第9話 生の価値

「歪んでるね」


 話を終えた時、真下先生はそう言って私を詰った。


「そんなのは君の勝手な思い込みだ。小夜さんは何も悪くないだろう」

「そうよ? でも私が悪いってわけでもないでしょ」

「性根が悪いんだろ」

「まあ酷い」


 三本目のブラックデビルに火を点ける。ジッポのオイルが減っているのか、弱々しい火だった。


「私は飛び降りたの。自分が近い将来死ぬんだってわかって、その上小夜に裏切られて絶望したのよ。でも生きていた。生かされてしまったわ」


 全身の骨が砕け、血の海で溺れ、呼吸すらままならない。それでも死ねなかった。小夜を傷つけた罰なのだ、と自分に言い聞かせなければ耐えられない苦痛だった。


「小夜には本当に申し訳ないと思ってる。私が病気なのも飛び降りたのも、全部自分のせいだって苦しんでいたのよ。あんなに笑顔が似合う子だったのに、今じゃ表情を殺した能面女になっちゃった」

「小夜さんは何て?」

「私以外の人間関係を全部潰して、一生を私に尽くす所存ですって。彼氏とも別れたよ」


 そして彼女はかつての自分自身を殺した。二人して笑い合った過去を捨て、私への贖罪に生涯を捧げようとしている。

 それも偏に、何もかも自分が悪いという自責の念からだ。


「彼女は真剣に私の世話をしてくれたわ、一日中呆けて無気力だった私のね。あんな高さから飛び降りて死ねなかったから、もう何をしていいやらわかったもんじゃなかったわ」

「それで、自傷行為に走ったと?」

「というより、生きる気力も死ぬ気力もなかったの。死ねたらいいな、なんて思いながらカッターの刃を腕に突き立てる。そんな毎日がただ過ぎて行ったわ」


 袖をまくって先生に見せる。生々しい手首の傷を見て、彼は「うえっ」と目を逸らす。


「それで君は死後の世界を見たというのか」

「そ。ある時ざっくりいっちゃって、そのまま。意識が薄れていって、気づいたらあの世だったの」


 死後の世界。死神や閻魔が死者を裁く、実体として存在するこの世と異なる世界。私はそこに行って、帰ってきた。


「私、感動したわ。世界で誰も知らないことを、私は知っている。偉そうな宗教家も、むつかしいことばかり言う政治家も知らない事実を。それって本当に素晴らしいことだわ。私の生にはこんなに価値があるってわかったんだから」

「生の……価値?」

「そうよ。あの世を知っているのは世界で私一人。そうでしょう?」


 菊花から聞いた。あの裁判所から生きて帰る者は非常に稀であると。その事実が私の唯一性を、価値を証明してくれる。


「だからね、私はこの論文を完成させなければならないの。これを発表すれば、私の価値は証明される。私の人生に、やっと意味が生まれるの」


 私の使命。私に課せられた、人生の意味はたった一つだ。


「小夜のためよ」

「小夜さんの?」


 意外だとでも言いたいのだろうか。先生の目は懐疑的だった。


「私はあの子に伝えたいの。この研究を完遂させることで、私は精一杯生きたんだって。充実した人生を送ったんだって。だからあなたが気に病むことは何一つないんだ。……そう伝えるために、私は今こうして生きてる」


 自殺未遂? そんな言葉で済まされてたまるか。

 。いくら気道を絞められようと、何度窓辺から飛び出そうと、それは変わらない。私は生きるために死んでいるのだ。


「間違っている。そんなの、口で言えば済む話だ」

「間違っている、ですって? それをあなたが決める理由は何? 外野が一々しゃしゃり出ないでよ。言葉じゃ伝わらないことなんていくらでもあるでしょう?」

「それは……」


 先生が口を閉ざすのを見て、私の胸中に得も言えぬ満足感が生まれていた。私は正しい。彼がそう認めてくれたのだ。


「これが理由だよ。私が生きた証を残すには、この研究しかない。だからやるんだ。私は生きる死ぬさ、何度でもね」


 指に挟んだブラックデビルが、力尽きたように根元から落下する。話すのに夢中で灰を落とすのを忘れていたみたいだ。

 えらいこっちゃと騒いでいると、乾いた笑いが研究室に木霊する。


「そういうことかい。君、本当に情熱的な生徒だよ」

「情熱。まあそうかも」

「君は歪んでいる。小夜さんに対する行為も言動も常人のそれじゃあない。でもね、君の研究に対する熱意は素晴らしい。称賛に値するよ」

「急にどしたの、先生」

「いやなに、君みたいなのは珍しくてね。宗教学なんて真剣に来る奴少ないんだよ、ウチの大学じゃあね。僕の分野なんて特に興味本位で来たガキばかりだもの」


 気に入った、と言わんばかりに彼は私を抱き寄せる。背に回された手が服を擦り、衣擦れの音がした。


「家族に認められない気持ちはよくわかるよ。僕も研究対象を変える時、嫁さんに大反対を喰らったもの。協力するよ、僕で良ければね」


 先生は息を荒くして抱きしめる力を強くする。生暖かい吐息が顔にかかって気持ち悪い。


「煙草の火くらい消させてよ」

「ああ失礼。つい興奮してしまって」


 彼の拘束を逃れ、私は携帯灰皿に灰を落として火を揉み消す。


「それで、なんです? 協力というのは」

「ああ、僕の研究室を一つ貸してあげようと思うんだ。そこなら自由に実験ができるし、小夜さんにもバレないよ」


 魅力的な提案だった。小夜のことを気にする必要もなく、好きなだけ研究に没頭できるというわけだ。

 けれど「バレない」なんて言い方に私は嫌悪感を覚えた。それでは小夜を騙しているみたいで、少し嫌だったのだ。


「遠慮しておきます。やっぱり、彼女に納得してもらうことの方が健全なので」

「そう上手くいくかな」

「わかりませんわ」

「いいさ。どうせ君は僕を頼ることになる」

「嫌な人ー」


 私はそう言ってゼミ室を出る。「明日でいいから課題を持ってこい」と声がしたけど無視をした。彼は厭らしい笑みを浮かべていた。結果なんてわかりきっている、とでも言いたげな顔だった。

 一抹の不安が胸の内を巡る。小夜は私を信じてくれるだろうか。私を理解してくれるだろうか、と。

 ブラックデビルが恋しい。ぽっかりと開いた胸の穴を、あのフレーバーが埋めてくれる。そんな気がしたのだ。

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