第5-3話 理由
「菊花、後でお香をお願いしますよ。なるべく強い香りの」
嫌味のつもりだろうか、ケホケホと咳をする蓮華。
「あんたが話しやすい様にしてくれてんだよ。まあ煙が苦手なのに無茶するのもどうかと思うがね」
耳打ちする菊花を無視し、私はミントフレーバーの香りをじっくりと堪能する。そんな話を聞いたら逆に話しにくいじゃないか。
煙草の火が指先まで到達し、菊花の持ってきた灰皿に煙草を押し付けて揉み消す。それを見た蓮華はホッとしたような表情を見せる。成程、本当に煙が苦手らしい。
私は大げさに足を組む。蓮華は紅茶を一口啜ると、目線をこちらに向けた。
「少し古いお話をしてもいいかしら、被告人」
真実を見極めようとする、法の従事者の目だった。有無を言わせぬ迫力の中に、どこか温かみのある琥珀色の目だった。
「あれは三年前のことだったか。初めてお前がここに来た時の話です」
三年前。私は腕にカッターナイフを突き立て、やがて意識を失った。ただ眠くなったので目を瞑ったつもりだった。そして目が覚めると、私はこの三途の川の畔で倒れていたのだ。
「お前は死んだ目をしていましたよ。生への執着も死への渇望もない、ただただ無気力な瞳。それを見て私は思いました。ああ、また迷い人かと。そういう輩は珍しいものでもなかったから」
私はかつて彼女に同じことを言われた。そしてまだ私がやり直せるということも、また言われた。
それを聞いて、私は歓喜したのを覚えている。もしこの閻魔の言う事が正しければ、私の生には価値があると思ったのだ。
「お前はいい表情を見せてくれた。生き生きとした、死とは縁遠い表情を。それを見て、私はお前がより良い人生を送ってくれると確信したのです。……ですが何故です? 何故数日もしないうちに、この場所へ現れたのです」
数日、正確には二日後だ。私は自分がまだ生きているという事実を知って、喜んで現世へ戻った。そして二日後、今度は自分自身の喉元にナイフを突き立てた。
「致死量の血が頸動脈から逃げていった。あたしは
「そしてお前は、私にまた見せましたね? 清々しい、活気に溢れた表情を私に見せたのです。そして今も、お前は同じです。変わらずヘラヘラとした様子で私の前に現れるのです。今日もまた、自殺なのでしょう?」
当たり、と指を鳴らして答える。その様子を見た二人は、ため息すら忘れて呆れ返っていた。ただの茶目っ気だろうに。
「蓮華様、今だけ煙管吸ってもいいですかね。頭痛がしてきました」
「外で吸いなさい。ここは禁煙です」
はぁい、と間の伸びた返事をして菊花が部屋を出ていく。ドアの軋む音が、どういう訳か耳に残って嫌だった。
その時、蓮華はわざとらしく咳をした。菊花の方に注意が逸れていたから、私は少し吃驚して正面に向き直る。
「菊花もお前を心配しているのよ。あの子もまだ新米だから、人間の死というものに慣れていないものね」
「ふうん」
「意外とドライな性格、という訳」
「違いますよ」
彼女に対して少なからず友情は感じているし、親しみやすい間柄とも思っている。ただ心配されているなんて初耳だったから、ちょっと驚いていたのだ。驚きが大きくて、つい素っ気ない態度になってしまっただけ。
「じゃあお前、その行為がどういう意味なのか、知らないでやっていたと?」
「意味くらいわかるわ。それでどう思われるかなんて、考えてもなかっただけ」
バレたら怒られるとかっていう、高校生が煙草を吸うくらいの認識だった。つまりはそういう次元の話で、菊花がそんな風に思っていただなんて思いもしなかったのだ。
「呆れたわ。じゃあお前は、本当に『自分のやりたいことをやっていただけ』なのね。自殺をしたかったんじゃなく、それによって生じる何かのために、ただひたむきに」
「ええ、死ぬ気なんて更々ないわ。全ては研究のため、私の生を証明するため、そして……」
すぅと深く息を吸い込んだ。
なんだってこうも心臓がバクバクと音を立てるのか、呼吸が苦しくなるのか。きっとそれは彼女のせいなんだけど、どうも恥ずかしくって自覚さえしたくない。
「そして、何です?」
蓮華の眉がピクリと動いた。
「小夜のためよ」
「……確か、お前の家で雇っているメイドだと聞きましたが」
「ううん。そうじゃない、そんなんじゃあないわ」
自分で自分に言い聞かせるように言う。小夜はただのメイドなんかじゃない。実のところヘルパーだとか、そんな下らない話とも違う。
「あの子は私の、大切な人だから。私はあの子を傷つけてしまったから……、だからやらなくちゃいけないんだ。いくら自分が傷ついたって構やしないわ、だってこれは全部あの子のためなんですもの」
とめどなく言葉が溢れてくる。へらへらとした表情の裏に隠してきた感情を抑えられなかった。
「そうか、お前は生きているのね。誰よりも人として生を全うしているのね」
蓮華が含み笑いを漏らす。くくく、という笑い方は死神と一緒だ。
彼女は暫くの間静かに笑い、そして紅茶を一口飲んだ。
「お前、素晴らしいわ。そして美しい……」
恍惚とした視線が私を貫いた。
「面白い、面白いわお前。そこまで強い意思がありながら地獄に降りてくるとは。そして素晴らしいのは自らの命すら顧みず、自殺までやってのけるお前の覚悟だ! 実に生を満喫している……。最高に
ルナティック。かつて月に当てられた人間が狂う様を、ラテン語でそう言ったらしい。それが私だ、とでも言うのだろうか。
「お前を誤解していたわ。てっきり命を無駄に散らすことが美しいと勘違いしている阿呆かと思っていた。けど違うのね。お前は
「そういうものかしら」
「ええ。見直したわ、お前」
蓮華は言った。人間とは各々にとって最高の生涯を送り、死ぬべきであると。そしてそのためには一切の努力を怠ってはいけないらしい。そういう彼女の主義主張と照らし合わせると、成程私はそれに当てはまっている貴重な人間らしい。
「聞かせてくれてありがとう。久々に素晴らしいお話を聞けたわ」
「別に普通ですよ。私は目的さえ達成できれば、それでいいので」
「そう。お前の目的には興味ないけれど、応援しているわ」
蓮華の露骨な態度を見て、意外とドライな性格なのだな、と私は思った。閻魔大王という役職柄、仕方のないことなのだろうけど。
「さて、そろそろ時間ですね。私は裁判がありますし、お前もお目覚めの時間のようですから」
「お目覚め?」
「現世でお前の身体が起きようとしているのよ。菊花を呼んで来なさい。正しい方法で帰らないと、最悪精神が飛ぶわよ」
御冗談を、などと笑い飛ばすには恐ろしすぎることを言う。菊花に送還されることを嫌がっていた自分が急に恥ずかしい存在に思えてきた。
「何かあればいつでも来なさい。アポさえあれば、ね」
「どう取れって言うんです」
蓮華はくくく、と含み笑いを漏らす。また目が笑っていない。笑い方を知らないのだろうか、と変に勘ぐってしまうじゃないか。
彼女に促されるまま、私は部屋を出た。そして煙管を吹かしていた菊花を呼ぶ。現世に戻してもらうのだ。
「あんたの口から戻してくれなんて、雨でも降るんじゃないの」
「この前降ったでしょう」
「それもそうだ」
二人して笑い合う。何がそんなに面白いのか、なんてのは無粋だ。
菊花に背中を押されながら、私は意識を手放した。
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