第11話 死神少女は煙管をふかす

 三日経った。小夜に全てを打ち明けるべきか、悩み始めてから三日が経った。私は未だ、何の決断もできちゃいない。

 自室のベッドに寝転がって天井を見つめる。悩み考えているのか、それともただダラけているだけなのか。自分でもわからないまま、時間だけが過ぎていく。午後の御茶ノ水に、過ごしやすい秋の風が吹く。

 悩みとは、高度な知的活動を行う生物にのみ許される贅沢のことだ。

 感情と理性のせめぎ合いを本質とするそれは、後で振り返ってみると美しく見える。だが私の内で渦巻くドス黒いモノは、どうしようもなく醜い。

 仏教では、人間は解脱をすることであらゆる悩みから解放され、自由になれるとされている。

 仏門に入って修行でもしてみようか。髪を剃って僧衣を着て座禅を組んで、南無南無と念仏を唱えるのだ。果たしてそんな日が私に来るのかどうか、怪しいところではあるが。

 嗚呼、南無三。悟りの境地は今何処に。


「馬鹿だな。真に悟った人間なんていないのに」


 菊花の声だ。あの死神は、また勝手に人の部屋に上がり込んでいるのだ。

 ベッドに寝転んだまま、私は彼女に視線を向ける。


「悟るってのは人間らしさを捨てるってことさ。たとえあんたが悟ったとして、それはもうあんたじゃない。そんなものが幸せかね?」

「悩むよりはマシ。死神様の甘言には乗らないわ」

「ニコチンもアルコールもいらないって?」

「サンキュー俗世、ファッキンブッダ」


 くくく、という笑いが頭上から降りかかる。

 私はベッドから起きて部屋の電気をつける。そして黒のレザーチェアに腰掛けて菊花の方に向き直った。


「よう」


 にやけ顔の死神が、大鎌を携えてこっちを見ている。いつも着ている着物はどこへやら、ロックバンドを思わせるパンクファッションをしている。聞けば着物は仕事着で、これは私服なのだそう。


「珍しく腐ってるな、って思ってさ。ちょいと顔を見に来たんだ」

「いやね、丁度食べ頃じゃないかしら」

「いやいやマジの話。腐臭が凄いんだぜ、あんたの中身。ぐじゅぐじゅでドロドロだ」


 そう言って、菊花は自分の左胸をポンと叩く。つられて同じように手を当てると、凄まじい勢いで鼓動する心臓の音が感じられた。

 成程、腐ってるというのは比喩ではないらしい。私の心の中は、自分で思っている以上にぐじゅぐじゅでドロドロのようだ。


「感情の揺れ動きは逐一チェックさせて貰ってるんだ。変な気起こされたくないからね」

「あらやだ。おちおち夜も眠れないわ」

「感謝しろよ? お陰であたしとあんたは巡り会えたんだ。ああそれと……」


 突然、菊花は言葉を切ってキョロキョロと周囲を見渡す。


「ここって禁煙?」

「まさか」


 私はサイドテーブルに置かれた銀の灰皿を指で示して言った。

 菊花は胸元からえんじ色の煙管を取り出し、私のベッドに座ってふかし始める。マナーのなっていない死神だと憤りつつ窓を開け、私はブラックデビルに火を点けた。


「菊花はふかし派なのね」

「こっちの方が香りを味わえるんだ。態々煙管なんて使うんだから、そうしないと勿体ない」


 そういうもんか、と私は煙を肺まで吸い込んで吐く。

 窓へと逃げていく煙を目で追いながら、私は一つ大きなため息を吐いた。鼻を抜けるチョコレートのいい香りも、悩みを吹き飛ばす程の力は無いようだ。


「重症だね」


 他人の目から見て、今の私は随分とメランコリックに映るらしい。慈愛に満ちた瞳が私を捉えた。


「沈んだあんたを見るのって久しぶりだな。それこそ初対面の時くらいじゃないか」

「あの時とは違うよ。希望も絶望もない空虚さとはまた違う。なんというか、自分でも何考えているのかわからない。どうしたらいいのかすらわからなくて、もう頭の中がぐちゃぐちゃになってる」

「ついつい仏サマに頼っちゃう程、あんたは悩んでる訳だ」


 くくく、と再び菊花が笑う。口の端から漏れる煙草の煙が艶めかしく揺れた。

 後で消臭剤を撒かないと。ヤニの臭いが部屋に染みつくと、小夜がうるさいのだ。


「今更じゃないの。ベッドシーツはもう手遅れよ」

「そうかも」


 灰皿に灰を落とし、そのまま火を揉み消す。いつの間にか一本吸い終えていたのだ。

 私はもう一本の煙草を取り出して火を点ける。菊花はそんな私の一挙一動を、頬杖をつきながら眺めている。


「私ね、小夜に打ち明けようと思っていたの。私の目的と、行動の意味を」


 菊花は頬杖を崩さない。時折煙管に口をつけながら、ただ静かに話の続きを待っていた。話しやすくていい、と私はホッとする。

 誰かの反応や顔色を窺うなんて腑抜けている、とかつての私なら嘲うだろう。自分の言葉や思想は自分のためのもので、周囲を気にして封じ込めても意味はないと。

 それは単に私のエゴイスティックな性格が原因であり、小夜はその被害者だ。

 この研究は小夜のためだと決め込んで、独り善がりな考えに自惚れていた。その行動や言動が、どれだけ小夜を傷つけているかも知らずに。


「言う必要なんてないと思ってた。でも私が思っているより、みんな私を心配してくれているんだって気づいた。どうしてそんなに気に掛けてくれるのか、イマイチまだわからないケド」


 そりゃみんな、あんたが可愛いからさ。なんて菊花は大袈裟なことを言う。


「嘘吐け」

「本当さ。普通あんたみたいな変な奴と関わり合いになりたいとは思わないだろ?」

「まあ確かに」

「あんたは変人で、いつも何考えてるのかわからない。けどどこか必死で、誰よりも頑張ってるその姿を見たらさ……わかるだろ? いじらしくて可愛く思えるんだ」


 含み笑いが私の心をざわつかせる。

 もし本当にそうなら、私は酷い奴だ。今更な考えかもしれないけど、そう思った。


「私は自分勝手で我儘で、尚且つ救いようがないほど鈍感だ。もっと早くに気づいていればよかったなんて、思っちゃいけないだろうにね」

「そうは言わないよ。あんたは自分なりに信念を貫いているじゃないか」

「前はそれで納得してたさ。でも今は……」


 そっと目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは小夜の泣き顔。心臓に針でも刺されたみたいに、ズキズキと鋭い痛みが走る。


「罪悪感っていうのかな。あんなに心配してくれているのに、私はそれをずっと無視してきたんだ。あの子の涙を見て、ようやく気づいたよ」


 言いながら、遅すぎるだろうと自分でも思った。

 果たして私は、小夜の気持ちなんて考えたことが一度でもあったのだろうか。私はきっと自分を傷つけながら、彼女の心も傷つけていたのだ。


「だからさ、私はあの子に伝えたかったんだ。知って欲しかったんだ。私が初めて愛した女性ひとに、自分の信念や心を。そして……受け入れて欲しかった」


 そうすれば小夜に涙を流させることもなくなる。私の中に渦巻く罪の意識はきっと晴れる。けどこの考え方もエゴなのだと思うと、少し悲しかった。


「それで……打ち明けたの? 彼女に真実を」

「まさか」


 自嘲するような薄ら笑いが思わず浮かんでいた。


「無理に決まってるじゃない。あの子は泣いていたんだ。あの小夜がわんわん泣いてるのを聞いちゃったら、そんな残酷な話できる訳がない」

「それで、悩んでるって?」

「受け入れてくれないかもしれない。そもそも話をさせてくれないかもしれない。小夜が私を拒絶するのなら、それは精神的な死に等しいわ」


 三百グラムの心臓と、千五百グラムの脳味噌。いずれかが停止すれば人は死ぬ。私にとって小夜は、彼らを動かしてくれる唯一の動力なのだ。小夜のために私は生き、そして思考する。拒絶とは即ち死だ。

 要は不安なのだ。私は小夜に嫌われるかもしれないとビクビク怯えているだけ。ブッダだとか解脱だとか、そんな大袈裟なものではない。極めて普通の、人間的な話。

 こんなことにどれほど悩めば気が済むだろう。私は灰皿に吸い殻を擦りつけ、また一つため息を吐いた。

 菊花も煙管の灰を捨て、胸元にしまっているところだった。目を伏せ、ただ静かに思考を巡らせているように見える。

 誰も何も喋らず、鳥の声も虫の声もせず、遠くで走る車の走行音だけが聞こえる。窓に差す夕暮れの明かりだけが、唯一時の進行を告げていた。

 静かだ。まるで別世界に迷い込んでしまったような気分すらしてくる。目の端に映る大鎌のせいか、我ながら嘘に思えなくて笑った。

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