第10話 迷い
ぼけーっと仰向けに寝ていると、何もかもどうでもよくなってくる。
起きている時はアレをしなきゃコレをしなきゃと右往左往するけれど、寝転がった途端余程のことがない限り動きたくなくなる。そういう気分だ。
こんな経験はないだろうか。
リビングルームのエアコンを消し忘れて自室へ行き、ベッドに入って電気を消す。そしてそのタイミングで消し忘れに気づく。電気代を考えると消しに行くべきなのだが、もうベッドに潜り込んでしまった以上起きる気にならない。
結果、エアコンを点けっぱなしで寝てしまい、翌日の朝にこっ酷く叱られるのだ。
……まー、そんなことすらどうでもいいのだけれど。
ガクン、と身体が揺れる。私は吃驚して身体を震わせた。寝転がった硬い床がごうんごうんと音を立てて動き出す。
顔を上に向けると、大きく口を開けた魔物が私を飲み込もうと息巻いている。私の身体は徐々に徐々に彼の口に運ばれていき、やがて頭を丸ごと包み込んだ。
「ああ、おいたわしやお嬢様……」
と小夜。律儀に目をハンケチで拭っている。
白衣を着たボサボサ髪の男が、呆れた様子で彼女を見た。
「CTスキャン如きで大袈裟ですよ」
「そういうのは野暮ってもんよ、センセ」
大学で真下先生と別れた後、小夜から連絡があった。曰く、病院に検査を依頼したという。
〈地獄行き〉から戻った私は、小夜の介抱によって一命をとりとめた。暫くは頭痛に悩まされたが、すぐに軽い運動もこなせるくらいには回復した。泣いていた小夜も落ち着きを取り戻したようで、いつもの仏頂面を取り戻していた。
そうして遅めの夕食を取っていた時のことだ。
「明日は病院に行きます。大学が終わる頃にまた連絡しますから」
小夜が突然そう言い出したのだ。面倒だから嫌だ、なんて言える雰囲気ではなかった。
スキャンはすぐに終わった。
私は別室で検査着から私服に着替えると、医者が待つ部屋に戻る。
「センセ、そんで結果は?」
「聞きたい?」
「うーん、やめとく」
「前と同じだよ。脳にある腫瘍は順調に成長してる」
センセは意地悪な笑みを浮かべる。髪ボサボサの不良医のクセに、と私は彼をも睨みつける。
「なんだよ、いつも伝えてるだろ」
「たまには聞きたくない日もあるの」
「女の子だから?」
「そう!」
「じゃあ煙草はやめろ。あと酒も」
「やだ」
吸ってなきゃやってられないわ、と騒いでみる。それくらい許されるだろうと高を括って。
案の定センセは苦笑いして「程々にな」と言ってくれる。
「あっ、そういやお前。もうアレはやってないよな?」
「何、腕見てみる?」
袖を捲って腕を見せた。淡いペールオレンジの肌が覗く。
「なんだ、心配して損したぞ。高校の頃は酷かったもんな」
「いんや、ファンデで隠してるだけ」
「お前なあ」
「嘘だよ。もうしてない」
これは本当。死ぬ〝フリ〟なんて意味がないもの。私はできる限りのニヒルな笑みをセンセに向けた。……ま、痕を隠しているのも本当なのだけど。
「ようし、今月も変わらず元気みたいだな。お前も腫瘍ちゃんも」
「不服ですわー」
「そう言うなよ。ついでで定期健診もしてやったんだ、感謝しろよ」
センセは目線を逸らさぬままカルテに何やら書き込むと、クリアファイルに突っ込んだ。
「じゃあ診察終わり。また来週な」
「次までに特効薬よろしくね」
私は手を振って診察室を出る。けれど小夜はいつまで経ってもついて来ない。
「小夜ー?」
「お嬢様は下のカフェにでも行っててください。小夜は先生に用がありまして」
「あらそう」
チラリと見えた小夜の横顔は暗かった。
こりゃ訳アリだね、と診察室の扉を閉める。カフェには行かず、引き戸に耳を当てて中の様子を窺った。壁に耳あり、という奴だ。
「どうしたんだい、診断は終わったよ。異常なしってのは本当の話さ」
「疑うつもりなんてありませんわ。ただ……」
扉越しのせいか、声がくぐもって聞こえた。
「じゃあ小夜ちゃんも診察? 昨日もカウンセリングで来なかった?」
「いえ。ちょっとした相談です。お嬢様について」
「あー、苦労してそうだねえ。余命二年のお姫様は我儘でしょ」
「そうですね」
小夜は深刻そうにため息を吐いた。許可もなく扉を蹴破るような奴が何を言うか。
「昨日の続きを話したかったんです。我儘かもしれませんが……」
「いや構わないけどね。あの後何かあったのかい」
優しく、諭すような声だ。私にするようなお茶らけた態度とは違う声。
一時静けさが場を包んだ。一切の音が消え、私は時が止まったような気さえした。小夜の泣き声が聞こえてくるまで、私はずっとそうしていた。
「大丈夫かい」
「……わたし、どうしていいのかわからなくって。もう、あの人の考えがわからないんです。今日ここに来たのだって、それが理由」
絞り出すような叫び声だった。声を張り上げている訳ではないのに、どうしてか心に訴えかけるような迫力があった。
「できる限り、あの人の希望に沿うようにしてきました。我儘を言われても何だって叶えてきました。だってそれが自分自身の責任だったから、何も言わず従ってきたんです。でももう、耐えられないかもしれません。こんなに涙が出て、こんなに胸が締めつけられて……」
「小夜ちゃん……」
「先生、教えてくれませんか。普通に余生を過ごすんじゃダメなんですか。自分の大事な人に、短くても充実した人生を送って欲しいと願うことは間違いなんですか。それともこれは、復讐のつもりなんですか」
わあ、という小夜の泣く声が廊下にまで響いた。喉の奥から吐き出された感情は、理性というダムでは防ぎきれない激流だった。苦しい、辛い、悲しい……そんな想いが無差別にばら撒かれる。
感情の奔流は私をも巻き込んで、荒れた。
想像もしていなかった。私が彼女を、これ程までに傷つけていたなんて。それがショックだった。昨日の涙なんて比じゃないくらい、ショックだったのだ。
それでも私には成し遂げなければいけないことがある。私は彼女のために、どうしても死から逃れられない。
ただ、それを彼女に面と向かって言えるだろうか? ……きっとできないだろう。苦しむ彼女を更に傷つけて、いったいどうしようと言うのだろう。
私はどうすればいいのだろう。一から説明してわかってもらえと言うのだろうか。今更小夜に理解してもらおうだなんて、どうにも烏滸がましい行為じゃないか。ならば一層、理解なんてされない方がマシじゃないか。
様々な思いがグルグルと頭を巡る。結局、どうすることもできずに時間が過ぎていく。
「小夜ー!」
我慢できず、扉の外から彼女の名を呼んだ。
これ以上、私に彼女の心の内を盗み聞く権利はない。どうすることもできないのなら、少しでも彼女を尊重するべきだと思った。
するとやはりと言うべきか、ぎょっとするくらいに静かな時間が流れた。
小夜は途端に泣くのを止めた。センセも何も言わず、音を立てることが罪であるかのようにも思えた。
私が緊張感で押し潰されてしまうより早く、小夜は口を開いた。
「お嬢様」
ドア越しに聞く小夜の声は冷めていた。どうってことないとでも言いたげな声音だった。いつもみたいに鉄の面を被り、感情の希薄な女を装うために。私のことなんてまるで気にしていないと装うために。
「いやあカフェ人一杯でさ。折角だし遠出していいもん食べようよ」
声が震えているのが自分でもわかる。きっと小夜もセンセも気づいているだろう。それでも二人は何も言わなかった。
ドアがスライドして、小夜が姿を現す。
疲れた顔をしていた。目元は腫れて、頬には涙の跡が微かに残る。なのに彼女はなんともない風を装って、私の前に現れたのだ。
「お待たせしました。どこがいいですか?」
「ううん、小夜の行きたいとこでいいよ。……じゃ、センセ。また今度」
私は手を振ってドアから離れた。
小夜はセンセと二言三言言葉を交わし、私の後について歩く。エレベーターに乗って階を下りる間、私たちは一言も喋らなかった。ただ静かだった。
小夜はもう、普段の落ち着きを取り戻していた。澄ました顔で階数表示のランプなぞ眺めている。ディナーをどこで食べるか、なんて考えていてもおかしくない。そんな雰囲気だった。
私の方はといえば、小夜を気にせずにはいられずに只管ソワソワとしていた。傍から見てもわかるくらいに視線は巡り、今が何階なのかもわからない。これは重症だな、なんて苦笑する。
今日はカウンターのある店を選ばないと。こんな気分のまま、顔を突き合わせての食事なんてできるはずがない。小夜に気づかれないよう、ネットで店を探しながらそう思った。
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