忘却悲哀を秘めたまま
「やっぱり、文章を書くのが上手だね窪田くんは」
僕が書いた小説は、自身の手ごたえと同様かそれ以上に好印象だった。去年は指摘をいくつももらった記憶があるのに今回はあまりそれがない。自分の成長具合を直に感じることができてとても嬉しい。
「これなら、なにかの賞に出すべきだと私は思うけどそこのところはどう考えてる?」
先生にしてはかなり珍しい提案だ。かなり吟味してからコンクールなどに出す作品を決める先生がここまで言うなんて。
だけど今回のこの作品、僕は出すつもりは無い。これはただの自己満足に過ぎないから。書きたいように流れるように書いたその作品は確かに綺麗なのかもしれないけど、これはあくまで一人に向けたもの。それに気づいてくれなくても僕はそう書くと初めから決めていた。
「いいえ、大丈夫です。今回は先輩の方が選ばれるべきですから」
「でも私個人の感覚で言えばこれは近年提出してくれた部員の作品の中でもかなり良い。絶対に出すべきだと思うんだが」
珍しく先生が引かなかった。普段温厚な先生がここまで言うことはない。そんなにも良いものなのかと嬉しくなりつつ、でもやっぱり世には出さない。
「やっぱり、今回は良いです。僕は先輩の夢が叶うのを見てみたいので」
個人的に僕は部長の作品が好きだ。終始ノスタルジックな雰囲気にも関わらず、そこには暖かみがある。そんな作品をこれからも読んでいたいと思うから。
「ありがとう。窪田くん。私も君の作品の方が優れていると思うけどそこまで嫌なら仕方がない。改めてみんなの作品も鑑賞しようか」
日が沈んで、部活動も終わる。みんなが次々と帰っていく中で先生は僕を引き止めた。
「どうしたんですか坂田先生」
「さっきの話だが」
「嫌ですよ。今回だけは譲れないです。だいたい、総評としては部長の方を褒めてたじゃないですか」
「それはそうだが.....」
これ以上は話しても無駄だ。僕は先生とは反対の方へと歩いていく。帰り際に振り返ると、先生はまだこちらを見つめていた。
話はここで終わるかに思われていた。部長の作品が第一次選考に受かったという話が入ってきたのはそれから半年ほど経った頃。結果としては第二次選考止まりではあったが、彼女としてもそれは納得出来るものだったらしい。
そしてまた僕らの部活での時間はいつものんびりと、緩やかに流れていく。
翌年には3人もの後輩が入ることになり、僕は引退前だったが大いに喜んだ。
そして自分にとって最後の活動日が近づいたある夏の日。
それを知ったのは他でもない、坂田先生に呼び出されてだった。
「これを今言うのは非常に卑怯で卑劣だというのは承知の上の話だ。……それでも君にはこれを言わないといけないし、私は相応の責任を負わなければならない。本当に、申し訳ない」
呼び出しに応じてそうそう、彼は頭を深々と下げた。
まったく意味の分からない先生の行動に僕は何事かと尋ねたが彼はしばらくするまで決してその頭を上げることは無かった。
「どうしたんですかいきなり。状況が理解できないですよ」
「………」
先生は黙りこくったまま。ただその口は何度も開かれようとして閉じる。きっと言葉を選んでいるのだろう。
「去年の部員みんなで批評しあった時のことを覚えているか?」
「ああ、あの時の。先輩の作品良かったんですけど残念でしたよね」
「君の作品を賞には出さない話になっていただろう。だが私は君に内緒で出してしまった。私自身、これが間違っていることは分かっていた。だがこの作品は正しく評価を下してくれる人の目に留めるべきだと私は思ったんだよ」
それがあまりにも身勝手で彼の自己満足にすぎないことだというのは分かっているという意味で吐露された言葉であって、ある意味でそれは僕に対する謝罪ではなかった。
湧いてくるはずの怒りも何もがその時感じることはできなかった。
ただ先生は続けて「君の作品が大賞になった。本にするかしないかは君が決めることだ。これはその書類だよ。改めて、本当に申し訳ない」と言って机の上に書類を置く。
彼はもう一度深く頭を下げた。
それでどうして許されると思ったんだろうか。
冷えていた自分の体が何かに燃やされているような感覚になって、僕は顔を上げた瞬間の先生の胸倉を掴んで身を乗り出そうとした。だが体格で勝っている先生にそんなことをすることができるはずもなく、抵抗されたことで机に押し付けるのが精一杯だった。
「ふざけるな。なんでそんなことしたんだ!」
「…………すまない」
こんなに口調を荒げたのは初めてだったかもしれない。先生はそんな言葉を浴びせられても俯くばかりで何も言い返せない。
「すまない?僕は嫌だと何度も言った。なのになんでそんなことができるんですか。僕が書いたあの作品は彼女だけに向けたもので、たくさんの人に読んでもらうために書いたものなんかじゃないんだ」
「もちろん、それは承知の上だ」
それならもう僕から言えることは何もないじゃないか。
知っててこんなことされるなら、僕はどうすればよかったんだ。
「……失礼します」
僕は書類を手に取ってそのまま部屋を出た。
どうして書類を手に取ってしまったのか。あんなに怒りの湧いた出来事だったのにもかかわらず、僕は捨てる選択をしなかった。
「愚かなのは、僕自身なのかもしれないな」
結局は自分が一番かわいいと心の底では思っているんだろう。じゃないとあんな口論の末にこれを持ち帰る気持ちになんてならない。結果は変えられない。その事実を受け止めたうえで増えた選択肢に迷うことは僕にはできないらしい。
あの後、僕はあっさりと部活を辞めた。
記念として最後に書くはずだった小説は、今はもう部屋の片隅で埃を被っている。それよりも目の前にあるものに集中したいから。
「やめるんですか?」
「うん、ごめんね。ちょっとなんていうんだろう。方向性の違い?ほら、バンドとかではよくあるじゃん。それにどっちにしても僕はもうやめる身分だったからそれが早くなっただけだよ」
事実を彼女に言うことはできないので、こんな風に誤魔化すことしかできなかった。他の同級生たちにはこのことは伝えたら理解を示してくれて別に部活をしなくてもいつでも歓迎すると言ってくれた。
あまりに嬉しくて涙をこぼしてしまうんじゃないかと思ったけどそこはなんとか我慢した。
「…………やろうか」
こうなったらやりきるのが正解なんだろう。
僕が最後に彼らに残したのはあとがきだった。なんにも手に付けていないのにあとがきだけ書くなんて言うのはおかしな話かもしれないけれど、これはもうすでに決まっていたことだったからすぐに書いて行くのを止める日にちゃんと渡した。タイトルも、僕が考えたのをそのまま使ってくれるらしい。お礼に文化祭の日にはちゃんと買いに行ってあげないとな。
僕は封筒に入った印刷紙をゆっくりと出して確認する。
夏休みの間、僕は電話とパソコンの画面と向き合うことにほとんどの時間を費やした。外に出なさ過ぎて親には心配されたけれどもそんなことも気にならないくらいには大変で、だけど楽しい。
すべてが終わった時には満足感と疲労感が同時に押し寄せてきた。
この気持ちをいち早く彼女に伝えたいと思ったが、それは違うなとすぐに連絡先から手を離す。
「僕はもう見せてるからいいか」
彼女には特別な一冊はもう読んでもらってる。
これは”おすそわけ”に過ぎないんだから。
翌年、彼の書いた小説は世に出ることになる。それが彼女に届くのはまた別の話。
そうして彼は何も教えることなく学校を去った。
きっと彼女なら気づいてくれるだろうけど、真剣に考えてくれるだろうかと少し不安になったが、そんな心配はするだけ無駄だったと今の彼女を見ればきっと思うはずだ。
彼は一足先に、その本を閉じていく。
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