二章 2 be or not 2 be.
第7話 神様はどこに?
時折こんな考えが頭を過ぎる。
私の余命は二年な訳で、だったら今更勉強なんてしなくていいじゃないか。好きなことだけを好きなだけやるのが建設的じゃないか。
この理論は須らく確立されるべきものだ。私の友人は皆この理論に賛同しているが、我らが偉大なる教授陣はそう思っていないようだ。
「そう思うなら是非追究して欲しいな。君、課題忘れた時以外にそれ言った事あるかい?」
「気のせいですわ真下先生」
偉大なる教授が一人、真下博一は頭を抱えた。
狭苦しいゼミ室に、ため息の音が広がる。
「勘弁してよ。ゼミ生の成績は僕らの給料にも関わってくるんだ」
「先生はお金じゃ買えないものに、もっと価値を見出すべきですわ」
「論点ずらし好きだよね、君」
「うん、好き」
素直にそう答えると、彼は救いを求めるかのように天を見上げた。
「そこに神はいませんよ」
「それは君の理論だろ? 僕の論文読んだかい、天国は空で地獄は地の底さ」
「証拠は?」
「ダンテの神曲」
彼岸の巡礼者ダンテの、地獄から煉獄、天国までの旅を綴った詩曲。先生はこの文学作品を大変気に入っていて、少なからず研究にも影響を受けている。
呆れた話だ。研究者ともあろうものが、自分の目で見た事実ではなく、他者の文章に翻弄されているのだから。
「いつも言ってるでしょ。天国と地獄は隣接しているって」
「証拠は?」
「ここ」
私は自分の頭を指差す。
すると先生は呆れたように、また天を見上げた。
「だったら早く論文を完成させないか。いつも言ってるだろ。実験と結果が人を納得させる力になる。いずれそれが真実となるって」
「いいこと言うじゃないですか」
「そう思うなら実践してくれ。こっちだって暇じゃないんだよ」
「やってますよー」
実験と結果が人を納得させる力になる。先生の口癖だった。
理系出身らしい考え方だ。
「僕が君の横暴な態度や物言いを許しているのはね、君から情熱を感じるからだ。研究に対する情熱は他の何よりも人を美しく見せる。だからだよ」
「あらそうでしたの。私、情熱的?」
「まあね。少なくとも他の学生たちよりはずっと。情熱も理想もなしに、人に気に入られるための教養などクソの役にも立たない。そんなのは醜いだけさ」
高らかに笑う彼を見て、気持ち悪い男だと思わずにはいられなかった。下卑た視線が私の肢体に絡みつき、それが嫌でつい袖などで隠してしまう。
「で、今日は何の用だい」
「先生が仰ったんじゃないですか、課題遅れてるから出しにこいって」
「こっちから呼んで来たことがあったかい。何か他に用があるんだろ?」
「考えすぎですわ」
「腹立つなあ」
そう言って、先生は棚に並ぶ本を取りに立ち上がった。
確かに先生の言葉は間違っていない。今日は彼に用があってここに来た。
「ね、先生」
「なんだい」
脳科学の本を読みながら、先生は言った。
「当ててみてよ。私の用事」
「はあ」
「確かに用があって来たけど、それを悟られたのは癪だわ」
「そうかい」
黙ってしまった。ほとほと呆れているといった様子だ。
「先生、ノリ悪いですよね」
「乗せ方が下手なんだ」
「辛辣ー」
酷いなあとぼやきつつ、私は壁際のコーヒーメーカーを動かす。かび臭く、香ばしい湯気が立ち上っていく。
「いえ、大したことじゃないの。ちょっと相談があって来ただけ」
「相談。君がかい?」
「うん。……先生、煙草吸っていい?」
ポケットからジッポライターを取り出して見せる。黄金色の鈍い輝きが目に眩い。
「いいけど窓際でね。窓も開けて」
「はいはい」
メーカーにセットしていたコップを引き抜いて、窓際のパイプ椅子に腰かける。クッションが硬くて痛かった。
「もっといい椅子買った方がいいですよ。腰悪くしちゃう」
「予備の椅子なんだから文句言うな」
そういうものかしら、と首を傾げながら煙草を取り出す。ブラックデビル。真っ黒なスティック状のボディが、艶めかしく瞳に映る。
「相談というのは?」
「小夜のこと」
ジッポライターの火がブラックデビルを撫でる。途端に湧いたチョコレートの香りが鼻孔をくすぐった。
「最近実験をする頻度が増えたの。手順ややり方を試行錯誤して、道具なんかも自分で用意して……。この論文を完成させるのは私の夢だから、ちょっと焦ってるのかしら」
「論文の締切まで、せいぜい半年。まあ焦った方がいいだろうね」
「でしょう?」
余命の四分の一と考えると長く感じるが、その実あっという間に過ぎてしまうものでもある。時の進みは残酷だ。
「ただ小夜はそれを嫌がっているの。昨日なんて大泣きされちゃってね、説得するなんてのも難しそうだった」
「つまりご家族の同意が得られない、と」
「そうそう。だからどうしたらいいのか悩んでいるんです。私がしたいことをすれば、彼女は傷つく。けどこれを諦めるなんて私にはできませんよ」
唇から漏れた紫煙が窓に飲み込まれていく。
小夜は私のことをずっと傍で見ていた。私の意思を最大限尊重するために、大抵のことは許してくれる。けれどこの実験は別だ。彼女は本気で私の身を案じて、止めたいと思っている。
「『死後の世界が存在することの証明』ね。僕が言えた義理じゃないけど、何でそんなものを研究材料にしたんだい」
「そんなの、見ちゃったからに決まってるじゃん。地獄はあるんだよ」
「君の頭の中に?」
「だから場所は知らないって」
私はコーヒーを一口飲んで、窓枠にカップを置いた。相変わらず不味いコーヒーだ。
「それで、見たというのは?」
「昔ね。長くなるよ?」
「ま、聞こうかな。その代わり今週中には課題出せよ?」
「どうかな」
私は鼻で笑った。口に溜まった紫煙を吐き出して、過去に思いを馳せる。
私と小夜。二人の関係が一変した、あの事件があった日に。
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