第六話:「甦った記憶と時間の謎」

 秋の肌寒い雨の日、葵の部屋に鳥のさえずりを模した着信音が鳴り響いた。スクリーンには叔父の健一の名前が表示されている。


「葵、ちょっと変わった相談なんだが」


 健一の声には戸惑いが混じっていた。

 葵は眉をひそめた。


「どんな相談?」


「ある老人ホームの入居者のことでね。山田さんという80歳の男性なんだが、突然過去のある一日の日の記憶を鮮明に語り始めたんだ」


「認知症の方?」


 葵は即座に質問した。


「ああ、そうなんだ。これまではかなり重度で、家族のことさえほとんど覚えていなかったそうだ」


 葵は静かに考え込んだ。


「過去の記憶というと、具体的にはどんな内容?」


 健一は深呼吸をして説明を始めた。


「1973年8月15日の出来事を、まるで昨日のことのように語るんだ。当時の天気から、着ていた服、食べた物まで。でも、それ以降のことは全く覚えていない」

「家族の反応は?」

「息子さんが心配して相談に来たんだ。父親の突然の変化に戸惑っているようだった」


 葵はタブレットを手に取った。


「分かったわ。山田さんの医療記録、特に最近の治療歴を送って。それと、1973年8月15日前後の地域の出来事についても調べてみて」


 数時間後、葵はある仮説に到達していた。彼女は健一に連絡を入れた。


「叔父さん、気になる点がいくつかあるわ」

「何かわかったのか?」

「まず、山田さんの症状が通常の認知症の経過と全く異なるの。突然の記憶回復は珍しいけど、特定の日だけというのは更に奇妙よ」


 健一は熱心に聞いていた。

 葵は続けた。


「それと、山田さんが語る1973年の出来事。いくつか実際の歴史と食い違う点があるの。例えば、その日に大雨が降ったと言っているけど、気象記録では晴れだったわ」

「そうか……他には?」

「山田さんの最近のMRI画像を見たんだけど、通常の認知症患者とは異なる特徴があるの。海馬の一部が異常に活性化しているみたい」

「ちょっと待て、葵。どうやってMRI画像なんかを入手したんだ?」


 健一は驚いて尋ねた。

 葵は少し照れくさそうに説明を始めた。


「実は、私のオンライン医学フォーラムの知り合いに相談したの。その人は神経学の専門医で、匿名化された画像データを共有してくれたわ。もちろん、患者の個人情報は一切含まれていないわ」


 健一は感心したように言った。


「なるほど。君のネットワークの広さには驚かされるよ」


 葵は続けた。


「でも、これは例外的なケースよ。通常、医療情報の取り扱いにはもっと慎重になるべきだわ」


 健一は言葉を接いだ。


「で、その海馬の一部の活性化はいったい何を意味するんだ?」


 葵は慎重に言葉を選んだ。


「まだ確証は持てないけど、山田さんの症状が単なる認知症の進行ではない可能性があるわ。何か外的な要因が関係しているかもしれない」

「外的要因?」

「ええ。叔父さん、山田さんの自宅を調べてみて。特に、1973年当時の日記や写真、手紙なんかがないか探してみて」


 健一はすぐに動き出した。


「分かった。さっそく調べてみよう」


 翌日、健一から連絡が入った。


「葵、君の指示通り山田さんのご家族の協力を得て自宅を調べたよ。古い日記が見つかった。1973年のものだ」


 葵の目が輝いた。


「内容は?」

「これが驚きなんだが、日記の内容と山田さんが今語っている記憶が、まったく違うんだ」


 葵は深く考え込んだ。


「叔父さん、その日記、スキャンして送ってくれる?」


 1時間後、葵は日記の内容を詳細に分析し終えていた。


「叔父さん、重大な発見があったわ」


 葵の声には興奮が混じっていた。


「何だい?」


「1973年8月15日、山田さんは殺人事件の目撃者だったのよ。日記にはそう書かれているわ。でも、公式の記録にはそんな事件は残っていない」


 健一は驚きの声を上げた。


「まさか……」


 葵は静かに、しかし確信を持って言った。


「山田さんは、その事件のトラウマから記憶を抑圧していたのよ。そして今、何らかのきっかけでその記憶が蘇ってきた。でも、まだ完全には思い出せていない。だから、実際の出来事と現在の記憶が混ざり合っているの」


 健一は深くため息をついた。


「なるほど……でも、なぜ今になって?」


 葵は答えた。


「それを突き止めるには、もう少し調査が必要ね。山田さんの最近の生活環境の変化や、接触した人物について詳しく調べる必要があるわ」


 その後の調査で、山田さんが最近見た新聞記事が、抑圧されていた記憶を呼び覚ます引き金になったことが判明した。葵の推理により、過去の未解決事件に新たな光が当てられ、真相の解明に向けて動き出した。


 健一は警察内部で動き始めた。まず、1973年の未解決事件のファイルを掘り起こし、当時の捜査資料を再検討。山田さんの証言と照らし合わせながら、新たな事実関係を整理していった。


 同時に、現地捜査も開始された。山田さんの日記に記された場所を中心に、改めて聞き込み調査が行われた。長い時を経て、街の風景は大きく変わっていたが、古くからの住民の記憶を頼りに、少しずつ当時の状況が明らかになっていった。


 葵は、健一から送られてくる情報を分析し、新たな捜査の方向性を提案。特に、当時の社会背景や人間関係に着目し、事件の動機について深く掘り下げていった。


 その結果、事件の背後に隠されていた複雑な人間ドラマが浮かび上がってきた。それは、単なる殺人事件ではなく、当時の社会が抱えていた闇の一端を映し出すものだった。


 捜査が進むにつれ、生存している関係者たちも次々と口を開き始めた。長年の沈黙が破られ、真実が少しずつ明らかになっていく様子は、まるで凍った湖の氷が溶けていくかのようだった。


 同時に、山田さんは徐々に現実の記憶を取り戻し始め、家族との絆を再確認していった。彼の証言は、事件解決の重要な鍵となっただけでなく、自身の人生の空白を埋める貴重な機会ともなった。


 事件の解決後、葵は窓際に座り、秋の夕暮れを眺めながら深く思索に耽った。人間の記憶の脆弱さと、過去が現在に及ぼす影響の大きさを、身をもって感じていた。


 そして、真実を追求することの難しさと、それが人々に与える影響についても、改めて考えさせられた。葵の心には、次なる謎への期待と共に、人間の心の奥深さへの興味が芽生えていた。


(了)

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