第四話:「遺伝子の謎」

 秋の夕暮れ時、葵の部屋を温かなオレンジ色の光が満たしていた。彼女のタブレットが突如、着信を告げる音を鳴らした。画面には叔父・健一の名前が浮かび上がっている。


「やあ、葵。君の知恵を拝借したいんだが」


 健一の声には珍しく、戸惑いの色が感じられた。

 葵は眉を寄せた。


「珍しいわね、叔父さん。どんな案件?」

「ある同僚の息子さんのことでね」


 健一は言葉を選びながら話し始めた。


「高校三年の健太君という子なんだが、大学進学前の健康診断で思わぬことが判明してね」


「ふむふむ」


 葵は興味深そうに聞き入った。


「君も聞いたことがあるかもしれないが、ハンチントン病という遺伝性疾患があってね。その初期症状が見つかったらしいんだ」


 葵は息を飲んだ。


「まあ……大変なことになったわね」


 健一は続けた。


「問題は、両親にその疾患の家族歴がまったくないことなんだ。医療ミスを疑って再検査もしたが、結果は変わらなかった」


 葵は黙考した後、静かに尋ねた。


「両親の遺伝子検査は?」

「そこがさらに不可解でね。両親ともキャリアではなかったんだ」


 葵はゆっくりと立ち上がり、書斎の本棚に向かった。


「なるほど……確かに奇妙ね。叔父さん、健太くんの家系図と、できれば三代くらいさかのぼった健康診断の記録が必要だわ」


 健一は少し驚いた様子で答えた。


「わかった。でも、それがどう関係するんだい?」


 葵は医学書を手に取りながら答えた。


「まだ何とも言えないわ。でも、遺伝子の謎を解くには、とにかく過去を紐解く必要があるの」


 数日後、葵は山のような資料に埋もれていた。彼女は健一に連絡を入れた。


「叔父さん、面白いことが分かったわ」

「おや、何かわかったのかい?」

「ええ。健太くんの祖父、つまり同僚さんのお父さんの若い頃の写真を見つけたの。そこに写っている症状が、ハンチントン病によく似ているの」


 健一は驚いた。


「おや……でも、祖父の医療記録には……」

「そう、何も記載がないのよね」


 葵が言葉を継いだ。


「でも、もう一つ興味深い事実があるわ。祖父さんが医学生だった1960年代、ある新薬の治験に参加していたみたいなの」

「へえ、そんなことがあったのか」


 健一は感心した様子だった。

 葵は淡々と説明を続けた。


「その新薬が、遺伝子に何らかの影響を与えた可能性があるわ。症状を抑えつつ、次世代に遺伝子の変異を引き継ぐ……そんなメカニズムがあったのかもしれない」


 健一は息を呑んだ。


「まさか……そんなことが」

「可能性は十分にあるわ」


 葵は言った。


「最近の研究で、環境要因が遺伝子の発現に影響を与えることが分かってきているの。エピジェネティクスって言うんだけど」


 健一は深く考え込んだ。


「なるほど……でも、それを証明するには?」

「お祖父さんの治験の詳細な記録と、できれば祖父さんのDNA検査が必要ね」


 葵は答えた。


「それと、その新薬の成分表も」


 健一は決意を固めた様子で答えた。


「分かった。すぐに動いてみよう」


 一週間後、健一から連絡が入った。


「葵、君の推論は的中していたよ」


 健一の声には驚きと敬服の念が混じっていた。


「治験の記録を調べたら、確かにその薬には遺伝子に影響を与える可能性のある成分が含まれていた。そして、祖父のDNA検査でも、微妙な変異が見つかったんだ」


 葵はほっとした様子で答えた。


「そう……真相が明らかになって良かったわ」

「本当に助かったよ、葵」


 健一は心からの感謝を込めて言った。


「この情報のおかげで、健太くんの治療方針も立てやすくなったそうだ」


 葵は静かに微笑んだ。


「役に立ってよかったわ。叔父さん、この件で私も多くのことを学んだわ。医学の進歩って素晴らしいけれど、同時に予期せぬ影響を及ぼすこともあるのね」


 健一は同意した。


「そうだな。過去と現在がこんな形でつながっているとは……君の洞察力には本当に感心するよ」


 通話を終えた後、葵は窓際に立ち、紅葉し始めた木々を眺めた。彼女の世界は狭いかもしれないが、その知識と洞察力は時を超え、人々の人生に光を当てる。今日も、彼女は静かに、しかし確実に、世界の謎を解き明かしていくのだった。


(了)

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