第14話 ありきたりなデート
早朝の新宿駅は今日も大勢の人で賑わっている。スーツを着た初老の男性、派手な服を着た女子高生、そしてベージュのジャケットを着こんだ長身の女性……。
「それ小夜のことじゃないですか」
「嫌だった?」
「長身の美女でお願いします」
「相分かった」
長身の美女——小夜は細い銀フレームの伊達眼鏡をかけ、冷ややかな視線を隣の女性に向けていた。黒いガーリーワンピースを着た、更に美しい小柄な女性だ。
「虚しくないんですか?」
「それをあんたが言うか」
「小夜の方は事実ですから」
随分と自分の容姿に自身があるらしい。さも当然のことであるかのように、彼女は平然と携帯電話を弄り始める。普通なら恥ずかしくて言えないだろうに。
ちらりと腕時計を見ると、時刻は午前九時を回った頃だった。予定の時刻まではまだ余裕がある。
「ここで立ってるのもなんだし、とりあえず動きましょうか」
小夜がふと携帯電話から目を離す。
「珍しいですね。お嬢様から動こうだなんて」
「そんなにぐうたら?」
「ええ」
身の回りの世話を一任している身で言えた義理ではないが、それは言い過ぎだろう。
不満を視線に乗せて小夜を睨んだけれど、彼女は気にも留めず電話のディスプレイを見つめている。何が面白くて見ているのか、皆目見当がつかない。
「もういいよ。こんなことしてたら時間が勿体ないわ」
どうせこのまま駅にいてもすることはない。適当な喫茶店にでも入っていた方が有意義じゃないか。……そう思ってしまうのは、老い先短い御身分であるからこそだろうか。早歩きでその場を離れようとする自分を俯瞰したら、なんだかそう思えた。
「お嬢様、どこに行くんです」
「スタバ。開演まで時間あるし」
「そうですか」
小夜は相変わらず携帯電話ばかり弄っている。澄ました顔に湛えた冷淡な視線を、機械なんぞが独り占めしているのはどうにも不快だった。
だから小夜が私の肩を掴んで振り向かせたのには驚いたし、意外だった。真っ直ぐな視線が私の瞳を貫いて、心なしか心臓の鼓動が早くなっているのを感じた。
「な、何?」
「小夜はあまり新宿には来ませんが、迷いやすいというので有名だそうですね」
「ええ。そうだけど」
「もっと慎重に行きましょう? 道、反対です」
そう言って見せられたのは電話のディスプレイ。地図アプリが表示されているのに気づき、私は少し恥ずかしくなった。彼女がさっきまで見ていたのはこれだったのだ。
「悔しかないわ」
「何です?」
「いえ。別に」
何でだろう。彼女に見つめられていると動悸が早くなってしまう。頬が熱を帯び、つい目を逸らしてしまう。まるで初心な乙女のようだった。
私はそれを悟られたくなくて、足早にその場を後にした。後ろから追いかけてくる小夜の足音が、どういう訳か耳に心地よかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「映画なんて家で見ればいいじゃないですか」
そんな無粋なことを言い出したのは、目の前に座るウチの能面ヘルパーだ。フライドポテトを三本纏めて摘み、丸ごと口に放り込んでいる。Lサイズを頼んだはずなのに、十分もしないうちに底をつきかけていた。
「あなたって風情とロマンから一番かけ離れた存在よね」
「合理的且つ知的なだけです」
「あそう。スタバ混んでるからってマック選ぶ人間の言いそうな話」
「こっちのコーヒーの方が好きなんですよ」
小夜は言いながらホットコーヒーに口をつける。そして熱かったのか、すぐに口を離して苦い顔をする。馬鹿ね、と言いながら私はバニラシェイクを啜った。
世間一般でいうデートとは、即ちこういうものだろうか。ふとそう思った。
昨日の夕方に小夜をデートに誘ったはいいものの、私はデートというのを今までしたことがない。告白の前にはデート、なんていうテンプレートに従ったのは間違いだっただろうか。
病院でのことだが、小夜はあまり気にしていない様子だった。生意気な言動も、コーヒーに熱がるおっちょこちょいなところも、いつもどおりだった。逆にこっちが勘ぐってしまうくらいだ。
「それで、何の映画を見るつもりなんですか」
「ホラー映画。最近話題のヤツよ」
小夜が露骨に嫌な顔をしたのを私は見逃さなかった。
「あら、嫌い?」
「非合理的です。態々自分から恐怖体験をしようとするなんて無駄の一言に尽きます。怖いとかそういうのとは違いますが、自ら見たいとは全く思いませんね」
「いい反応ね。ビックリするくらいに」
「そんなもの見るくらいなら古いポルノ映画でも見ていた方がマシですよ。知的なものではありませんが、非常に合理的なものですよ」
「『タクシードライバー』でも見たの? ポルノ映画なんて見たことないクセに」
「お好きにご想像下さい」
図星のようだ。トラヴィス・ビックルの真似なんて、世界一非合理的だ。あんなの、自分勝手でインモラルなだけの男だぜ。
「わかりましたか? ホラーなんて見るくらいなら、小夜はこのまま帰りますからね」
「わかったって。現地で適当なの見繕うことにするよ」
小夜の猛烈な反対に押し切られる形で、私はやむなく見る映画を変える羽目になった。
過去に家でホラーを見ていた時、彼女は意地でもリビングに入ってこようとしなかった。なんなら勝手に私の部屋で籠城し始めたくらいだ。だからホラー嫌いなのは知っていたけど、これ程とは。
結局、私は見たかった映画を見ることは叶わず、対して面白い訳でもない恋愛映画を一時間半に渡って見させられたのである。
隣の小夜は時折ハンケチで涙を拭う仕草をしていたが、理解し難い。恋愛映画なんて、人気の女優俳優を入れ替えただけで代り映えしないじゃないか。
正直な話、彼女の趣味はイマイチ理解できないものばかりだ。映画に対してはミーハーなくせして、音楽の趣味はとことん特殊なものを好む。映画館のあとに行ったカラオケではテクノばかり流すし、趣味に統一感が無い。
そういう訳で私は帰りの電車の中、夕焼けに照らされながら、どこかモヤモヤした気持ちを抱えていたのだった。他の乗客が少ないのが唯一の救いか。
「お嬢様も大概ですよ。椎名林檎以外に知らないんですか」
「いいでしょ、林檎ちゃん。無罪モラトリアムは名盤よ」
「そういう問題じゃないでしょう」
ムッとした様子の小夜を見ていると、自然と笑いが込み上げてきた。なんだか以前の私たちに戻ったみたいで、少し懐かしい気分だったのだ。
電車が止まる。御茶ノ水のホームに降り立った私たちは、改札を出て帰路に着く。夕陽は眩しく輝いていたが、風は冷たい。私は小夜の左腕にしがみつくようにしながら暖を取る。
そんな私を、小夜は愛おしそうに見ていた。
「お嬢様」
しっとりとした声音が私を呼んだ。
「どうしたの、小夜」
しがみついた腕を見つめ、私は答える。
そのまま数秒が過ぎた。小夜はしばらく歩いてからまた口を開いた。
「今日はありがとうございました。小夜も久々に羽を伸ばすことができて嬉しかったです」
「本当? ならよかったケド」
「お嬢様は違うんですか?」
不満を露にしたつもりではなかったのだけど、小夜にはそう見えたらしい。私はしがみつく腕を更にぎゅっと絞める。
「私も楽しかったよ、小夜。あなたと出かけられて」
「でも不服そうでしたよ。映画館の時とか」
「それは……否定しないよ。けど小夜と一緒だったから」
そう言うと、小夜は馬鹿にしたようにクスリと笑った。
「お嬢様はあまり経験がございませんものね」
「なにおう」
「デートというのは相手に合わせるものですから。お互いに価値観が異なるのは当然で、それを少しでも理解して近づいていく。その時折れるのは大抵誘った側ですわ」
つまり私が折れるのが当たり前だと言うのだ。
納得がいかない。私は伏せた目で小夜を見た。それこそ不服というものだ。
「わからないな。自分のことを理解してもらう方が嬉しいじゃない」
「そういう考え方だと、一生
一方的なままでは恋に過ぎない。小夜はそう付け加える。
――ああそうですか。私は自分勝手で他人を省みない、自由気ままなエゴイストですよ。
なんて言っても鼻で笑われるだけだろう。私は道端の街灯をじっと見つめ、小夜と目を合わせないようにして歩いた。
「不服ですか?」
「まあね」
「そういうところですよ」
小夜は私の頭を小突いて言った。
「でもわからないと言ったら、小夜はお嬢様のことの方がわかりません」
「どういうこと?」
無意識での発言だったのだろうか、聞き返すと小夜はハッとして口をつぐんだ。
「……いえ、すみません。なんでもないんです」
「気になるなあ、その言い方」
それきり、小夜は黙ってしまった。その理由に何となく察しがついてしまって、私はそれ以上追求するのをやめた。
小夜の顔をチラリと盗み見る。夕陽に照らされた彼女の横顔は、今まで見たこともないくらい美しかった。笑っていたのだ。
彼女は今日という日を、きっと楽しんでくれたのだろう。いつも危険なことばかりしている私と、普通の女の子みたいな一日を過ごすことができた。それは彼女にとって、本当に喜ばしいことだったのだ。強迫観念に追われ、かつての自分を封じた彼女だからこそ、そう思うのだ。
水を差したくない。きっとそれが理由。
御茶ノ水の雑多な賑やかさは、気づけば薄れていた。人気のない路地だ。あと数分も歩けば自宅の前の通りに出る。この一日が終わってしまうのだ。
「小夜、ごめん」
「どうしたんですか、急に」
欠伸混じりに小夜が答える。見られていたことに気づいたのか、恥ずかしそうに笑った。
今から私が言おうとすることは、彼女の思い出を穢すことになる。今日という楽しい記憶を、重苦しい話で塗り替えることになる。だから謝った。
小夜の笑顔を見て、今この話をするのはやめておこうかとも思った。今日はゆっくり休んで、また明日改めて話せばいい。その方が小夜にとってもいい選択のはずだ。
けれど私は決めたのだ、小夜に全てを話すと。ここで止まるなんてことは選択肢として存在してはいけない。そう、自分を鼓舞しなければ言い出す勇気なんて出なかった。
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