第4話 死神は話を聞かない
雨が降っていた。
それはもうざあざあと、まさに〝大雨〟と言った感じの雨が、憂鬱になってしまうくらいに降っていた。
明日天気になあれ、という遊びがある。
靴を半脱ぎの状態で「明日天気になあれ」と叫び、思い切り蹴り上げる。すると半脱ぎだった靴は慣性の法則で吹っ飛んでいき、地面に着地する。その時の落ち具合によって明日の天気を占うという遊びだ。
実は昨日、小夜が居ないところでそれを実行したところ、見事に雨の予報だった。私には予知能力があるのかもしれない。
そう嘯いたとて憂鬱な気分が晴れるわけもなく、ましてや「あと三十秒で晴れになる!」なんて言ったとてその通りになるはずもない。
私は大きく伸びをして自室のベッドに倒れ込む。マットレスのやや硬いスプリングが腰に当たって痛かった。低反発を馬鹿にしたツケが回ってきた。枕にストンと頭を落とすが、これもまた硬い。
硬いベッドの上で仰向けになっていると、外の世界がやけに遠いように感じる。
小夜はお夕飯の買い物に出かけている。だから暫くは私一人の時間を満喫できるというわけだ。
だからといって、何かをしようという気にならないのが人間というものだ。現に私もこうして、ベッドの上でだらだらと思考を垂れ流すことしかしていない。勿体ないと思うべきか、贅沢だと感じるべきか。
「あーしたてんきになーあれ……」
意味もなくそう呟いて、足を蹴り上げる。本気で晴れて欲しいなどと思っているわけではない。ただただ手持ち無沙汰だった。
履いていたスリッパは予想以上に勢いよく飛んでいき、弧を描いて宙を舞う。くるくると縦に回転しながら飛ぶそれは、やがて私の顔面に不時着した。
最悪だ。
私は頭を振ってスリッパを退ける。暇つぶしの結果がこれでは世話がない。
「なんだ、これじゃ明日も雨じゃないか」
頭上から声がした。小夜の透き通るようなソプラノボイスとは違う、ハスキーな女性声だった。驚いて身体を擡げると、和服を着た金髪の女性がニヤニヤ笑いを湛えてこちらを覗き込んでいた。いつ、どこから侵入したのか、彼女はさも当前のようにその場にいた。
女性は背が高かった。モデル体型の小夜よりも大きいから、凡そ百七十センチ以上はあるだろうか。淡い藤色の着物から覗く脚はしなやかで、程よく筋肉がついている。鬼灯のように紅い瞳、白く透き通った肌……。まるで人間とは思えない美しさだった。
そして何より、彼女が肩に担いだ大鎌だ。切っ先は鋭く、鈍く光っている。農具の鎌などとは明らかに異なる、まさに死神が持っているような……。
「逆さまに落ちてたぜ。ほら、履きなよ」
女性は床に落ちたスリッパを拾い上げ、こちらに差し出した。彼女の不注意か、鎌の先が肌に触れそうで怖い。
「ストップ菊花。鎌鎌」
「ええ?」
女性——菊花は素っ頓狂な声を上げて、動きを止めた。
おっちょこちょいな女だ、と私は頭を抱える。
「こりゃ失礼」
菊花は鎌をサッと真横に振るい、どこかに消してしまった。手品のようにも見えるが、本人は違うと言う。流石は死神だ。人間基準では測れない。
さて、糸杉菊花は死神である。これが妄言でないことはスリッパを拾い上げたことが証明している。私が見ている夢でも幻覚でもなく、こうして目の前に存在しているのだ。
彼女と初めて会ったのは、確かセンセから余命宣告を受けた直後くらい……だったはずだ。
当時私は高校生で、夢も希望も持てずに生きていた。常にぼうっとしていて生きた心地もしなかった。肌に突き立てたカッターから、血が滲むのを見るのが唯一の楽しみだった。
彼女と出会ったのは、まさにその瞬間だった。ドクドクと湧き出る血液を見て「ああこれは死ぬな」と気づいた頃、ふと目を上げた先に彼女はいた。
「やめときな。あんたはまだ死ぬ定めじゃない、苦しいだけだぜ」
「誰?」
「糸杉菊花。死神さ」
菊花は憐れむように私を見ていた。そして呆けた顔の私に色々なことを教えてくれた。
当時は「なんなのだこの不審者は」と思っていたが、きっと自傷に走る私を止めたかったのだろう。実際、彼女の瞳は死神のクセに優しさで満ちていた。
「人には天命というものがある。天から与えられた運命、寿命さね。こいつは誰にも逆らうことはできないもので、つまりあんたが幾ら自分を傷つけようと死ねないのさ。何らかの力が働いて、偶然があんたを生かそうとする。わかる?」
「なんとなく」
「オーケー。だから自傷行為は全くの無意味、自殺なんて以ての外! わかったらカッター捨てて、ほら」
菊花の剣幕に押されてカッターの刃をしまう。
「どうせ死ねないなら、死神さんはどうして私のところへ?」
「嫌なんだよ。無駄な努力重ねて苦しむ人間を見るのが」
「ふうん」
「ふうん、て」
彼女の言葉には実感が沸かなかった。私は別に死のうとしている訳ではないし、努力なんて最も遠い言葉だと思っていたからだ。
けれどそう言ったところでどうにもなるまい。私はベッド目掛けてカッターを投げ、不服であることを暗に告げた。
「自由に死ねないなんて不便ね」
「そう言うなよ。あの世に行ったっていいことないぜ? なんなら一回行ってみるかい」
「天命でもないのにあの世に行くことってあるの?」
「なくはない。生死の境を彷徨うくらいの大怪我をすれば、ありえるだろうね」
そう言うと菊花は私の腕の傷を止血し、そのまま消えた。
私は息抜きを邪魔されたので少し不服ではあったが、彼女が言っていた「あの世」が気になって仕方がなかった。死神なんていう嘘みたいな存在がいるのだ、「あの世」とやらも本当に存在しているに違いないと思って。
数日後、私は興味本位から再びカッターナイフを肌に突き立てた。錆の混じる刃は、目論見通り皮膚を突き破って血管へと到達した。今までとは比べ物にならないくらいの血が噴き出て、畳を紅く染上げた。
暫くして私は意識を失い、気がつくとそこはあの世だった。初めての自殺は成功したのだ。
以来、私は屡々地獄の裁判所を訪れるようになり、死神の菊花とも良好な関係を築くことに成功した。
それで本の貸し借りをする程度には仲良くしてもらっているが、今日みたいに自室に乗り込んでくることは非常に稀だった。いつも忙しいからと言って現世に顔も出さないくせに、どういう風の吹き回しだろう。
「それで何の用? もしかして、もうお迎え?」
「まさか。こう雨が酷いと皆死にたがるからね、知り合いのところに顔出してんのさ。放っといたら危ない輩が多いんだ」
「私もその一人ってわけ」
「筆頭だよ」
「心外だわ」
誠に遺憾である。死にたくて死んでいる輩とは私は違うのだと、彼女には何度も言ってきたはずなのだが。
「まったく、あの世の行き方なんて教えるんじゃなかった。本当、何のためにやっているのやら……」
「ふふ、秘密」
「まさか今日もやらないだろうね。二度と来させるなって閻魔様にきつく言われてるんだ」
「気分じゃないわ。こんな憂鬱な日は動かないのが一番ね」
「最高」
生意気なー、と小突いてやると鎌で威嚇された。なんて危険な女だ。
それから少しの間だけ世間話をした。どこそこの洋菓子店が美味しいだとか、好きな作家の新作が出たとかっていう下らない話。それでも鬱屈とした雨の日の、ちょっとした清涼剤だ。空模様は相変わらずだけれど、私の心は少し晴れた気がする。
「じゃーあたしは帰るわ。変なことすんなよな」
菊花は立ち上がって窓を開けた。そのまま窓枠に足を掛けたかと思えば、力強く外に飛び出していった。慌てて外を覗いても彼女の姿は見えない。忽然と姿を消していた。
「窓くらい閉めてってよ。面倒な」
ざあざあ降りの雨が、風に煽られて部屋に入ってくるのが鬱陶しい。格好つけて退場するくらいなら、アフターケアを考えておいて欲しいものだ。
もうじき小夜も帰ってくる。雨の飛沫で汚れた床を見られるわけにはいかないな、と私は雑巾を探しに階下へと下った。
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