第8話 神様なんていない

 私の両親は所謂名家と呼ばれる家系の出自で、それなりに優秀な血筋だったらしい。父は大企業の社長、母は名門大学付属の外科医だ。高層マンションの最上階に居を構え、裕福な暮らしができていた。

 私はそんな二人の間に生まれた一人娘だった。随分と期待をされていたのか、私の傍らには常に一流の教育者が連れ添っていた。食事の時と寝る時以外は勉強漬けの日々だ。友達と遊ぶなんて以ての外だったし、そのせいで独りぼっちになっても誰も気にしてくれなかった。

 孤独だった。どんなに勉強ができても私の心は空っぽだった。やがて空っぽな私は、指先一つ動かすことすら億劫になっていった。気力や精神力といったものがプツンと途切れてしまったのだ。勉強もしなくなった。学校も行けず、ベッドの上から離れられなくなった。

 小夜と出会ったのはその頃だ。

 不登校になった私を見かね、両親はどこかから遊び相手を連れて来た。それが小夜だった。年齢は二つ上、おっとりした性格で頭が良い。幼いながら家事も難なくこなすが、おっちょこちょいな面もある。何より弾けるような笑顔が似合う少女であった。

 彼女との生活は私にとっていい刺激になった。彼女は私という個人を見て接してくれたし、決して何かを強制することもなかった。世間的に見たら当たり前の、でも私にしてみれば初めての家族になった。

 それから何年も過ぎた。

 私は高校生になり、小夜と同じ学校に通うことになった。毎朝同じ通学路を通り、同じ校舎で学ぶ。それは友達のいない私にとって何よりも喜ばしいことだった。

 小夜は変わらず優しかった。彼女にも友人がいただろうに、いつも私を優先してくれた。当たり前のように私を愛してくれていた。彼女は自分のものだ、なんていう安心感すらあった。

 私は小夜に恋をしていた。依存していたと言ってもいいくらいに、彼女を想っていた。

 親からは愛されず、友達もいない。将来の夢や目標も持てない。私には小夜しかいなかったのだ。だからこそ、小夜と一緒に過ごす時間が愛おしく思えた。

 けれどそんな日々が無残にも崩れ去ったのは、皮肉にも小夜のせいだった。

 ある日の放課後。三年生だった小夜を迎えに行った私は、偶然とはいえ彼女の秘め事に触れてしまった。

 それは彼女にとっても、そして私にとっても致命的な事実だった。


「小夜。いいだろ」


 人気のない教室から声が聞こえた。男の声だった。


「もういいでしょ。お嬢様が来ちゃう」

「君はいつもその子を理由にするよな」

「そんなこと……」


 夕焼けに照らされた教室で、小夜の真っ白な肌が浮かび上がる。それは筆舌に尽くしがたい程綺麗で、そして醜悪だった。

 私は教室の外で息を潜めた。破裂しそうな心臓が、外にも聞こえそうな音で喚く。

 その時、嬌声が響いた。恐る恐る覗くと、ゴツゴツとした男の手で小夜が穢されていた。彼女はそれを払い除けることすらせず、ただ静かに受け入れている。


「小夜」


 男が小声で囁く。微かな吐息が耳に触れ、小夜の身体が小さく震えた。

 二人は身体を重ねた。体温を交わし、体液を交わし合う。混ざり合った二人の姿は、それはそれは官能的であった。


「小夜」


 私の口から、彼女の名が漏れ出した。意識が朦朧となり、壁にもたれかかる。

 これ以上、二人を見ていたくない。あんな汚らしい美しいものを、理解したくない。そんな私の想いとは裏腹に、行為は激しさを増していく。

 私は小夜に裏切られた。私だけの小夜なのに、彼女はあんな男に身体を許した。それが許せなくて、やるせなかった。絶望のあまり呼吸すら忘れてしまいそうだ。死にたいとすら思った。

 吐きたかったが、吐き気はない。泣き出したかったが、涙は出ない。

 私にはどうすることもできなくって、でも現実は容赦なく思考を侵していく。混乱した頭に追い打ちをかけるように、二人の喘ぎが耳を犯す。

 バタン、と大きな音が廊下に響いた。自分の身体が倒れた音だと気づくには、大分時間がかかった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 酷い頭痛がする。内側から締め付けられるような、不思議な感覚。

 私の身体はベッドに寝かされていた。フレームから掛布団に至るまで、全てが真っ白なベッドだ。

 病院に運ばれたのだ。きっと小夜の手によって。


「目を、覚まされたのですね」


 椅子に座った小夜は、嬉しいような悲しいような、よくわからない表情をしていた。目が赤く腫れあがり、化粧が少し落ちていた。

 昔からそうだ。私は生まれつき身体が弱くって、しょっちゅう倒れてはこの病院に担ぎ込まれる。その度彼女は化粧が取れるのも構わず泣きじゃくる。


「具合は如何ですか? 熱は……」

「やめて」


 熱を測ろうと伸ばされた小夜の手を、私は払った。

 小夜は艶のある、綺麗な肌をしている。彼女の手は美しかった。

 けれどこの時に限って言うと、醜悪で汚らしい存在に思えてならなかった。あの男に穢された手に、私は触れたくなかった。


「お嬢様……」

「ごめん。そんなつもりじゃなかったの」

「いえ、気にしないでください。……先生をお呼びします」


 小夜は逃げるように病室を後にした。

 少しして、代わりに主治医が首を傾げながら入ってくる。


「よう。お前、小夜ちゃん泣かしたろ」

「あらセンセ、私がそんなことすると思う?」

「思う思う。いつものことだもの」


 センセはゲラゲラとひとしきり笑い、途端に真面目な顔をする。

 いつもならこのまま帰してくれるのに。私は訝しんだ。


「どしたのセンセ。まだ帰れない?」

「いや、検査の日程決めがある。だから小夜ちゃんにもいて欲しかったんだが」

「呼びに行くよ。どうせカフェでコーヒーでも飲んでるわ」


 ベッドから降り、病室を出ようとする私をセンセが呼び止める。


「君は安静にしていろって。俺が呼びに行くから」

「何さセンセ。どこか悪いの、私の身体」


 そう聞くと、センセはしまった、とでも言うように頭を抱える。


「俺に聞かないでくれよ。答えさせる気か」

「じゃーいいよ。小夜に聞くから」

「待て待て、説明するから待ってくれって」

「呼びに行くだけだよ。心配しないで」


 病室を出て、廊下を駆ける。丁度エレベーターが着いていて、これ幸いと乗り込んだ。センセの呼ぶ声が遠ざかっていく。

 小夜は案の定カフェにいた。窓際のカウンター席で、コーヒーのカップ片手に外を見ている。目の腫れも幾らか治まり、落ち着いた様子だった。


「小夜、何やってんの。センセ呼んでるよ」

「すみませんお嬢様。まだ心の整理がつかなくて……」


 そう言って微笑む彼女は少し疲れて見えた。


「さっきのことは謝るわ、ちょっと動揺していたみたい。ごめんなさい」

「いえ、そのことではないのです。小夜のせいで、お嬢様は……」

「大袈裟よ。ちょっとクラっとしただけじゃない」


 今日は皆そうだ。小夜もセンセも、壊れ物を触る時のような態度なのだ。

 それは恐らく勘違いではなかったようで、私の言葉を聞いた小夜は静かに目を逸らす。


「まだ、お聞きになってないのですか」

「センセはまだ何も。その前に出てきちゃったから」

「そうですか。まだ……」


 小夜はまた泣いた。私の身体を抱き、肩に顔を埋めて泣いた。


「小夜?」

「いえ、小夜の口からはとても……」


 彼女は明らかに何かを隠していた。それも伝えることすら躊躇うほどの何かを。

 涙を流していたのは、きっと私に拒絶されたからではない。私の身に降りかかった何かと、それを知ってしまったことが恐ろしかったのだ。

 けれど私は知りたかった。怖いと思わなかったわけではない。ただ知らないことの方が怖いと思った。


「いいよ、教えて。私の身体に何が起きているのか」


 強がりだと彼女に悟られたくなかった。作られた笑顔に、彼女は気づくだろうか。引き攣った唇の端に、気づくだろうか。

 小夜は私を抱くのを止めて、目を見据えた。そこから何を読み取ったのか、彼女は告げなかった。


「小夜に、それを言わせるのですか」


 彼女は震える声でそう言った。目を伏せ、唾を飲み込んだ。


「わかりました。きっとこれが小夜に課せられた……」

「課せられた……何?」


 小夜は答えなかった。その代わり、彼女はコーヒーを一口飲んだ。私を隣の席に座らせ、何度も大きく深呼吸をする。

 三度目の深呼吸が終わり、小夜は顔を上げた。そして絞り出すような声で、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「脳に腫瘍があったそうです。まだ小さいですが、成長を続けています」


 その事実は淡々と告げられた。ただその言葉は震えていて、ともすれば聞き漏らしてしまいそうなくらい。


「それで、センセはなんて?」

「長くても、二十歳までしか生きられないと……」

「……そう」


 二十歳。余りにも小さいその数字が私に与えた衝撃は大きかった。眩暈がした。平衡感覚すら失いそうだった。

 けれど、私に悲しむ時間は与えられなかった。


「小夜のせいです。小夜があの時、あんなことをしていなければ……」


 涙混じりに彼女は言う。

 腫瘍が活発化した原因は、ショッキングな光景を目の当たりにし、脳への負荷が極端に増加したから。そのショッキングな光景というのが、小夜と男の逢瀬だった。彼女が自分を責め立てるのも、それが理由だという。

 馬鹿馬鹿しい。泣き喚く小夜を見て、私は冷めた頭でそう思った。

 彼女は嘆き悲しんでいる。昔から姉妹同然に育ってきた私が、後数年もすれば死んでしまうから。その原因を作ったのは自分自身だから。

 良い御身分じゃないか。

 そうやって泣いてさえいれば、悲劇のヒロインを演じられる。

 でも私はどうだ。そんなあなたに先を越されて、泣くことすら忘れてしまった。

 悔しかった。私の苦しみを、悲しみを、奪われてしまったようで。

 許せない、と。そう思ったのだ。

 小夜を奪われた私に、生きる理由はもうない。だったら私を裏切ったこの女に、少しくらい復讐してやってもいいじゃないか。


「お嬢様?」


 僅かに生まれた間に小夜は不安そうな顔をする。縋り付くような顔をする。それは私の顔のはずなのに、当然の権利であるかのように振舞っている。


「小夜、先にセンセのところに行っていて。ちょっと外の空気吸ってくる」


 私は小夜に背を向け、階段に向かった。外になど行かない。そして彼女はきっと私を追ってくる。行くべき場所はたった一つだ。

 階段を上り、屋上へ繋がるドアを開く。

 夕焼け空が私を出迎えた。橙色に染まった太陽が、僅かな熱気となって降り注ぐ。


「小夜ー」


 私は振り返ることなく彼女を呼んだ。屋上の端にある柵に寄り掛かり、眼下を見下ろす。十五メートル下の景色は、夕陽に照らされて輝いて見える。


「私ね、生まれつき身体が悪かったでしょう。だからいつかこんな日が来るんじゃないかって思っていたのよ」

「……小夜もそうです」

「そう。でも覚悟なんてできちゃいなかったわ。誰だって自分が死ぬ想像なんてしたくないでしょう? だからせめて、その日が来るまでは幸せに生きるって決めたわ」


 小夜はまだすすり泣いている。私の言葉の意味も、きっとわかっていないだろう。それは多少なりとも悲しいという気持ちを私に抱かせた。


「でも気づいたの。人は生きる意味や目標がないと幸せにはなれない。そして私にはそれがなかった。失ってしまったというべきかな」

「それって……」

「わからないよね。あなたのことよ、小夜。友達も恋人もいない私には、あなたしかいなかった。あなたと一緒に生きることだけが生きがいだったのよ」

「でもそんなこと、お嬢様は一言も……」


 そう。私の気持ちを彼女に伝えたことはない。だから伝わるはずもない。


「あなたは私を無条件に愛してくれた。そのせいで、私は誰かに愛を伝える努力を知らないのだわ。小夜が悪いんじゃないの。私が勝手に苦しんでいるだけなのよ」


 高さ一メートルかそこらの柵によじ登る。幅の狭い柵だから安定しないけど、今更そんなことはどうでもよかった。

 なんだか世界がとても広く感じた。地上十五メートルの高さから地面を見下ろして、私は清々しい気分だった。

 これはただの自己満足だ。

 私の生きがいだった彼女に、一生覚えていて欲しい。二度と消えない、癒えない傷を残したい。生きる意味を失った私には、もうそうするしかないのだ。


「お嬢様!」

「小夜。あなたは最期まで私の名前を呼んではくれないのね」


 浮遊感。エレベーターなんかとは比べ物にならないそれが私を襲う。

 落ちていく私の身体が病室の窓ガラスに映る。その中にいる私と目が合って、どういう訳か〝彼女〟がとても美しく思えた。


『女の子は恋をすると綺麗になるんですよ。いずれお嬢様にもわかる時が来ますわ』


 小夜が昔言っていたことを思い出す。そしてようやく気付いた。きっと私は、彼女に愛を伝えて初めて恋を知ったのだ。

 地面はもう目の前だった。瞬間、衝撃が身体を駆け巡り、激痛が走った。骨が砕ける音が鼓膜を震わせ、視界が真っ赤な血で染まっていく。

 どうしてだろうか。痛いはずなのに、苦しいはずなのに、とても清々しい気分だ。心に背負ったものが全て取り払われたかのような、そんな清々しさ。


「小夜、私幸せよ」


 そう呟いて、私は意識を失った。

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