第3話 魔の九階

「ああ、そう机の引き出しの中。……うん、お願いね」


 電話を切り、ポケットにしまう。暫く耳に当てていたせいか、ディスプレイが生暖かい。

 午後の大学は暑い。廊下に差し込む陽光が、私の肌を焼く。ゼミ室の並ぶエリアは人気もなく、それがより顕著に感じられた。


「魔の九階だものね」


 ウチの教授陣の中でも、頗る問題児が集まっているとされる九階のゼミ室群。〈魔の九階〉には殆どの学生は近寄らない。

 誰もいない廊下を更に進む。進めば進むほど薄暗くなっていき、近寄り難い雰囲気を醸し出している。柱の陰に幽霊が居たっておかしくない、そんな雰囲気だ。

 そんな〈魔の九階〉の最深部に、その研究室はあった。

 楷書体で「真下ゼミ」と書かれた扉をノックする。すぐに反応があって、私は中に入った。

 狭く、かび臭い部屋だ。ロッカーや机は飾り気のない、地味なものばかり。壁には怪しげな参考書がずらりと並ぶ。窓際には枯れた花を挿した小瓶がいくつか置いてあり、持ち主のずぼらな性格が顕れているように思えた。


「散々な言い方をしてくれるね、君は」


 部屋の隅から声がした。高級そうな黒革の椅子に座った男が、恨めしそうにこちらを見ている。喪服のような黒いジャケットを着た、背の高い男だ。

 真下博一。かつて脳科学の分野で活躍していたが、何をトチ狂ったか宗教学に傾倒し始めた変人だ。私のゼミの教授でもある。


「こんにちは、真下先生。ご機嫌麗しゅう」

「呼びつけただなんて思うなよ。課題、持ってきただろうな」


 せっかちな人だな、と私は顔を顰める。


「先生に言われた通りやりましたよ。キリスト教における〝あの世〟について、A4用紙で三枚分」


 バッグからクリアファイルを取り出して渡す。びっしりと書き込まれた文字の羅列を見て、先生は満足そうに頷いた。


「ふうん、情熱的だね。爪垢わけてもらえるかな、僕のゼミ生に飲ませてやりたい」


 舐めまわすような視線に、私は思わず身じろぎする。


「そうですか。でも私、垢なんて出ませんので」

「よく言うよ。君のその肌、さっきたんまり汗を分泌してきた色だ」

「だから垢だって出るって言うんですか。セクハラですよ」

「セクシャルかどうかは疑問だが、ハラスメントであることは認めよう。で、前々回の課題はどこだい」


 冷ややかな目だ。まるで私が、課題なんて持ってきていないことを見抜いているかのよう。

 真下ゼミは課題が多いことで有名だ。ほぼ毎週のようにレポート課題を出すし、内容が薄ければ書き直しまで命令される。

 その代わりといってはなんだが、卒業論文の提出は任意だ。課題さえ出していれば卒業させて貰えるゼミ、ということで〈魔の九階〉組の中では人気がある。


「ちょっと実験が忙しいんですよ。期限、延ばしていただけないですか」


 逆に言えば、いくら成績がよくても課題を出さなければ卒業できないというわけで。


「これで何回目だ。提出期限という言葉を知らないのか」

「人間の生は短い、だから好きなことを好きなだけやるべきだ。……違いますか?」

「違うよ。卒業する気ないだろう」

「ええ、まあ」


 先生は参ったな、と言わんばかりに頭を掻きむしる。


「聞くけどね、その実験にどれだけの意味があるんだい。理系じゃないんだよ」

「それはもう、重要ですわ」

「どうだか」


 馬鹿にしたような物言いに、私は少なからず怒りを覚えた。カチンときた、という奴だ。


「やってみせましょうか」

「今かい?」

「ええ。丁度ここは九階、この部屋の窓からなら五階のカフェテラスまでですし」


 窓際に移動し、外を眺める。眼下には多数の生徒で賑わう様子が見て取れた。

 凡そ十二メートル程度。私の計算上、ベストな高さだ。

 おもむろに窓を開け、身を乗り出す。窓枠をしっかりと掴み、不意に落ちないよう身体を固定する。下から吹く風が心地良い。


「どうするんだ?」

「飛ぶのよ」


 私は自分の口角が持ち上がるのを感じた。実験の時はいつだってそうだ。これから起こることを想像して、湧き上がる感情が止められないのだ。

 窓枠にかけた手の力を緩め、飛び立つ。天気の良い午後の晴れ間が、落下する私を優しく迎え入れる——。

 その瞬間だった。


「お嬢様!」

「おわあっ」


 突然の大音声に、私は思わず窓の縁を掴んでしまう。当然、落下のスピードは相殺される。

 私の身体は研究室から落ちるか落ちないか、というところで止まっていた。足が空を蹴り、手の力だけでぶら下がる体勢だった。懸垂の要領で身体を持ち上げるなんて、か弱い女子供にできるはずもなく、九階の窓から宙ぶらりんだ。


「ちょ、ちょっと引き上げて! この落ち方はマズい!」


 先生の手を借りて部屋に戻る。未だに心臓がバクバクと音を立てている。


「マズったわ。あの体勢だと足折るだけで何の意味もないのよ」


 言いながら、先程の声の主を見る。小夜は気まずそうに目を逸らしている。


「後始末が大変なんですよ。やめてください」

「いいでしょ、好きにやらしてよ。生きがいなの」


 小夜は黙っていた。

 私は小夜の持っていたブランド物の鞄をひったくり、中身を物色する。その中からクリアファイルを手に取ると、先生に渡した。


「なんだい、これ」

「課題ですよ。家に忘れたので小夜に持ってきてもらったの。未完成だけど」


 先生は渡したクリアファイルをまじまじと眺め、それを私に突き返す。

 面食らって呆けていると先生は笑って、「これは返すよ」などと言う。


「どうしたんです。さっきまであんなに寄越せと言っていたじゃないですか」

「いや、もう課題はいいよ。……君の研究に対する覚悟が見れた。僕が折れるべきだろ」

「そう、ですか」


 私は彼に礼を言い、釈然としないまま研究室を出た。いい情熱だ、素晴らしい! と叫ぶ声が部屋から漏れ聞こえる。小夜は「気味が悪いヒト」と嫌悪を顕にしていた。

 エレベーターで地上へと降りる。その間、小夜は一言も発さなかった。

 暫くして、やけに暗い面持ちで彼女は口を開く。キャンパス内を横断している最中のことだった。


「あんなこと、もうやめて頂けませんか」

「あんなこと?」


 何のことだろうと考えていると、小夜の表情がどんどん険しくなるのを感じた。能面なのは変わりないのだが、どことなくそう感じる。


「もっとご自分の身体を大事になさってください。お嬢様がもし死んでしまったら、小夜はどうすればいいんですか」

「大丈夫よ。私は死なないから」

「……どういう意味ですか」

「人には天命ってのがあるのよ。私にはまだそれが来ていない、だから死なないの」


 たとえどんなことをしようが天命がまだなら、あの世に行くことはない。私が閻魔に何度もしつこく言われたことだ。だから私がいくら身を投げようとも、瀕死の重傷で済む。そういう運命なのだ。


「それは小夜に言わせれば、死んでいると同義です」

「そう?」

「自ら命を粗末にしようとしている時点で、ヒトとしては死んでいます」


 面白い考え方だ。精神の死について考察したことはなかった。

 ただ小夜は勘違いをしている。私は死にたいだなんて、まるで考えていないのだ。


「小夜、死の定義を知っている?」

「えっ」

「三百グラムの心臓と、千五百グラムの脳味噌。どちらかが活動を止めた時、人は死ぬ。逆に言うと心臓が動いていて、生きる価値を自分に見出している限り人は死なないわ。だから私は死なないの」


 そう言うと小夜はキョトンとして「仰る意味がわかりかねます」だなんてとぼけたことを言う。


「それとお嬢様」

「何、まだあるの?」

「あの男……真下先生でしたか。あまり関わり合いにならない方がよいと存じます」

「その心は」

「彼は小夜から見て危ない人物だと思いまして。お嬢様が飛び降りようとした際も止めませんでしたし、何より……」

「何より?」


 小夜は私の四肢をまじまじと見つめる。なんだなんだと勘ぐっていると、彼女はため息をついて口を開く。


「視線が厭らしかったです」

「そう、かしら」

「間違いありませんよ」


 意外と見られてる方は気づかないものなのかしらん。そう思って私は肩を竦めた。

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