「ナンセンス、ですか」
「ナンセンス……ナンセンスさ! 人の生は常に移り変わるからこそ美しい。そこに長い短いは関係ない、停滞は死だ! 地球が自転を止めないから昼夜が切り替わるし、公転し続けるから季節は移ろう。そうだろ」
私の言葉を、小夜は鼻で笑う。
「何が言いたいんですか?」
「私は確かに他の人より長くは生きられない。近いうちに死ぬでしょう。でもそんなの関係ないね、私には目標がある。立ち止まった時点で、私は私じゃなくなるんだよ」
「そうですか」
冷たい風が私の髪を撫でつける。
小夜はゆっくりと振り向いて、
「それが何になるっていうんですか! いくら崇高な理由があったとて、自分の身体を傷つけていい理由になるわけないじゃないですか。そんな目標持つくらいなら、何もせずひっそりと暮らしていた方が億倍マシです」
「あなたにはわからないさ! どうせ今の私が何考えてるかなんて何一つ!」
「わかるわけないじゃないですか! お嬢様はいつもそう。何も言わず、ただ察してもらうのを待つばかり。それでどうにかなるっていうんですか」
小夜にそう言われるのは、これで二度目だっただろうか。心を完璧に読める人間なんていないのに、私はずっと彼女にそれを乞うてきた。
「そうだ。私は人の気持ちなんて推し量れないし、そのクセ人にはそれを要求する人間だよ。だから言わなきゃいけないんじゃないか。私が今何考えてるのか、それをあなたにわかって欲しいから!」
叫んだ。私の心を、気持ちを今度こそ彼女に伝えるのだ。
小夜はハッとしたように息を呑む。
「ねえ、言ったっていいじゃない。あなたなら知ってるでしょ? デートの終わりには決まってすることがあるんだよ。初心な私なんかより、きっとあなたの方がよく知ってるわ」
「お嬢様……」
顔が火照って紅潮するのを感じる。空気は冷たいのに、なぜか身体が熱くて仕方がない。
私は顔を逸らしながら、ゆっくりと小夜に近づいた。小夜の腰に手を回し、胸に顔を埋める。真っ赤になってしまった顔を彼女に見られたくなかった。
「小夜、聞いてくれる? 私はあなたと……」
眼を閉じた。そよぐ風の音も、遠くで鳴く自動車の唸りも聞こえない。ただ唯一、小夜の心臓の音だけが私の世界にあった。
「あなたと一つになりたいの」
鼓動の音が早くなる。小夜のものだけじゃない、きっと私のも同じだ。
御茶ノ水の冷えた夜が、ほんの少しだけ暖かくなった。
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