第2話 メイドと藪医者
目が覚めた。
地獄の裁判所ではない。いつもの六畳一間の自室だった。
畳が敷き詰められた西日の差し込む部屋。黒の高級箪笥は傷だらけで、畳の上は煙草の吸殻だらけ。焦げ跡まで付いている。
また戻ってきてしまった。いや、戻されたというべきだろう。
以前、死神にも閻魔にも言われた。天命を全うしていない人間は現世に還すのが決まりなのだと。
「知ったこっちゃないわよぉ」
ぼやけた頭が活動を再開するのには時間がかかりそうだ。心なしか息も苦しい。脳に酸素が行き渡っていないのだろうか。
木の軋む音がする。どこからだろう、と思って首を動かすと、その音は更に大きくなっていく。
そしてバキッという音がして、何故か私の身体は床に崩れ落ちた。
「痛ってえ」
下が畳で良かった。痛いのには変わりないけど。
放心する私の頭上に鉄製の何かが落下した。重いものではないから痛くない。何気なく手に取ってみる。
ドアノブだ。
「あー? ドアノブだァ?」
ドアノブだ。何度見てもドアノブはドアノブでしかない。今ではあまり見なくなった、中央にカギ穴がついた丸型のドアノブだ。
そうか、ドアノブが降る日なんてものもあるのか。私専用ファフロツキーズ現象だ。愉快愉快。
そう笑っていると、いつの間にか息苦しさが消えていたことに気づく。ドアノブが落ちていた辺りを見ると、そこには一本の革ベルトがあった。首輪と見間違えるくらいきつく結ばれている。
「あー? ベルトだァ?」
さっきの自分を真似して言ってみる。なんだか馬鹿みたい。
そういえばこのベルト、見覚えがある。
私の物だ。普段使っている中では、私の一番のお気に入りだった気がする。
いつかの誕生日に貰ったなあ、と思い出していると階段を上る足音が聞こえた。私は慌ててベルトを背中に隠し、散らばった吸い殻をタオルで覆い隠す。
「お嬢様、いらっしゃいますか?」
同居人の声がドア越しに聞こえた。彼女にこの部屋の惨状を見られては、またお小言を言われてしまう。私は必死に平常心を保って応える。
「どうかした、小夜」
「いえ、物音がしたものですから。お怪我はありませんか?」
「どうもしてないわ。ちょっと寝ぼけてただけ」
「入りますよ」
入るなと言う間もなく小夜はドアを開けようとする。ガチャガチャという音が何度か聞こえ、舌打ちが聞こえた。
「小夜?」
「蹴破ります」
「えっ」
ドアノブが取れた時よりも大きな音がして木製のドアが文字通り吹き飛んだ。
「お怪我は?」
「ないけど」
「残念です」
「ここ賃貸」
「心得てます」
小夜は茶色のショートヘアにかかった木くずを払う。
端正な顔つき、すらりと伸びた長い足、豊満なバスト。ここに「ドアを蹴破る脚力」を付け加えるべきかはさておき、絶世の美女という言葉が相応しい女性だ。
「勝手に入らないでよ」
「お気になさらず。お嬢様が部屋を汚くしているのはわかっていましたので」
「
「だったらせめて吸い殻くらい捨ててください。灰皿が転がって散らばってるじゃないですか」
「ごめんあそばせ? あと二年の辛抱ですことよ」
「悪趣味なことは言わないでください」
そう言いながらも小夜の片付けは進む。手際がいいのは、イギリスでメイドの経験があるからだろうか。
「それ嘘ですよ」
「ええ?」
「ただのヘルパーですわ。資格見ます?」
「いやでも、お嬢様って……」
「アニメの受け売りです」
小夜は無表情でそう言った。残酷だなあ、と毒づいてもそれは変わらなかった。能面クソメイドめ。いや、メイドではないのか。
「それより早く着替えてください。出かけますよ」
「着替える?」
「そうやってそこにションベン撒き散らかしてるからですよ。後始末はやっておきますから」
「えっ嘘」
立ち上がってよく見てみると、確かに黄色い世界地図が畳を濡らしていた。嘘みたいな光景だった。
どうしてこんなことに、なんて嘆いている間はない。股がむず痒くて仕方がないのだ。
「あー。……ごめん」
「気にしないで下さい。いつものことですから」
「できる女は違うねえ。愛してるわ、小夜」
私が言うと、小夜は心底嫌そうな顔をする。
「排泄物処理なんてさせておいて、そんなこと言わないで下さい」
「あら、本気よ。信じてくれないの」
「そう軽々しく言わないで下さい。……小夜をからかわないで下さい」
「可愛くないのー。あの時以来、ずっとそんな仏頂面ね?」
小夜の細い腰に手を回し、くびれに沿って指でなぞった。彼女はピクリと身体を震わせた後、すぐにそれを手で払った。
「お風呂は下ですよ。そんなばっちい恰好のまま、外に出るおつもりですか」
「おつもりではありませんわ。……ていうか何? 出かけるの?」
「定期健診の日でしょう。昨日言いましたよ」
そんなの聞いた覚えがないわ、とは言わなかった。
私は小夜から着替えを受け取って一階の風呂場へ向かう。足元が覚束ないせいかフラフラとした歩みになってしまう。
ふと、背後で小夜がぼやくのが聞こえる。
「こんなこといつまで続けるんですか、お嬢様」
そっと振り返ると、彼女は隠したはずのベルトを持って俯いていた。
——バレてんじゃん。
怒られるのは嫌だなあなんて思いつつ、階段を下る。
首筋についたベルトの痕を撫でていると、どういうわけか心が穏やかになる。そんな気がした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
空は晴天、気分も上場。午後の御茶ノ水は今日も賑わっている。
駅前の人だかりは相変わらず多い。ストリートミュージシャンの下手糞なギターを聞きながら、私は人混みにウンザリしてため息を吐く。
「多い、多いわ。小夜、帰りましょう」
「出てきたばかりで何言ってるんですか。それに大した人数でもありませんよ、平日の真昼間ですよ」
「引き籠りに言うことかね」
私はあまり外出が好きではない。外に出たくないというより、静かで落ち着いた雰囲気の場所が好きなのだ。
今日だって小夜が無理矢理連れ出したようなものだ。彼女が「定期健診に行こう」なんて言い出したせいで、私の貴重な一日がパーだ。そもそも定期的に行っている訳でもないのに、どうして定期健診などと言うのだ。憎悪の視線を彼女に投げかけるも、能面はピクリともしない。
「クソメイドめ」
「ヘルパーです」
小夜は人混みをすいすいと抜けていく。その身のこなしは軽やかで、惚れ惚れするようなスピードだ。主人である私を置いて行っている点を除けば完璧だろう。私は必死になってついて行こうとするが、逆に人波に押し返されてしまう。
最悪だ。しかも今更になって吊った首が痛い。心なしか呼吸も若干苦しい。やっとのことで追いつく頃には、私はへとへとだった。
「小夜、言い忘れていたけど私方向音痴なのよ」
「存じ上げています」
「なら話が早いね。私から離れないで、とだけ先に言っておくわ」
「そうですか? 約束はできませんが、わかりました」
そこは「わかりました」だけでいいだろうに。キョトンとした顔の小夜を追い抜いて、私はずかずかと歩く。
「道違いますよ」
「あらそう!」
お茶の水サンクレールを抜け、線路に沿って歩いていく。そうするうちに人通りは少なくなり、やがて私の不快感も多少薄れた。
「そこを右です。靖国通りまで来てしまえば、あとはわかるでしょう?」
「何度も来ているからね。記憶力には自信があるの」
「流石ですね、お嬢様」
馬鹿にして。私は小夜の尻を小突き、目的地に向かって駆け出す。スポーツショップのある通りを抜け、大きな交差点に出る。走行する車の喧しさの中、その個人医院はあった。
汚れて文字も読めない看板を通り過ぎてドアを開ける。喧騒の中、ドアベルの音が静かに響いた。
院内は薄暗く、埃っぽい。
子供の頃から通っているこの病院は、御茶ノ水の診療所としては老舗にあたる。埃っぽい院内も老朽化によるものが大きいのだろう。
待合室に患者はおらず、流れているジャズ調のBGMが虚しく聞こえる。なんなら受付の奥を見渡しても患者どころか看護師すら見受けられなかったくらいだ。
「こんちわ」
店の奥に向かって呼びかける。
返事はない。
「待ってて小夜。センセ探してくるから」
「かしこまりました」
関係者以外立ち入り禁止の暖簾を潜って奥へと進む。レジスターのある受付を通り抜けると、バックヤードでいびきをかいて寝ている男がいた。
「客だぞー、センセ」
男の脇腹を数度小突くと、呻き声を発して目を開ける。二三度瞬きをし、私の姿を認めると肩を竦める。ボサボサの髪の毛がふわりと揺れた。
「なんだよ、今日は定休日だ」
「ばーか。今日平日よ? 定休日なわけないじゃない」
「俺が休むと言ったら休むんだよ。今日は気が乗らねえんだ」
医者のクセに職人じみたことを言う。
センセは私を睨みながら、渋々起き上がった。
「何の用だよ」
「てーきけんしんだってさ。小夜に無理矢理連れてこられたの」
「だったらせめて昼休憩後に来てくれよ。寝不足なんだ」
「よかったじゃない。これで寝過ごす心配はなくなったでしょう?」
「……嫌なヤツ」
愉快だった。自分が誰かに、無視できないような影響を与えられることが嬉しいのだ。彼がそれを聞いたら憤慨するだろうが。
ニヤニヤと笑っていると、センセが何かに気づいたようにピクリと眉を動かす。
「お前、首どうした?」
「首?」
「痕ついてるぞ。今度は何やったんだ?」
呆れているのか、その口調はウンザリしたようにも聞こえる。
「今日は首吊り。ほら、ドアノブにベルトとかネクタイ引っ掛けてやるヤツあるでしょ? あれやってみたの」
「あまり見られないようにしろよ。結構目立つから」
「別にいーじゃん。私の余命、後二年しかないんでしょ? 好きにやらせておくんなまし」
「やだね。医者ってのはお節介焼きなんだ」
そう言うと、センセは奥の院長室へと入っていく。暫くして、彼は手に何かを持って戻ってくる。
「何それ」
「チョーカーだよ、痕隠す用の。それと長手袋もだ。どうせまだ手首の傷も残ってんだろ」
「御名答。……で、なんでそれがここにあるわけ?」
「趣味だよ。文句あるか」
焦げ茶色のチョーカー、そして真っ白な長手袋。どちらもシンプルながら高級感のある手触りだった。
「あとお前、自分を大事にしないのは結構だが、小夜ちゃんに手間かけさせんじゃねえよ。お前がそういうことばかりするから、俺にまで相談しに来たんだぜ」
「小夜が?」
「ああ、なんでも後始末が大変なんだとか。自殺ごっこは結構だが、イカれた趣味であることは自覚した方がいいだろうな」
「SM趣味のお医者様に比べたらマシだよ」
言いながら貰ったチョーカーを身に着ける。意外なことにピッタリだ。
「どう、似合う?」
「それなりにな。だからといって首吊っていいわけじゃねえぞ、死にたがり。余命が二年だからって、必ず後二年は生きられるってワケじゃねえんだからな」
「わかってますよ。重々承知の助ってヤツ」
「思ってもないことを」
まさか、と私は笑う。みんな大袈裟なのだ。
私は死にたがりでも何でもない。やりたいことをやっているだけなのに。
それから少しの間、待合室の小夜も呼びつけて診察を受けた。異常なし、といつも通りの結果を聞いてから診療所を出る。相変わらず車の音がうるさくて嫌だった。
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