【語】2024年8月31日「私は好きなものに嫉妬し、良くない言葉を使って自らの現状を語る。だが、そこに諦念は一片たりともない。老醜はあるかもしれないが」

身体が痛え……有り得んくらいに痛え! 有り得てるから有り得ないわけがない! 哲学かよ、ファッキン生まれつきの難病め!


見ろ! 私はひいきのVTuberさんの晴れ舞台をライブで見れなんだぞ。それどころか、痛みでか、それとも調整機能が壊れたか、謎に涙がドバーッと出とう。


これまでは「文学的に、あるいは詐術的に」誤魔化してきた。今年起きたのは良いことも悪いこともある。その悪いことは、ぼかしてきた。だから、ようない。膿がたまる。


ヘミングウェイも言っとったわ。生きた言葉じゃねえと、真実は宿らん。こっから、普通に良くない言葉を使います。よござんすか?


私はおすすめしない。特に、体調が悪かったり、心が弱ったりしてたり、そんな時は見ないほうがいい。私は私の苦しみを誰かにぶん投げようとしている。そいつはかなり卑怯なことだから、先んじて言わにゃならん。


■2024年1月からの2ヶ月間


能登半島地震。その救援に向かう海保の航空機の惨事。命ってなあ、簡単に失われるもんで、私もそれを「話題」として食ってきた。美味しくなくなったら、捨ててきた。だが、一生の傷になる人もいるのだ。私のような人間に災いあれ! もう災ってる! 災ってるってなんだよ!


そうして、1人目が死んだ。もちろん、人間はどこででも、誰かが死んでござる。80億は超えてるはずなんでね。


だが、私の朋友だ……「治療法のない病気を持つ、国籍不問のつながり」。


"Not humanity. But it has humanity."


人間ではないが、人間性はある。いいでしょう? 私はまだ恵まれたほうでね。「歴史上で最も成功した社会主義国家」に暮らしている身でござんすから、こんな昼行灯でも生きていられる。皮肉ですよ、もちろん。私は何もできちゃいないが、同時に疑いを持っている。健常者なるものが差別し、成長せず、少数派を喜んで排除するボリシェヴィキ的なところに恐怖を覚えている。


1月から8月までのあいだに、私は15人の友人を失った。つまり、死んだ。特に、1月から3月の2ヶ月間で、「相憐れむ者たち」は全滅した。


最初の1人、さっき言った彼は神経難病だった。賢かったが、神経難病ってやつは無慈悲だ。もっとも、自然と病は慈悲の概念を知らないし、何なら本当はそれ自体が慈悲なのかもしれない。


それから、次々に死んだ。自殺が多い。障害者は不当に年金をもらっていると。その声に耐えられずに死んだ。ちゃんと銃口を咥えたそうだ。最期まで賢い。


よくこめかみに銃口を向ける方法があるが、あれは死ねない可能性がある。頭蓋骨を滑るからだ。東條英機元首相のように、胸も確実ではない。


だが、口に咥えると、小脳を破壊する。まず助からない。射撃時の反射も、人間の優れた咬合力で補正できる。


みんな死んだ。病で苦しんだうえに強盗に撃たれるなんて、あんまりな最期だ。日本はその点で平和である。見かけは。だから、地方都市を狙った強盗グループが流行ったりして、警察の皆さんが命がけでこの凶悪な輩を制する。諸外国に比べて貧弱な装備で。


いいことだ。市民が基本的に銃を持っていない社会は。ステイツは銃によって成り立った国だから、銃を手放すわけにはいかない。銃こそが権利の象徴になっている。合衆国憲法修正第2条はその結実であり、ゆえにこそ、現代における巨大な矛盾ともなり得ている。


■誰もいなくなったわけではないが、誰が知るだろう


私たちはいろんな取り組みをした。それは過去のことだが、理論物理学的に言えば過去ではない。時間の概念は人類のためのものである。


私たちは、人間とは、認められなかった。


その負い目を持って集まり、私以外が死んだ。私は11日前に41歳になったが、それより年上も年下もいた。


そして、私は1人から遺書をもらった。何度でも読み返す。内容を要約すれば、こうだ。


「どうか、復讐(Vengeance)を。世界の知性を名乗るあいつらに。俺たちが死ぬべき存在と規定した者たちに。きみならできる。エドワード・テラーになりたくないにしても、ロバート・オッペンハイマーにならざるを得ないはずだ。『人でなし』は価値がなければ生きていけない。自分は価値を作れなかった。何の意味もない紙切れを崇めて死んでいく。きみならやれる。屍の数でしか悲劇の大きさを認識できないのなら、その最良の方法を取るべきだ」


とんでもないことを託して死ぬなよ!


だが、現代のサプライチェーンは複雑に絡み合っていて、容易に崩れ得ないからこそ、「崩れたらもう止まらない」。私は確かにそう感じている。前世紀で終わるはずだった諸問題が、今また息を吹き返している。


ゆえに、私はこう考えている。第一次世界大戦、すなわち"Great War"が1914年に始まってから110年。まだ、それは終わっていないのだと。"The war to end all wars"が揶揄的に使われるように、あの4年強の大戦は4つの帝国を消し飛ばし、なおも大きな屍の山を求めた。


そもそもにして、1918年のコンピエーニュの森で区切りがついたのは、"そこ"だけの話だ。ロシア内戦には介入が続き、「民族自決の部分的適用」が各地の民族問題をあぶり出した。


論文でもない世迷言。ちゃんと作らにゃなるまいが。


とにかく、疲れた。私は疲れている。それはわかっている。これは持病から来る易疲労感が大半だ。実のところ、「希死念慮」については、私はさほど悩まされたことがない。それより、文章に濃淡があることも、1から9の数字の細かな色の違いも、決して共感を得られない。


「人間はそれぞれ個性がある」には、ジョージ・オーウェルの『動物農場』にも似た2つ目のセンテンスがあって然るべきだ。すなわち、「ただし、存在しない『客観的価値』に担保された主観によって規定される人間に限る」と。私のように、記憶するものが現実の視界に現れるものは「妄想と狂気の産物」であるから、したがって人間とは認められない。


それでも、この国で、良い家庭に生まれたから生きてこられた。ありがたいことである。


みんな死んだ。


みんな死んだんだ。


私は3月頃から、そう繰り返している。毎日。何度も。何度でも。そこには添付文書として、先の特別な依頼がついてくる。「復讐(Vengeance)」の遂行だ。


■たとえ光の届かぬとも


為政者を狙ったものにせよ、一般市民を狙ったものにせよ、テロリズムが劇的な効果を生むことはない。もっとも、それが歴史の不可逆的な出来事として規定されてしまえば、それはテロリズムではなくなるという節もある。ルイ16世やマリー・アントワネットを、なぜ「法の外に置く」必要があったか。


ラ・ロシェルに無数の砲弾を撃ち込んだリシュリュー枢機卿も、獅子王ルイ8世や聖王ルイ9世によるアルビジョア十字軍も、南北戦争と並行して始められたダコタ戦争やショショーニ族へのベア川の虐殺も、狂気と殺戮の繰り返しと結末を迎えた太平天国の乱も、それは国家成立の上で必要だったと規定される。ワスカルとアタワルパの争いがそれに数えられることがないのは、その重要性が現代においては乏しいからだ。


テロリズムは、1930年代以降のトロツキストくらいに、使い勝手の良い言葉だ。


私は、見てきた。


数多の人が、「現実の戦争をもって、合法的な差別の肯定に用いる」のを。ウクライナを支援する人々は、ロシア人を露助と呼び、野蛮なオークと呼び、知的活動のできない存在と呼んだ。ロシアを支援する人々は、腐蝕したユーラシア主義を引っ張り出し、時に歴史的正当性を奇妙な角度から主張し、それを理解しない人々を蔑んだ。


それは、本邦に住む、この風土を愛する人々の心を丹念に打ちのめした。自分たちのルーツを否定され、人種から否定され、「スラヴ」という括りで放逐された。肌が白いだけで、出身や国籍を聞かれる。私が身体障害者という理由で、下着の色まで管理してきた企業を思い出す。


暴力は世界を席巻する。なぜなら、言葉は力である。ゆえにこそ、メディアは強い。にもかかわらず、自らが暴力の行使者という認識を失えば、たちまちに数多の人を轢き潰す。


私が、今、まさにそれを行使している。言葉は誰かを救うことができるし、誰かを壊すことができる。そして、誰かを救う言葉は、壊すよりも断然に困難である。


■人間は狂ってしまったのか?


"Has man gone insane?"


スウェーデンのヘヴィメタルバンド「Sabaton」の楽曲、三十年戦争をテーマにした『A Lifetime Of War』のサビの入りは、私の人生の命題である。三十年戦争では、神聖ローマ帝国の領域内、すなわち現代におけるドイツ地域の各領邦が壊滅的な被害を受けた。2度の世界大戦でも及ばぬ、75%から100%まで至る人口減を計上した教区もある。住民はどこへ行ったって? あの大木で果実に似た家族になりましたよ……。


「人間は狂ってしまったのか?」

「私は狂ってしまったのか?」


私は認めたくない。私が狂ったなどと。それは、自分が応援している方々にも、こんな自分を支援してくださっている方々にも迷惑が掛かる。


だが。それでも。時として、思うことはある。私は、致命的に壊れてしまったのかもしれないと。


私は今や「身体障害者」で、「精神障害者」で、「知的障害者」である。どうやら、2Eのギフテッドだった……らしい。すなわち、"Twice-exceptional"。二重に例外な存在と。


だから?


教師に階段から蹴り落とされたのも仕方ないと?


私の学業における不適合性から「死んでほしい」と言われたのも、甘受すべきであると?


それはできない。私は執念深いから、忘れない。3歳の時に見た祖父の死に顔も、10歳の時に見た親戚の最期も、ハッキリと覚えている。忘れられない。ふとした時に浮かび上がり、それらは視界に現れる。


私が『沙耶の唄』を思い出すとき、冷蔵庫にソーセージを保管することと大差ないことに気づいた。


生命の互恵関係は、実のところグロテスクである。それを飲み込んでこそ、現実は成立する。あえて無視して清浄化しようとするのが是とされるとき、私のような存在は「正しく浄化される」だろう。私が魔女であるか、人に化けた狼であるかは関係ない。熱狂的な人間主義は、人間的でないものの否定を美化する。


そして、その点に気づいたときから、私は私自身が強烈な差別主義者の本質を持つことに気づいた。火刑にされたとて、気の利いた断末魔を用意することさえできまい。さながら『阿Q正伝』の阿Qのように、何も残せずに死ぬのだ。


そいつは、悔しいなァ。


だから、私は生きている。でも、SNSは怖い。すべての言葉が刃となって、私を串刺しにしていく。有り体に言えば、私は人間が怖いのだろう。


同時に、人間を憎悪しているのだ。


私たちは、人でなしだった。


今はもう、「私たち」ではない。


私が、やり方を決めなければならない。それは喜びに満ちたものでありたい。歴史から学ぶとすれば、英雄は少なくとも迷い続けた存在だ。人間存在に嫌気しながらも、自らの資質をもって立ち向かった存在だ。


誰かがいなくなれば良くなる。


どこそこの国を非難すればスッキリと解決する。


かくも単純に動かぬ世界で、単純なる結論が求められ続けるならば、必ずやそれは再来するだろう。


人間の姿をした、人間的でないと認められるものについての「最終的解決」だ。それは、驚くほど淡々と、民主主義的な手続きによって進められる。


私は、あんな死に方はイヤだ。


5分前まで、そこにはたくさんの生きていた人がいた。


それは、今も世界で起きている。あらゆる地域、あらゆる場所、あらゆる人々によって成されている。


なればこそ、「人間の人間的すぎる部分を再構築する」。それが学ぶという行為の本質だったろうに。アフガニスタンを味わって、ウクライナとロシアを味わって、イスラエルやパレスチナを味わって。


どうするのだ。イエメンは、レバノンは、モロッコと西サハラは、ベネズエラとガイアナは、東ティモール、スーダンと南スーダン、エチオピア、ブータンへの静かなる浸透、ウッタル・プラデーシュ州の騒擾。ああ──。


私もまた、味わっては捨てている。なんと凡愚なることか。


そうして、今日判明したのが、現時点の医療費が私の収入の"120%"を占めるということだ。難病の非定型症状。自由診療扱いとなり、公助の対象から外れる。厳密には、私は厚労省指定難病になる前は確定診断をもらえたが、その後は「1983年の診断基準に照らして、確定診断はくだせない」という厚労省の方針により、必然的にサミュエル・スマイルズの「自助」を実践せざるを得なくなっている。


家賃もまた滞納状態になる。スマートフォンも契約解除の告知ギリギリでの支払いが続く。「人でなし」の朋友たち以外にも、知り合いが死んでいく。それで15人。


私はまた、2週間近くも外出できていない。平衡感覚への症状がひどく、徒歩数分のコンビニがあまりにも遠い。これらを解決するためのフルセットは肝臓や腎臓への負担が大きく、できれば通院などの特別な時に取っておきたい。


ロキソニンやボルタレンは、ラムネ菓子のようなものだ。現在の服薬量の効果を数値化するのは困難だが、通常の服薬によって、市販のロキソニンやボルタレンの5倍ないし6倍の鎮痛効果を発揮する。どれも劇薬指定だ。この次は、医療麻薬指定のモルヒネである。文句なしの有名なこちらの御方。


現在、私が通院時に使うフルセット、製薬会社と薬剤師の方の承認のもとで使うデッキで、ロキソニンやボルタレンの約10倍から15倍になる。それでも、モルヒネは約20倍と判定されるから、ギリギリのラインだ。


モルヒネは使わない。おそらく、私の場合は帰って来れなくなる。自己免疫性肝炎の疑いは継続しているし、端的に「鎮痛自体はうまくいっているが、発達障害の原因となっている脳内物質の分泌異常が解決しきれていない」のがあるし、「常にクレアチンキナーゼが1,500近くを計上している筋疲労状態のため、筋炎への悪影響が考えられる」といった理由から、強オピオイドへの移行はハイリスク・ローリターンというわけだ。もちろん、モルヒネ以上の効果と依存性が指摘されるフェンタニルなんてもってのほかである。


IQなんざ役に立たない。私には革命的な発想力もないし、知恵もない。そのための努力をしてこなかった、たどり着くべくしてたどり着いた現在だ。高知能指数の互助団体なるものに、いったい何の価値がある。定型症状しか認めない患者会に、私は背を向けるしかない。


ゆえに、私は選ぶほかない。自らに価値を作るか。世捨て人となるか。もしくは、安易に過ぎるやり方に走るか。


最先端の技術を駆使して、ここ数日で30以上の言語に触れた。それを上手くできた。培ってきたキャリアもある。数多の過去が、しっかりと今につながっているのだ。


だが、痛みが増幅している今この瞬間は、虚無感が勝つ。「すべてが無駄であった」と、崩れ落ちる。調べる能力があっても、それは先人の成果をなぞっているに過ぎない。私は私の病を解決できないのだ。


2024年8月31日、3時52分現在。私はいつもどおり、再燃期の全身疼痛に悶えながら、この何の役にも立たない文章を書いた。後から見て、自らの恥辱を増やしてしまったことを後悔するだろう。


しかしながら、爪と肉のあいだが痛むとき、頚部からとうとう頭蓋骨の関節、それに周囲の筋肉が炎症を起こしている時、まだ何とか意味の通る文章を書けていると信じる。


私は、まだ家族を失うかもしれない恐怖に怯えている。それは私自身の決定的な、ウハハ、もうダメだ。


私が狂ってなどいるものか。狂えるだけの知恵と才能があったならばと、どれだけ願ったことだろう。私は努力を怠った。今もそうだ。何にもならないことをやっている。いずれ死ぬまで、こんなことを続けるつもりか。


うう。


栄光はいらない。


名声もいらない。


金なんて大嫌いだ。あんなもののために、醜悪になる。だが、それなくして、私は親の薬代さえ出せず、応援している方々への形も示せず、支援してくださっている方々に応えるためのサイクルを回せない。


なんと情けない我が身か。ほしいものリストの大人買いさえできぬとは。


そうして、自分のほしいものリストには、浅ましい一言を残すことになるのだ。


「私は、痛みのない人生が欲しい!」


そんなもんねぇから、41年間も全身疼痛とともに生きてきたんだろ。まして、ここ数年の寝たきり時間はどんどん長くなってる。


幻聴が聞こえる。「じゃあ、死んじまえ」と。これは幻聴だ。今の私は、中学生や高校生ではない。41歳の職業病人である。


それでも、社会のお荷物になるとは、そういうことなのだと学んできた。「本当に苦しんでいる人はもっといるのだから」という呪文で、毎年とてつもない数の自殺者と行旅不明人を出しながら、息も絶え絶えに進むしかない。


ここで、そんなものを壊してしまえと叫ぶほど、唾棄すべき行為はない。それこそが、私の命綱さえもワイヤーカッターできれいに破断する。


複雑化したからこそ、それを単純化ではなく、分掌と並列に持っていくのだ。行政も、人生も。そのための手段であったはずの政治や宗教が、どちらも目的としてぐるりと主客転倒し、感染してくる。


ダモクレスは、吊るされた剣に気づいた。


私はまだ、おそらくはすでに剣に切り裂かれたのに、気づけていない。


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追記。


2024年8月31日、13時09分。


眠って起きて、受注した仕事は終わらせた。私はまた眠る。


上に並ぶ文章の、なんと老醜に満ちたことか。そうは言えど、これが私である。否定したとて、変わるわけではない。もちろん、肯定する気にもなれない。変ずるには、相応の行動を要する。


眠りとは死であると言ったのは、誰だったろうか。


よく眠る。葉月の最後、昼の陽光。明日をも知れぬ今なればこそ、自己に、もたらす。痛みで思考の乱れるなかで、かく書き、眠る。それはまた目覚めるものだ。私はよく眠りたい。痛みが多すぎる。


光は、まぶしすぎる。

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