第5-1話 実験
「暑い!」
窓から差し込む光があまりにも暑くて、私はつい叫んでいた。烈火の如く降り注ぐ太陽光は、掛布団を貫通して私の目を灼いた。布団を跳ね飛ばし、ベッドから無理矢理起き上がる。
携帯電話のバックライトが午前七時を告げていた。いつもならまだ寝ている時間なのに、暑さのせいか目が冴えて仕方がない。私は電話を握りしめたまま部屋を出た。
「小夜ー?」
狭い廊下に、私の間の抜けた声が木霊する。返事はない。
下に降りると、何やら香ばしい香りが鼻孔を擽った。
台所に彼女の気配はなかったが、かわりに朝食が用意されていた。クルトンの入ったコーンスープとフランスパン、それにプチトマトのサラダだ。トマトは嫌いだといつも言っているのに、彼女は必ずと言っていい程メニューに入れてくる。嫌がらせのつもりかと問い詰めても、あの仏頂面で「いいえ」と言うばかり。どこまで本気かわかったものじゃない。
席に着いてスープに口をつけた時、電話のバイブレーションが音を立てる。小夜からの着信だ。
電話に出ると小夜が「もう起きてらしたんですか」などと言うので、無性に腹が立って仕方がなかった。平静を装って「いつも通りでしょ?」と返すのが精一杯だった。
「で、どうしたの? こんな朝っぱらから」
「モーニングコールですわ、お嬢様」
「嘘吐け」
今までそんなこと一度もしたことなかったろうに。心の中で毒づきながら、私はフランスパンを一口齧る。
「今日は少し、出かける用事がありまして。それを昨日お伝えし忘れたので、いち早くご連絡を、と」
「殊勝な心掛けだこと」
「お褒め頂き光栄です」
小夜が用事なんて珍しいこともあるものだ。出掛けるにしたっていつも私と一緒だったし、何なら彼女は私から離れることを嫌っている。自分から一人で出かけるなんて滅多にないどころか初めてのことだ。
「何の用なの?」
「お嬢様には内緒です。人に会いに行く、とだけ申し上げておきましょうか」
「男か」
「男です」
「冗談きついな」
「お嬢様が言い出したんでしょう」
小夜に男なんている訳がない。私は苦笑した。
私が彼女の美貌に取り憑かれているように、彼女は私にその生涯を捧げている。だからそんな心配はする必要もないのだけれど、少なからず疑いを持ってしまう。正直な話、自信がない。私自身に彼女を繋ぎ止めていられるだけの力があるのかどうか。
「それで、今どこにいるの?」
「今ですか? 駅前です。お夕飯までには帰りますから、心配しないで下さい」
「そう。楽しんでおいで」
小夜はご丁寧に礼を言ってから電話を切った。
どこに行くつもりかは知らないが、あまり楽しげな雰囲気ではなかった。そうしたら、今の私の台詞は随分と皮肉めいたものになってしまうだろうか。
気にしてもしょうがない。私はコーンスープを一滴残らず飲み干して席を立つ。
ふわあ、と大きく欠伸をして自室へと戻った。時刻は午前七時四十分。まだ活動を始めるには早すぎる時間だ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
朝食を終え、ベッドに潜り込んでから数時間。エアコンをガンガンに効かせた室内で、私は悠々自適に二度寝を貪っていた。
そんな私を眠りから覚ましたのは、しつこく響き渡るドアベルの音だった。二度や三度なら居留守を使っていたが、それが四度五度と繰り返されれば話は別だ。いつの間にか目も冴えてしまって、二度寝もとい三度寝に耽ることも難しい。
諦めて玄関まで客人を迎えに行くと、そこにいたのは作業着を着た見知らぬ男だった。なんでも小夜がドアの修繕工事を依頼していたんだとか。以前に首吊りをしようとして壊してしまったドアノブのことだ。
小夜はよく私に予定を伝えるのを忘れる。なんというかおっちょこちょいなのだ。熱いコーヒーを飲むときだって、いつも火傷しながら飲むくらいだ。
それはさておき自室に男を連れて行くと、彼はあっという間にドアを直してしまった。根元からバキッと壊れていたはずだったが、どうやらセメントのようなもので塞いだらしい。色合い的にも違和感はなく、技術の進歩に唸らせられた。
男に礼を言い、外まで見送る。気づけば太陽も天辺を通り過ぎていた。
いい天気だ。こんな日に寝たきりなんて勿体ないじゃないか。折角ドアも直ったのだ。以前はできなかったことを模索してみるのも、きっと面白い。
私は早速自室のパソコンを起動した。デュアルディスプレイが点灯し、それぞれに検索エンジンを立ち上げる。
検索キーワードは〈人間の死因〉だ。
人間という生き物は脆いもので、ふとした拍子に死んでしまう。日本において一番多い死因はやはり病死で、悪性腫瘍による死や心疾患、肺炎によるものが多いらしい。交通事情や法整備がしっかりしているせいか、事故死や他殺は案外少ない。
けれど自殺に関しては話が別で、なんと世界でもトップクラスに多いらしい。にも関わらず自殺の手段についての研究は進んでいない。定番の身投げや首吊り、服毒、中毒死などレパートリーはかなり少ない。
もっと派手なモノはないかとネットで調べても、「一人で悩まないで」などと検索エンジンに励まされるばかり。余計なお世話だ。
さて自殺とは、たとえ未遂であっても面倒なものである。用意に手間がかからないモノ程、後片付けが大変なのだ。
例えば飛び降り自殺。これは高い建物に入るというだけで条件が達成できる。故にこれまでで最も試行回数が多い。一定以上の高ささえあればいいので、ウチの大学なんかは丁度いい実験場になる。ただし誰かに見つかれば、それ相応の騒ぎが起きてしまう。
次に試行回数が多いのは首吊りだ。こちらはもっと簡単で、ヒモとそれを引っ掛ける場所さえあればいい。部屋のドアノブなんかが扱い易いだろう。ただ注意したいのは、引っ掛ける場所の耐久性だ。死ねればそれでいいという連中などと違い、私には生活がある。何度も繰り返していれば以前のようにドアが壊れてしまう。それに下手すれば括約筋が緩み、悲惨な結末が待っている。
今挙げた例のように、簡単な自殺法というのは後片付けに手間がかかる。以前真下ゼミで(売り言葉に買い言葉で)飛ぼうとした時なんか、落下地点にいた生徒たちの口封じがどれだけ手間だったか、ここで態々申し上げる必要もないだろう。
つまり今長々と述べた話の結論とは、手間のかからない自殺の方法こそが私の求めているものである、ということだ。
自殺サイトなんかを漁ってみたが、まるで全然ナンセンス。オススメ自殺方法に練炭自殺なんかを載せているのだ。中々死ねない、末梢神経がマヒして動けない、最悪の場合脳に障碍が残る可能性すらある。リスクばかり高そうに見える。
そこまで調べ、ふと気づく。吸入器なんかを用いて摂取量を調節すれば楽なのではないかと。一酸化炭素を吸引しても障碍が残らない、丁度いい塩梅にできるのではないかと。
善は急げと私は家を出た。近所のスーパーに行き、意気揚々と七輪をカゴに入れる。目張り用のガムテープ、吸入器用にチューブと弁、そして酒と煙草も忘れずに購入した。帰り道でチューハイを浴びるように飲み、家に着いてからつまみを食べる。
「最っ高」
三缶目のチューハイを飲み干して、私は自室に向かう。
吸入器の設計は簡単だった。真下先生が持っていた医学系の本を以前に呼んだことがあったからだ。即席ではあるが、吸入量の調整が可能になった。
続いて部屋の目張りにかかる。練炭自殺において最も面倒な作業がこの目張りだ。一酸化炭素が漏れそうな窓枠なんかをガムテープでピッチリ密閉する。部屋のドアもそうだ。だが一度目張ってしまえば何度も使い回せる。練炭自殺を選んだ理由の一つだ。
最後は七輪に炭を敷き詰めて火を点けるだけだ。私は口に即席吸入器を咥え、ジッポライターのフリントホイールを回転させる。
「あ、煙草……」
公正な実験結果は健全な精神から、というのは果たして誰の言葉だったか。恐らく酔っ払って口走ったセリフが脳裏にこびりつきでもしていたのだろう。
ともかく、健全な精神は酒と煙草が保ってくれるものであり、それを実践することこそ人生の喜びである。
シュボッ、という間抜けな音を立ててジッポが火を噴く。懐から取り出したブラックデビルのモカバニラに火をあて、咥えた。ビターコーヒーのような甘味が鼻を通り抜け、早い話が気分がいい。
「最っ高……!」
目張りを頑張ったお陰か、声がやや反響した。これなら大丈夫だろう。
五分くらいかけてゆっくりと味わう。一仕事終えた後の酒と煙草はどうしてこんなに美味しいのだろう。幸福感が体内を駆け巡っているのを感じた。
灰皿に煙草を押し当てて、私は大きく伸びをする。いい具合に酩酊しているのが何となくわかった。
再び吸引器を口に咥える。ジッポを石炭に翳し、火が付くのを待った。
五分経ち、十分経った。時間を測ったわけではないから正確な数値はわからない。もしかしたら二十分経っていたかもしれない。
最初はワクワクしながら待っていたものだが、次第に飽きて煙草に手を伸ばしてしまう。モカバニラの箱が随分と軽くなった。
「最っ悪……」
酔いも醒め始めた。気晴らしにと吸い始めた煙草は二本、三本と本数を増やしていき、やがて灰皿を埋め尽くしていく。灰皿に剣山が形成されていき、気づけば買ったばかりの煙草が底をついていた。火は未だ点かない。
やむを得ず私はパソコンでユーチューブを開く。キャンプ動画を見れば火の熾し方がわかると思ったのだ。その見込みは当たっていたようで、動画の通りに炭を組み、火種を使うことで簡単に火が点いた。
バチバチと音を立て七輪から煙が上がる。次第に煙は部屋を覆い始めた。視界が灰色に染まり、意識がぼうっとしてくる。
手足が動かない。いつの間にか頭痛もしていた。もう後には引けないのだな、と直感で気づいた。
目の端に映るパソコンのモニターがグルグルと回転を始めた。それだけじゃない、天井のLED電球も灰皿も、部屋の隅に放ったチューハイの空き缶すら、まるでミキサーでぐちゃぐちゃにされているかのようにこねくり回されていく。
回る。周囲が回っているのか、それとも自分自身が回っているのか。頭頂葉がマグロのたたきみたいにペースト状にされ、見るものを認識することすらできなくされていた。とても気分が悪い。呼吸もできず、胃がひっくり返ったような気持ち悪さが渦を巻いているのだ。
ゆっくりと、だが着実に身体が死に向かっている。徐々に各器官の機能が弱っていき、ピクリと末端を動かすことすらできそうもない。これが死だ。何者も逆らえない死。自分が終わっていくのがはっきりとわかる。
脳内に溢れるアドレナリンと快楽物質が私を彩るのを感じる。先ほどまでの気持ち悪さは既になく、むしろとても気持ちがいい。満たされているのだ。
だからこそわかる。死にゆく私の顔は、きっと笑っていた。
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