その温もりに触れた瞬間

 教室について早々、席に着いた僕の肩を叩いたのは人志だった。

「おはよう。どうやら元気みたいだな」

「おかげさまで。昨日はまぁ、助かったよ」

 人志があの場に現れてくれなかったらどうなっていただろう。

 あの日から朱莉はどこか変わってしまったのかもしれない。

「でも、随分と派手なことするようになったな」

 そうだった、助けてもらったということはあの場面に出くわしたということで。

 そりゃあ勘違いしてしまっても仕方がない気がする。

「あれは誤解だよ。別にそういうんじゃないって」

「それなら安心しろ。もう唸るほど否定されてきたからな。いい加減理解したよ」

 なら聞きたいこととはなんだろう。春は荷物をしましながら人志の言葉に耳を傾けた。

「確かお前は夜川さんとは付き合いたくないんだったな」

「そうだね。今のままの関係性がいい」

「でも彼女はそこまでしてでもお前と付き合う、というより関係性を持ちたいのか?分からないが執着しているわけだ」

 ならどうするか。

 少なくとも彼女が諦めるのをただ待っているわけにはいかない。

「ということで、放課後予定が入ったって夜川さんに言っておけよ」

 チャイムが鳴って一限が始まった。

 休み時間の間に朱莉が来ることはないが、さっき人志に言われた通りに連絡を入れておいたところ、風に乗ってきたかのような速さで教室に入ってくる人がいた。

 瞬きの間に人の網目を縫って僕の前まで来ると机を叩いて問い詰めてくる。

「これってどういうこと?」

「どういうことって言われても、その文面通りだよ」

「だって今までこんなことなかったじゃん!」

 むしろ高校に入ってから朱莉としか学校を帰っていないと考えると、いくら言葉で否定していてもやっていることは恋仲とさして大差がないことに気が付く。振り返って考えなければ見落としていたかもしれない。

 周りではざわざわと僕たちの口論を見ながら何かと言っているが、朱莉の声の方が大きいので僕には届かない。そしてたぶん朱莉は耳にすら入っていないだろう。

「と、とりあえず落ち着いて。みんな見てるから」

「こんなの私は認めないからね!」

 捨て台詞のように朱莉は教室を出て行ってしまった。それを隣で見ていた人志は憐れみを込めて春に言う。

「一緒に帰れないだけでこれって、お前は本当に大変な奴だな」

「同情するなら助けて欲しいな」

 チャイムが鳴って授業が始まる。担当の教科の先生が教室に入って授業を始めるが、クラスの中になんとなくあるぎこちない雰囲気を感じ取って先生もまた調子を落とした。

 そのまま六限まで時間は過ぎたが、ちょうどその日は体育で授業が早めに終わった。早めに着替えを済ませれば朱莉が教室に来るよりも先に学校を出られる。

「ほら、急ぐぞ」

 人志に急かされて着替えてから鞄を持つとそのまま担任と廊下ですれ違って昇降口を出た。人志もまた自転車通ですぐに鍵を外して学校を出た。

 うだるような暑さは、風を切る自転車と良い勝負。

 とにかく人志の後ろをついていく。着いたのはどことも知らない橋の前だった。

「なんでここに?」

 路面電車が音を立てて車の隣を通り過ぎていく。

 自転車を停めて二人並んだ。

「どっかで珈琲を飲みながら洒落た雰囲気で『話聞くぞ?』って言いたいのはやまやまだが、俺には金がない」

「でも外はちょっと」

「………確かに落ち着かないな。なにより暑すぎる。さすが晴れの国」

 このままだと朱莉の暴走をどうにかする前に僕たちが熱で壊れてしまう。

 すぐに自転車に乗って近くのカフェに入った。

 比較的安い場所だったが、さっき言った通り本当に彼は金欠らしく、財布を逆さにして見せたので貸しということでそこは春が支払った。

 クーラーの利いた店内は体育終わりでさらに炎天下にさらされた二人にとってはもはや天国で、先に出された水も一気に飲み干してしまう。

「ということでだ、奢られてしまったからにはしっかりとお前の期待に応えるだけのことはして見せる」

「貸しじゃなかったけ。まぁいいや。でも朱莉に僕を諦めてもらうなんてどうするつもりなの?」

 具体的な方法というものがあまり思い浮かばない。

 だがそれについて人志は思い悩んでいる様子は全くといってない。

「別に諦めてもらう必要はないだろ」

 到着したカフェオレを飲みながら人志は言った。

 さっきと言ってることが正反対なのは口を噤みながら続きを聞いた。

「用は夜川さんがもう付き合うのはダメなんだと思わせればいいんだ。いくら幼馴染だと言っても、そこまで真剣なところを見てしまったら諦めざるを得ないはずだしな」

 なるほど。ストローを刺して飲むと冷たい液体が体を冷やす。

 カランと氷が鳴った。

「ということで方法を考えたんだが、春は今の季節が何の季節か知っているか?」

「夏でしょ。いくら人志よりも頭が悪いからといってそれくらいのことは分かるよ」

 さすがに馬鹿にされたと思って返したが、彼が言いたいはそういうことではないみたいだった。

「夏休みがもうすぐ来るってことはだ、それが開けたら何がある?」

「……体育祭」

「そう、もし諦めさせることができるとするならその間にクラスの女子とそういう雰囲気を演出すればいい。幸いなことにお前と夜川さんは違うクラスだ競う相手になっている以上そこで手加減はできない、というより許されない」

 朱莉は言っても学年で有名だ。もし彼女が手加減をして負けたなんてしれたら、それすなわちそれを掘り返そうとする人が現れるはず。

 そしてその原因にたどりつくのは、この冴えない顔の男というわけ……。

「全然嫌だね」

「お前は何をはやとちりしたんだ。いったん落ち着けよ」

 そう言われてもう一口カフェオレを飲む。結露してグラスを持った手が濡れた。

「お前が何を想像したのかは知らんが、方法は決まりだ。そしてお前は運が良い。その勘違いをさせるための女子はもう既に手配済みだ」

 手配?

 人志が言った途端、店の中に入ってくる女子高生が一人。

 席に着くのかと思って目で追うと、着ている制服がうちのものと同じだった。

「おーい、彩乃こっちだ」

「急に呼び出してどうしたの?いつも学校では話しかけるなって言うくせに」

 彼女はそう言いながらも少し嬉しそうにしながら人志の隣に座る。少し人志との距離が近い気がしたけれどもそれは気にしない。

「というわけで、囮役候補の彩乃だ。紹介する、こっちは柳沢春。ていうかクラスメイトだったから知ってるか」

「よろしく、柳沢」

「ああうん、よろしく彩乃さん」

「気安く名前で呼ばないで!」

「彩乃、もっと人には優しく接しろって言ってるだろ」

「なによ、急に呼び出したのはそっちでしょ!そんなこと言われるんだったらすぐに帰ってもいいんだよ?」

 彼女は怒っていた。それもそうだ。きっと彼女が好きなのは人志であって僕じゃない。なのに朱莉を勘違いさせるためにするということはそれすなわち、他の生徒たちにも同様に勘違いされるということで。そんなのはきっと彼女からしたら嫌に違いなかった。それ以外の要因がないとするのなら。

「彩乃、お願いだ。俺がこうやって頼めるのはお前しかいないんだよ」

 手をすり合わせて懇願する人志を見て彩乃も押し黙る。

 きっと彼女は自分の心の中で揺れ動いている。だが、そのスイッチを強引に人志は押そうとして彼女に寄り添った。

「ほら、いつもの約束。これを破ったことはないだろ?」

「………いや、でもそんなの」

「ありがとう彩乃!やっぱりお前しかいないよ~」

 そう言って彼女にハグをする人志だったが、彩乃の方はそれどころじゃないみたいだ。耳まで真っ赤にしてその手を人志の後ろに回そうとしたところで彼女に回していた手が離れた。

「ということだ。よろしくな、彩乃」

「う、うん………」

 空を掴んだ手を眺めていた彼女だったが、その後に僕と目が合ったので睨まれた。

 彼女は彼女で苦労しているんだな。納得いかない心のまま、無理矢理話を合わせられている。

 その気持ちが実ることを願うばかりだ。

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