第六章 血戦

 妖力を有する者は、五つの種族に分類される。

 一、妖怪ようかいいにしえより日輪に生息する怪異、妖怪変化の総称。

 二、半妖はんよう。人間と妖怪の混血。かつては珍しくない事例であった。

 三、禍月まがつき。比倫を絶する力で世界を支配した、妖力の根源たる魔王。

 四、妖魄ようはく。人間と禍月の混血。邪淫による呪われし忌み子。

 五、妖憑ようひょう。禍月と契約を交わし、妖力を与えられた人間。


 日輪の東部に聳える冥崖めいがい山脈の裏手に、月輪げつりんと呼ばれる広大な地が存在する。

 戦国時代より遥か昔、日輪と月輪は元々一つであり、《陰陽いんよう》という名の大陸であった。陰陽はかつて妖怪に支配されており、人間は日陰者であったという。

 妖怪が跳梁跋扈する陰陽に於いて、その中でも特に危険な妖怪を禍月と呼んでいた。力ある者の頂点として陰陽に君臨し、古くから災厄として認知されてきた。

 禍月の力は常軌を逸しており、能動的に天災を起こすことができた。地震、落雷、竜巻、雪崩など、気紛れで天変地異を引き起こし、世界を恐怖のどん底に陥れていた。扱える力の規模がまるで違う。人間など敵うはずもなかった。

 そんな化物が陰陽を席巻し、領地を巡って争っていた時代がある。

 禍月の群雄割拠に人間が入り込む余地はなかった。人はいつ殺されるのかと怯えながら、隠遁の如く詫び住まいを強いられていたという。


 禍月の中には人間を奴隷のように扱う者もいた。逆らえばあっさりと殺され、中には目を覆いたくなるほど凄惨な状況にあったという。

 禍月の児戯により、人間とまぐわうことで生まれた子孫には妖力を宿すことがあった。妖魄とは、禍月の血を引く人間を指している。

 妖魄が必ずしも妖力を持つとは限らない。しかしどれだけ禍月の血が薄くなろうとも、妖魄から生まれた子どもには妖力を宿す場合があった。

 その突然変異体を――《修羅之子しゅらのこ》――と呼ぶ。


 そういった言い伝えから、天下人――劉円は開幕かいばく当初から妖力の根絶に注力した。妖怪を弾圧し、妖力に連なる者を一切合切排除した。

 戦国時代以降の日輪には、妖怪の存在はあれど禍月は現存していない。あれほどまでに猛威を振るった禍月が一体どこへ消えたのか、真相は謎に包まれている。

 これについては多くの考察がなされており、『既に天災地変によって絶滅した』、『人間との生存競争に敗れた』、『そもそも禍月など存在していない』などと様々な説があるが、どれも信憑性を欠いている。

 現在では『禍月は月輪にのみ生息している』という説が有力とされているが、この説にも不可解な点がある。陰陽を二分する冥崖山脈はいつ形成されたのか。どうやって強力な禍月を月輪に追い遣ったのか。

 月輪については劉円の時代に禁足地とされており、その名残から立ち入る者は存在しない。そもそも地上から山巓を拝めないほどの高度を誇る冥崖山脈を越えることが現実的ではないため、月輪の状況が解明されることはないだろう。現代人は月輪を開拓しておらず、未開の地への幻想が膨らみ続けているといっていい。殺し屋が蔓延り、迂闊に出歩けない世相であることも通説に拍車を掛けている。

 半妖も妖力を持つ場合があるが、あまりに微力であるため捨て置かれていた。扱える妖力が戦闘で役に立つ水準でないため、脅威にはならないといった判断だ。

 幕府が主に警戒していたのは妖魄、つまり修羅之子である。姿形は人間だが、妖怪とは比較にならない妖力を有する異質な存在。修羅之子が幕府を転覆させる要因となると恐れられ、禍月が人に化けている姿だとも考えられていた。そのため赤子の内から妖魄を処理しようと、徹底した体制が整えられていたのだ。


 劉円が発行した式目には、このように定められていた。

 式目第五条――妖魄の根絶。『出生を幕府に報告する義務を負う。修羅狩りの手により赤子を調査し、妖力が確認されれば一族全員が抹殺対象となる』

 人間の力を結集して組織された修羅狩り。『修羅』――すなわち修羅之子。修羅狩りは治安維持のために奔走するが、主たる目的は修羅之子の排除であった。

 妖魄を――この世から一人残らず抹消するために。


    ◇


「お前達三名は優秀な修羅狩りだ。和平への貢献、そして実績は尊敬に値する。だが妖魄である以上、生かしておくわけにはいかないのだ」

「俺様が妖魄……? 禍月の血を引くだと? 戯言を言うんじゃねぇ!」

 刀乃の長広舌を何とか否定したかったが、大地には思い当たる節があった。

 己に宿る妖力の存在は無論のこと、幼い頃は何者かに命を狙われていたのだ。大地は妖術で身体を硬質化させ、赤子ながら追っ手を振り切っていた。刀乃の話から推し量ると、刺客は修羅狩りの残党であった可能性が高い。

「まさか……俺様の両親を殺したのは、修羅狩りだとでも言うつもりじゃねぇだろうな……?」

「…………」

 大地の両親は暗殺されている。大地は殺し屋の手に掛けられたと思っていた。

 しかし刀乃の沈黙は、大地の問いに対する肯定を意味していた。

「てめえぇぇぇぇ!!」

 怒る大地は切歯扼腕し、口唇から血を垂れ流した。血走る眼光で睨み付けるが、刀乃は相手にしなかった。

 大地の境遇は詩音にも重なっていた。詩音もまた、出生と同時に両親を亡くしている。両親の顔を詩音は見たことがなく、気が付けば殺し屋の施設に匿われていたのだ。両親は詩音を何とか逃がし、修羅狩りの処刑を受けたのだろう。

 修羅狩りの手で人生を破壊されていたことを知り、行き場のない悲哀が詩音の胸を突き刺した。口を縛る縄に歯を食い込ませるが、噛み千切ることができない。詩音は声を出せず、静かに涕泣した。

 しかし刃は、そういった凶手に追われた記憶がなかった。孤児院に入るまでの八年間、刃は家族と共に平穏な日々を送っていたのだ。

 刀乃はこの状況を正当化するために、刃達に対して事細かに説明を続けている。修羅狩り、妖魄、己の正体。刃が初めて耳にする自柄について、疑問を解消するなら今しかない。

「刀乃、わしが修羅之子であるなら、どうしてわしは生きておる? どうやって修羅狩りによる検査を免れた? わしの両親も殺したというのか?」

 刃の両親の消息は、現在も尚不明である。

 核心に迫る刃の質問に、刀乃は答えた。

「お前の父、黒斬剣衝くろぎりけんしょうは優秀な修羅狩りだった。しかし剣衝は、お前に妖力が発現したことを隠蔽した。黒斬一族が妖魄であると判明してしまうと、式目により一族全員が抹殺されるからだ。妖魄が子孫を残せば修羅之子となる可能性がある故、禍月の血族は絶たなければならない。剣衝は、まだ赤子のお前を殺せなかった……」

 刃は顔を伏せ、亡き父を思い返していた。父からは妖術を使わぬよう強く教えられ、刃をできるだけ人目につかぬように取り計らっていた。

 当時の記憶を辿ると、刀乃の口述をあながち嘘であるとは断言できなかった。

 刀乃は続ける。

「その八年後だ。お前の弟、黒斬剣斗が生まれた。よってまた、修羅狩りによる赤子の検査が行われた。父の剣衝は任務に出ており、別の修羅狩りが赤子を調べ上げた。赤子からは妖力を確認できず、穏便に検査は終了するはずだった――。しかし、生まれたばかりの弟を調べる修羅狩りに不信感を持ったのか、その場に居合わせていたお前が妖術で修羅狩りを威圧した。おかげで黒斬一族が妖魄であることが発覚し、黒斬一族は抹殺された。刃と剣斗、二人の子どもを除いて――」

 刀乃の話は信じ難いものであった。刃は何も知らなかった。両親がどこかで生きていると信じていたが、己の失態によって既に殺されていたというのだ。

 両親の死を突き付けられ、刃は憮然としていた。

「わしの……せい……? わしが……家族を巻き添えに……」

 父の剣衝は刃に対し、修羅狩りの職務を『護衛』であると教えていた。それは修羅狩りの本質を隠し、刃自身が妖魄であることを悟らないようにするためだ。

 修羅狩りの語源は『修羅之子を狩る者』であり、『修羅』とは殺し屋ではなく、皮肉にも刃自身を指すものであったのだ。

「幕府の修羅狩りが……わしの家族を殺したのか!? どうして……妖魄は狩られねばならなかったのだ!」

 声を荒らげる刃の質問に、刀乃は淀みなく答えた。

「危険因子を確実に排除せねばならぬ。妖力は分別のつかない子どもが持っていい力ではない。妖力の危険性は歴史が証明している。出奔したお前を探すため、修羅狩りは手筈を整えていた。だが……」

 刀乃は後悔や未練を押し潰すように、グッと拳を握っていた。

「……だが、そんな時だった。幕府が滅ぼされたのは……。たった一人の妖魄によって、劉円一族は皆殺しにされたのだ。幕府を失った修羅狩りは公的な機関ではなくなり、散り散りとなってしまった。その中には殺し屋に転向した者もいた。幕府を汚す裏切り者を処刑しつつ、俺と荒士は活動を続けた……」

 刀乃はあらゆる感情が去来し、息を乱している。今にもはち切れそうな怒りが漏れ出し、その殺意は刃に向けられているようだった。

「劉円様を殺めた者の名を知る者は限られている。襲来した妖魄との戦いによって、ほとんどが命を落としたからだ。……俺は……俺は絶対に許さない。神都幕府を倒幕に追い込み、日輪を闇に葬った張本人――」

「それは……一体誰だ……?」

 その後に告げられた刀乃の返答に、一瞬だが時が止まった。

「お前の父――黒斬剣衝だ」



 ――刃は、当時八歳だった頃を回想していた。

 兄の剣諒けんりょうに連れられて、刃は佐越の城下町に来ていた。

 これから兄は、父の盟友である佐越の領主――神代士隆を訪ねるという。

 兄の手には、生後間もない弟がいた。大きな手拭いに包まり、安らかな寝息を立てている。どういうわけか、兄は深刻な表情で刃を励まし続けていた。両親の下を離れる理由を聞くことができず、刃は兄に追従した。

 ――すると、城下町の通りを歩いていた時に恐ろしいことが起こった。

 雑踏の一人が、刃に向かって太刀を振り下ろしたのだ。突然の出来事に、刃は身体が動かなかった。街中で危害を加えられるなど一抹も想定していなかったため、走馬灯がよぎることもなく迫りくる斬撃を目で追っていた。

 死を覚悟するまで思考が追い付いていなかった刃だが、兄の剣諒によって一命を取り留めた。兄は腰の小太刀を抜き放ち、辻斬りの斬撃を受け止めていた。

 兄は辻斬りに相対しながら、刃に古刃ふるみの脇差を握らせた。そして兄は、二つのことを刃に告げた。『神代士隆に保護を嘆願すること』、それから、『姉として剣斗を護り抜くこと』。そう言い残して、兄は刃を佐越城のほうへと突き飛ばした。

 これが――兄の最期だった。

 温和な兄が放つ切迫感に圧倒されながらも、刃は必死に現状の理解に努めていた。辻斬りの足止めをしている兄の背が、もう二度と刃のほうへ振り返ることはないだろうと悟っていたのかもしれない。自然と涙が溢れていたことを覚えている。

 刃は弟の剣斗が包まった手拭いを抱え、急いで佐越城の天守に向かって走り出した。背後では兄の断末魔の叫びが聞こえたが、刃は脇目も振らずに駆け抜けた。生まれたばかりの弟を護るために。そして、兄の覚悟を無駄にしないために。

 賑々しい目抜き通りに、刃の慟哭が響き渡っていた。

 劉円の傘下にある佐越で、指名手配されている子どもを隠すことは至難。隠匿を暴かれた場合、死罪となることは式目で定められている。

 それでも士隆は、刃と剣斗を保護した。士隆には策があったのだ。

 それは、自身が運営する孤児院の一室で匿うことだった。そこには既に保護され、同じ境遇を持つ少女がいた。こうして刃は、えにしとなる雫玖に出会ったのだ。


   ◇


「…………!」

 ――遠くで叫ばれた悲鳴に、逸早く詩音が反応した。

 焦げた臭いが鼻孔を刺激し、周囲では火の手が上がっていく。

 大地がこうして捉えられている様を見て、領民に化けていた殺し屋が動き出したのだ。朱穂の殺し屋は本性を現し、手当たり次第に領民を斬り付けている。

 しかし、修羅狩りである刀乃に動く様子はみられない。阿鼻叫喚の地獄絵図を気に掛けることなく、変わらずに刃達に視線が向けられている。

 少女達は動揺を隠せなかった。修羅狩りとして、このような人民の危機を放置できるはずがない。今すぐに対処しなければならないが、刃達は拘束されていて動けない。佐越の窮地を救うべく、まずは刀乃の真意を問い質した。

「父上の謀反、妖魄の危険性、修羅狩りの大義――。お主の行動理論は理解した。刀乃、お主は間違ってはおらぬ。だが、わしら修羅之子を狩り、妖魄を駆逐し、その後はどうする? 日輪はどうなる? 殺し屋が暴れ始めた現状、これがお主らの望んだ光景だというのか? わしら妖魄を狩るのは、修羅之子の脅威から民を護るためではなかったのか?」

 詩音と大地は、刃の追及を聞いて頷いた。自分が考えていたことを刃が述べてくれたため、一同は刀乃を見据えて返答を待った。

 だがその返答は期待していたものではなく、あまりにも狂気じみていた。

「必要な犠牲だ。妖魄の粛清が修羅狩りの第一目的。そのためならば手段を選ばない。修羅之子であるお前らを確実に殺せる時を待っていたのだ」

 刀乃が見据えるのは、刃の瞳に絞られている。

 現れた殺し屋に対して、刀乃は全く見向きもしない。

「必要な犠牲……だと……? てめぇ、正気か!?」

 大地は激昂し、腕を縛る縄がミシミシと悲鳴を上げている。殺意に呑まれかけた大地だったが、寸時で我に返った。隣で自身以上の怒気を感じ取ったからだ。

 刃の殺気に、周囲の木々に留まる小鳥は急いで飛び去っていった。

「……やれやれ、目先の目的に執着するあまり、修羅狩りの本質を見失っておるのう。君主を失い、野に放たれた馬鹿ども。日輪の和平を求める大義は、わしらと同じかと思ったのだが……。これでは有象無象の殺し屋と同じだ。必要な犠牲など、あっていいはずがないだろう!」

「違う! 我々は――」

「――もうよい! 父上の行ったことに弁解の余地はない。だが、このままでは日輪に救いはない! わしは修羅狩りとしてお主の蛮行を止めさせてもらう。これ以上、無辜の民の血を流させるわけにはいかぬ!」

 刃は抗う決意をした。幕府の意向など知ったことではない。

 あくまで佐越の修羅狩りとして、守るべき責務がある。日輪のため、故郷のため、契約者である士隆のため。刀乃の主張のままに殺されるわけにはいかない。

 己に向けられた殺意から察するに、ここまで言っても刀乃の意志は揺るがないようだ。あくまで幕府の修羅狩りとして、刃達の始末を優先する気だ。

「何と言われようと、黒斬刃、その血に宿る忌まわしき妖力を滅するまで、俺は死ねんのだ! 俺がすめらぎとなり、日輪を一つにする。再建に当たって、まずは修羅之子であるお前達を亡き者にしなければならない!」

 刀乃は言い放ち、縛られて動けない刃に向かって太刀を振り下ろした。

 すると眼前に土壁が立ち上がり、刀乃の斬撃を弾き飛ばした。大地は刀乃の驚く表情を見て、してやったりと笑みを浮かべている。

「先祖の禍月には感謝だぜ。地上は全て、俺様の領域だ」

 ――大地の妖術は岩。地殻を形作る鉱石を自在に操ることができる。砂礫や粘性土であろうと、操れる粒子の大きさに際限はない。

「よくやった、大地。相変わらず、規格外の妖術だのう!」

 大地は爪を鋭利な岩に変化させ、自身を縛る縄をあっさりと引き裂いた。続けて刃と詩音の縄も同様に引き裂き、二人を解放した。

 口を縛られている詩音は、急いで大地にその旨を手振りで伝えた。すると大地は詩音の眼前に太刀を振るい、口を縛る縄のみを斬り落とした。

「怖っ! 大地さん! 助かりましたけれど、もっと優しく解いてくださいよ!」

「チビッ子、ピーピーうるせぇ。助けられて文句を言うな。足を引っ張ったら見捨てていくぞ?」

 三人は解放され、それぞれ抜刀した。修羅狩り一同、任務開始だ。

「抵抗するのか!? こちらには人質がいるのだぞ! 歯向かえば領主を殺す!」

 人質を盾にする刀乃だが、大地は冷静だった。

「無駄だぜ。お前の目的は妖魄の抹殺、そして日輪の和平だ。なら士隆を殺す道理はないだろう? つまらねぇ小細工はやめて、真っ向から俺様に抗ってみろよ」

 刀乃は豪剣で土壁を破壊し、血相を変えて襲い掛かってきた。

 鎌を掛けたが当たりだったようだ。流石に領主を手に掛けるまではしないだろうと大地は読んでいた。百年以上も続いた幕府が、このような殺生を許すはずがない。幕府に忠実な刀乃だからこそ、その思考を読むことは容易かった。

「大地、少し時間を稼げ」

「わかった。任せろ」

 大地の妖術により、刀乃の足元を隆起させた。すると平衡を崩した刀乃は躓き、後方に大きく倒れ込んだ。

 その隙を見て、刃は詩音の肩を抱いてぐっと引き寄せた。

「し、師匠……!?」

「詩音、お主に頼みがある」

 刃は耳打ちで詩音に腹案を伝えた。

 刃の言葉を聞いた詩音はすぐさま踵を返し、急いでその場を後にした。



 並び立つ二名の修羅狩りに向かい合うのは、同様に二名の修羅狩りである。幕府の時代を牽引してきた刀乃と、自らの手でこの道を模索してきた刃。異なる雇い主によって微妙な差異が生じ、その信念が互いに交わることはない。

 刃と大地、刀乃と雫玖。対峙する両陣営、恐らくだが実力は拮抗している。

 先ほどまでは沈黙を貫いていた雫玖だが、ここから戦闘に加わるようだ。妖気と殺意を漲らせ、今にも刺されそうなほど隙のない構えだ。

「刃、ここは一人一殺でいくぞ。お嬢と俺様の妖術は相性が最悪だ。悪いが任せるぜ。裏切り者にお灸を据えてやれ」

「承知した。お主も刀乃を侮るな。奴の剣術は、わしに匹敵するやもしれぬ」

「お前程度の剣術なら、俺様の敵じゃねぇよ」

「言ってくれるのう。お主では瞬殺されるのがオチだ。さっさと殺されてこい」

「刀乃とやらの次はてめぇの番だ。てめぇこそお嬢に殺される前に逃げてもいいんだぜ? 俺様一人で佐越は護れるからよ」

 二人の舌戦を尻目に、刀乃は眼前にまで迫っていた。

 大地はわかっていたとばかりに、刀乃の斬撃を硬化した腕で防いだ。

「ここは俺様が護ってきた土地だ。荒らされるのは我慢ならねぇ。どちらが修羅狩りか、篤とわからせてやる!」

「お前が修羅狩りだと? 笑わせるな。岩の禍月――《峨嵬堊がいあ》の血を引きし妖魄。お前が早々に死ねば、佐越に手出しはしない。どうだ、死ぬ気になったか? 自害をするなら見届けてやる」

「峨嵬堊? 知らねぇな。妖魄だの妖憑だの、わけのわからねぇ設定を持ち出してきやがって……。俺様は俺様だ。お前を殺して、佐越に入り込んだ殺し屋も皆殺しにする。俺様は修羅狩りとして、士隆との契約を全うするだけだ」

「殺し屋風情が! 誇り高き修羅狩りの名を騙るな!」

「どっちが殺し屋だよ。俺様は殺し屋しか殺していないぜ? 佐越に仇なすてめぇは、俺様にとっては殺し屋も同然なんだよ!」

 刀乃と大地は相反する意志と共に、互いの豪剣を激しくぶつけ合った。


    ◇


 刃は雫玖に向き合った。目の前の親友は幻影や傀儡ではない。紛れもなく雫玖本人だ。もはや殺し屋も同然の裏切り者だが、刃は受け止め切れてはいなかった。

「雫玖、今すぐに謝れば許してやるぞ」

「謝る? 一体何をかしら? あなたは初めから私の仲間ではないのよ?」

 狐の仮面の下で、雫玖は冷酷に言い放った。

 いつものように、刃を名前では呼んでくれない。

「お主の水の妖術、それは妖魄とは違うのか?」

「あなたと一緒にしないで。私は妖憑よ。禍月から妖力を頂いたの。汚らわしい禍月の血は引いていないわ。八歳の時に妖魄だと偽り、士隆さんを取り入ったの」

 雫玖は無感情に答えた。雫玖は親友の血を否定し、恩人を見殺しにしたのだ。

 しかし刃は、雫玖の裏切りを素直に信じることができなかった。雫玖のことは知悉ちしつしているつもりであった。共に和平を望み、励まし合った日々の記憶が蘇る。

「身寄りのないわしにとって、雫玖は信用できる友達だった。幼少期を共にし、様々な苦境を共に乗り切った。これら全て、雫玖の偽りの姿だったというのか?」

 刃は雫玖に語り掛けた。手遅れであるかもしれないが、とてもこのまま戦う気にはなれなかったのだ。

 だが雫玖は間を置かず、濁りのない返答をした。

「全て偽りよ。本当に騙されやすい子ね。私はあなたを監視し、あなたのことを刀乃に流していたのよ。あまりに疑われないから正体を明かすのが億劫だったわ」

「雫玖……」

 はっきりと告げられてしまった。動揺した素振りでも見せてくれるかと少しばかり期待していたが、雫玖は淡々と真実を述べていた。

 刃は普段、心が荒んだ時には雫玖のことを思い出していた。同じく修羅狩りとして専心する仲間の存在は、刃に活力を与えていた。辛い時には傍にいて、優しく抱き締めてくれた。そんな刃にとっての女神は、一体誰であったのか。刃が与えられた励ましの言葉や心の温もりは、実在しない偶像であったのだろうか。

 よく思い返すと、不審な点が浮かび上がってくる。刃が野良となった時、頃合いよく雫玖も同様に野良であった。刃が真実から目を背けていただけであり、疑って掛かれば充分に気付ける場面はあったのだ。

 雫玖の裏切りを受け入れ、刃は拳を握り締めた。この怒りは雫玖に対してではない。他人を疑わず、のうのうと暮らしていた自分への怒りだ。

 仕方なく刃は戦う決意をした。こうして話を続けていては、佐越の状況は悪化するばかりである。目の前の少女は、自身の信じる修羅狩りにとっての敵だ。早々に片付け、士隆の生存を確認しなければならない。

「やはり……わしは騙されやすいようだのう……。わかった。雫玖、全力でかかってこい。士隆に謝らせてやる」

「…………」

 修羅狩りを志してから現在に至るまで、刃は戦いで苦しんだことがない。紅蓮との戦いも長引きはしたが、手傷を負うまでには至らなかった。

 雫玖が幕府側の修羅狩りであろうとも、彼女もまた数え切れないほどの殺し屋を屠ってきている。雫玖からは苦戦や負傷をした話を聞いたことがなく、全戦全勝はお互い様なのだ。華麗な剣技と妖術のキレは本物であり、実力は疑いようもない。刃にとって雫玖は、これまで戦ってきたどの相手よりも強いことだろう。

 修羅狩りとなってから、両者の対決はこれが初となる。美しい水の力を刃は隣で見てきたが、自分に牙を剥く日が来るとは考えもしなかった。

 雫玖から水の妖気が迸る。刃も応えて、黒の妖気を漲らせた。


    ◇


 詩音は刃の指示で孤児院に急行していた。刃が狙われる理由が血筋にあるというのであれば、弟の剣斗もまた修羅狩りの粛清対象となるからだ。

 剣斗を護るべく、詩音は孤児院の扉を勢いよく開けた。

「剣斗君!!」

 部屋の中には子ども達の姿があった。どうやら無事であったようだ。

 しかし、子ども達の様子がおかしい。部屋の隅で固まり、身を寄せ合っている。

 その怯え切った視線の先には、不審者の姿があった。朱穂に現れた深編笠の男だ。男は院長の埜寺を拘束し、得物の鋒鋩を人質の首に当てている。

「よう、来たか。待っていたぜ。……ってあれ? 神楽詩音か。てっきり黒斬刃がここに来ると思っていたが、読みが外れたぜ……」

 深編笠の男は、ゆっくりと詩音に向き合った。

「わたしは師匠にここを頼まれました。大嵐荒士、やはりここにいましたね。師匠の読み通りです。埜寺さんを離しなさい! そして、子ども達への手出しは許しません!」

「……いいだろう。こいつはもう用済みだ」

 すると男は、乱暴に埜寺を解放した。

 力任せに突き飛ばされ、埜寺は地面に勢いよく放り出された。

「ううっ!」

「京子さん!」

 埜寺は腕を打った程度で、命に別状はない。

 こうも簡単に人質を解放するとは、深編笠の男の目的は殺戮ではなさそうだ。もしくは人質を使わずとも、詩音に勝てると高を括っているのだろう。

 詩音は子ども達に目を移した。震える子ども達の中に剣斗の姿を確認できた。

 安堵して小太刀を抜き放ち、詩音は男を強襲した。しかし、疾風の如く放った斬撃は容易く躱されてしまった。だが狙い通り、深編笠の男を子ども達から遠ざけることに成功した。

「京子さん、子ども達を連れて奥へ避難してください! ただし、孤児院からは出ないでください。領内に殺し屋が現れ、どこにも安全な場所はありません!」

「わ、わかりました。詩音さん、どうかご無事で……」

 埜寺は子ども達を連れて、孤児院の奥へと消えた。

 荒士の動向を警戒していた詩音だったが、取り越し苦労だったようだ。

 男は子ども達に見向きもしなかった。目標はあくまで妖魄であり、初めから子ども達は標的を誘き出すための餌に過ぎなかったのだ。

「安心しなよ。拙僧の狙いはお前だ、妖魄。無垢な子どもを手に掛ける趣味はない。黒斬刃の弟は、お前さんの後を追わせてやるさ」

「わたしが生きている限り、剣斗君に手出しはさせません。くだらない講釈を垂れていないで掛かってきたらどうですか?」

 余裕を感じさせる詩音の態度だが、荒士が容易な相手ではないことを理解している。朱穂で出会った時に見せた荒士の技は、詩音の目には映らなかったのだ。

 大嵐荒士の居合の速度は、刃の剣速を凌駕している可能性がある。攻撃の起点となる殺意を感じ取ることができなければ、瞬きと同時に首が飛ばされていることだって有り得るのだ。刃との修行によって掴んだ微かな糸口を、ここで完全に昇華させなければならない。

 これから始まる死闘を前に、詩音の背中には冷たい汗が流れていた。

 目の前の凶手を打ち倒し、剣斗を無事に刃の元へと届けなければならない。それこそが、修羅狩りとして果たすべき責務だ。

 一方、荒士は腰の太刀の柄に上腕を預け、首を回して関節をポキポキと鳴らせている。荒士からは緊張や恐怖といった感情が一切感じられない。敗北する未来など欠片も想像していないことだろう。

「悍ましき修羅之子よ。ここで確実に殺す。己に流れる禍月の血を呪え」

「……何を言うのですか? わたしは禍月とは関係がありません」

「関係ないことはないさ。先祖返りの化物娘、その妖術で、どれだけの人間を手に掛けた? 修羅狩りごっこはいい加減よしてくれよ」

 荒士のしつこい悪罵に、詩音は目を剥いた。妖力を解き放つと、紫の妖気が詩音の身体から立ち上がっていく。

「……そう、その力だ。お前さんに混じる血の正体を教えてやる。音の禍月――《呪禍杣じゅかそま》。呪詛を撒き散らせ、目に入る者を見境なく手に掛ける恐怖の怪異。姿を見て生きていられた人間はいないらしいぜ?」

「……まるで、見てきたように言いますね」

 すると深編笠の男は嘘かまことか、とんでもないことを言い放った。

「拙僧は月輪の生まれだからな。向こうでは人間は奴隷も同然だ。だから拙僧も、禍月に魂を売る必要があった……」

「月輪の……生まれですって……!? 禍月が生存していると……?」

 驚愕する詩音に構わず、荒士は太刀の柄に手を掛けた。

 それを見て、すかさず詩音は最大限に警戒をする。

「これは、黒斬刃を殺すために仕入れた力だ。風の禍月――《蟷蝟断かまいたち》。拙僧に力を寄越せ――!」

「――!?」

 ――詩音は辺りを見回した。突然、音が消えたのだ。この世に完全なる無音は存在しないはずである。しかし何も聞こえない。建具の軋み、風の音、そして、自分の鼓動さえも。更に、詩音は強烈な眩暈に襲われていた。敵から視線を逸らさないよう、詩音は頭を抱えながら目線を水平に保った。

 しかし息ができない。これは一時的な真空状態。室内の空気が、荒士の身体へと集束していく。荒士の手元の空間が歪み、うっすらと暈けているのが見えた。

 視認できたわけではないが、詩音は荒士の抜刀を推測した。だが両者の距離は完全に間合いの外。荒士の斬撃が当たることはないだろう。しかし懸念が拭えない。殺意の込められた荒士の抜刀に、詩音は反射で身を翻した。

「うっ!」

 詩音の頬から一筋の血が流れた。違和感の正体を探るべく、詩音は周囲の状況を確認した。驚くべきことに、孤児院の壁や柱に鋭い切創が刻まれている。

 荒士の抜刀術は音を置き去りにしたのだ。躱さなければ、詩音の身体は両断されていたことだろう。

「まさか……斬ったのですか!? その場から動かずに!?」

 荒士の身体から緑の妖気が立ち上り、周囲で轟く風籟が大きくなっていった。

 殺気と共に荒士の妖力が増大し、建屋の壁や柱がミシミシと軋み始める。

「妖術……!? あなたは……」

「拙僧は妖魄じゃないぜ? 拙僧は妖憑。禍月と契約し、後天的に妖術を使える者のことさ。刀乃から聞かなかったか?」

「禍月と契約をしたのですか!? ど、どうして!?」

「お前ら修羅之子に抗うためさ。生身で勝てると自惚れるほど、拙僧は馬鹿じゃないぜ?」

 荒士は再び、太刀の柄に手を掛けた。迸る妖気は旋風を生み出し、まさに災害のようだ。荒士の溢れる妖力により、建物中の窓の硝子が砕け散っていた。

「拙僧の風についてこられるかい? 化物のお嬢さん」


    ◇


 大地は刀乃を圧倒していた。剣術では僅かにまさっていた刀乃だが、硬質化した大地の身体に傷を付けることができない。更に、地上は全て大地の領域である。大地は地表を自在に操り、戦闘を優位に進めていく。

 枯山水の微細な粒子で刀乃の目を晦ませ、岩の突起を次々に隆起させた。縦横無尽に繰り出される怒涛の連撃に、刀乃は為す術なく防戦を余儀なくされている。

 そして隙を見て腹を蹴飛ばし、大地は刀乃を大木に叩きつけた。

「俺様は刃と違って殺し屋には容赦しねぇからよ。早くくたばれよ」

「強い……修羅之子、やはり生身では勝てないな……」

 すると刀乃は負傷した身体を支え、ゆっくりと立ち上がった。

 刀乃の身体から赤の妖気が立ち上り、赫々たる炎に包まれていく。

「なんだ!? てめぇ、どうして……!?」

「これが禍月の力か。力が溢れてくる……」

 刀乃の太刀が高温を帯び、みるみる内に赤く染まっていく。あまりの熱量に背後の樹木へと延焼し、大木は見事な炎の花を咲かせていた。

「てめぇも妖術を使えるのかよ!? 妖憑ってやつか?」

 大地が刀乃に向かって巨岩を放り投げた。

 しかし、巨岩は豆腐のようにあっさりと断ち切られた。

「おいおい……そんなのありか? 妖力を排することが式目の真意だろう? 抹殺の対象である妖魄と、てめぇは一体どう違うっていうんだ?」

 刀乃は大地を黙殺し、妖力を上昇させていく。じりじりと地表を焦がし、勝利を確信するように燃える太刀を高々に掲げている。

「俺としても佐越の人民を護らなければならない。忌み子よ、抵抗はやめて手早く死んだらどうだ? お前が早々に死ねば佐越は救われるのだ」

 刀乃はおのが信念を曲げるつもりがない。しかし大地としても、佐越を護るためには刀乃を早々に亡き者にしなければならない。

 途轍もない熱量を誇る刀乃だが、大地に焦る様子はない。修羅狩りとして培ってきた多大なる戦闘経験が、大地の心を強固に繋ぎ留めている。

「幕府は何のために妖魄を滅ぼすと決めたんだ? 人民を護るためだろう? 本質を見失い、人命を蔑ろにするてめぇらに修羅狩りを名乗る資格はねぇ。それに、他者を人種で隔てて一切を排除しようとするてめぇらに、和平を築けるとは思えねぇな。悪いが申し出は却下だ。俺様は大人しく迫害される気は毛頭ねぇぜ!」

「……………………」

 大地の反駁に少しの反応を見せ、刀乃は逡巡したような表情をしていた。だがすぐに目線を戻して向き直り、暴れ狂う炎を大地に向かって撃ち放った。

 大地も負けじと妖力を解放し、爆ぜる炎の轟音を地鳴りで掻き消した。


    ◇


 嫋やかに舞う雫玖。やはり実力は類を見ない。滔々と放たれる水の形体は千差万別。流水の如く無限に形状を変え、捉えようがない。

 雫玖が手を翳すと、屋根の上の水が散弾銃のように降り注いだ。刃は脇差に黒の妖気を纏わせて、全ての水の弾丸を弾き落とした。

 続いて地表の水溜まりが暴走し、刃の心臓を目掛けて水柱が立ち上がった。朱穂の殺し屋の多くを瞬殺した水の波動。しかし、刃はいとも容易く躱してみせた。

 攻撃の隙を見計らい、次は刃が攻勢に出た。刃の放つ袈裟斬りを雫玖は太刀で弾き返す。そのまま刃は高速の連撃を繰り出し、雫玖に反撃のいとまを与えない。

 お互い大振りの一撃を放ち、その衝撃で一定の距離が空いた。

「雫玖、今どんな顔をしておる? その仮面を外せ。それは殺し屋の真似事か?」

「…………」

 雫玖は答えない。

「術のキレが落ちておるぞ? もう限界か?」

「…………」

 雫玖は応じず、黙って太刀を鞘に納めた。降参かと思った矢先に、雫玖から途轍もないほどの妖力が膨れ上がった。

 居合の構え。この技は城壁をも断ち切る――水流による防御不能の斬撃。

「……いいだろう。受けてやる」

 刃も脇差を鞘に納めて同様に構えた。極限まで集中し、刃は雫玖を見据えた。

 雫玖との距離は約四十尺程度。刃の脇差は雫玖の小太刀よりも短く、初太刀に全てを懸ける居合では圧倒的に不利だ。得物の長さを見越して標的まで近付く必要があり、判断の遅れが命取りとなる。抜刀術での勝敗は剣速だけで決するものではなく、適切な距離で抜刀を開始することが生死を分ける分水嶺となるのだ。

 樹木の枝から滴り落ちる水滴を皮切りに、二人は一斉に駆け出した。決着は一瞬であり、勝者は一人だ。失敗は許されない。

 刹那の勝負を制するために、互いに距離を牽制し合った。駆け引きの末、雫玖の小太刀が届く間合いにまで近接した。雫玖はまだ抜刀をしない。

 転瞬、刃の脇差が届く範囲まで距離が詰まった。両者――必殺の間合いである。

 もはや集中は極致に至り、脊髄反射で最速の攻撃を繰り出せる無我の境地だ。生死を分かつ緊張が張り詰める。遂に捉えた絶好の勝機。回避不能の射程圏内。

 刃は勝ちを確信した。剣速では僅かに刃がまさる。制するは先手必勝。

 ――抜刀。

 脇差の刀身が高速で鞘を辷り、刃の斬撃は雫玖の身体を斬り裂いた。

「――し、雫玖!?」

 なんと、雫玖は最後まで抜刀をしなかったのだ。

 雫玖は全身を血に染め、その場で力なく倒れた。



 竜虎相搏の戦いは、思わぬところで決着した。

「おい、雫玖! どうして……どうして、刀を抜かなかったのだ!?」

 刃は雫玖の顔を覆う狐の仮面を引き剥がすようにして外した。雫玖は満足したように安らかな表情をしており、目尻には涙が溢れている。

 雫玖は目に見えぬ闘志を犇々と漲らせ、いかにもな素振りで殺陣を演じていた。だが決着の瞬間、柄に手を掛ける雫玖の腕には力が込められていなかった。

 雫玖が抜刀をする気がなかったことは明らかであり、自ら刃の手に掛かり殺されようとしていたのだ。

「……私、まだ生きているの? 妖魄の身体って頑丈なのね。それとも手加減をしてくれたのかしら? ……刃ちゃん、安心して。士隆さんは生きているわ」

 刃は懐から巾着を取り出し、急いで雫玖の応急処置を始めた。

「刃ちゃん……もういいの。殺してよ。あなたに殺されたいの」

「黙れ! 勝手なことを言うな!」

 雫玖の受けた傷は酸鼻を極める。人体など両断されて然るべき斬撃を受けたのだ。雫玖の白皙の肌は小刻みに震え、一向に血が止まらない。

「刃ちゃん……聞いて……」

 刃が手当てに傾注している中、雫玖は虚ろな目で親友ともを見上げた。

「……私はあなたと同じ、妖魄の忌み子。私の両親は修羅狩りに殺された。鬼神の力を持つ修羅之子を監視し、討伐に寄与することで私は粛清を免れた……」

 刃の顔をじっと見詰めながら、雫玖は今にも消え入りそうな声で胸襟を開いた。

「……わしを殺すために、わしの情報を刀乃に流しておったと……?」

「ええ、そうよ。昔から悪い大人の相手をしてきたから、他人を欺く能力には長けていたわ。でも、刃ちゃんが相手では遣り甲斐がなかったわね。あなたは私を一切疑わなかった。それどころか、私の前で堂々と眠り込む始末。殺そうと思えば、正直いつでも殺せたわ。こんな純粋で屈託のない女の子を、大の大人が血眼になって殺そうと目論む様は可笑しかったわ……」

 雫玖は痛みに顔を顰めながら、堪え切れずに微笑を湛えている。

 莞爾として笑う雫玖を見て、刃は悔しそうに顔を背けた。他人に騙されるのはこれで何回目だろうか。雫玖を疑うなど、刃は一抹も考えたことがなかったのだ。

「私はどうしたいかがわからなくなっていた……。刃ちゃんを監視するのは命が惜しかったからだけれど、私は刃ちゃんを殺したくなかった……。自身の命より、あなたは大切な存在になっていたから……」

 雫玖は左手を差し出し、刃の頬を掌で覆った。雫玖の涙は止め処なく溢れてくる。刃もまた涙を流し、雫玖の頬に清冽な滴がポツポツと痕を残した。

「こんなに可愛い女の子なのに……戦いになると手に負えないのだから不思議よね……。こんな世じゃなければ、私達はずっと仲良くできたのかな……」

「やかましい! もうお主には騙されぬ!」

「うっ……!」

「し、雫玖! しっかりしろ!」

 雫玖は傷の痛みを感じ、我慢できずに喘いだ。

「私はもう助からないわ。このまま放っておいてよ……」

「……馬鹿者。わしが殺生を避けるために、どれだけの傷を治してきたと思っておる? 愚か者め、わしの前で死ねると思うな」

 刃は応急処置を済ませ、動けない雫玖の頬に口付けをした。雫玖の身体には包帯が巻かれ、血が完全に止まっている。なんとか致命線は回避できたようだ。

「……どうして助けるの? 私を許すというの?」

「何を言っておる? 許すも何も、わしは裏切られたとは思っておらぬ」

「え……?」

 刃は、いつもと変わらない笑顔を雫玖に向けた。謀反とも呼べる雫玖の行いを、刃は些事だと断じて笑い飛ばしていた。

「悪者どもを成敗した後、わしは士隆と共に日輪の再興を目指す。雫玖、お主の力が必要なのだ。目的を失ったというつもりなら、これからはわしのために生きろ。わしより先に逝くことは許さぬ」

 刃の言葉に呆れ、雫玖は手の甲を額に当てた。手では隠し切れないその表情は、いつも刃の隣にいた雫玖そのものであった。

「また信じてくれるのね……。こんなにも、嘘にまみれた醜い女を」

「……もうよい。これ以上、わしの親友を侮辱してくれるな。雫玖、お主はわしの心の支えだった。辛い時にいつも傍にいて、わしの心を癒してくれた。お主がいなければ、わしは挫けておったことだろう。わしをまた騙すつもりなら、次は墓場まで持っていけ。決して悟られるような失策ヘマをするな」

「刃ちゃんの甘さには敵わないわね……」

 刃は慈しむように、力強く雫玖を抱き締めた。


    ◇


 荒士の神速の居合が詩音に襲い掛かる。しかし意表を突くべく放たれた荒士の袈裟斬りを、詩音はいとも容易く躱してみせた。

 鼓動すら聞き分ける詩音の異常聴覚は、空を裂く風の刃を見切っていた。

「おっと……?」

 荒士はまるで酩酊したように、踏み込んだ足を滑らせて転倒した。

「これが音の妖術か、頭が痛ぇ……」

「わたしは手加減ができません。早く孤児院から出ていってください!」

「うるせぇな。この妖術でどれだけの命を奪ってきた? 元殺し屋が偉そうに」

「己の所業を正当化するつもりはありません。誹りは甘んじて受けましょう。わたしが咎人であることも否定しません。ですが、わたしには果たすべき役割があります。ここで殺されるつもりはありません!」

 荒士は頭を押さえながら立ち直り、詩音に向き直った。

 そして荒士は再び太刀に手を掛け、高速の連撃を次々に披露した。荒士は耳から血を流しながらも、衰えることのない暴威を振るっていた。

 あまりに激しい攻勢に、詩音は太刀での防御を試みたが凌ぎ切れなかった。

 風の妖気を纏った斬撃は、触れずとも身を切り裂くのだ。なんとか致命傷を避けたが、詩音の装束がじわじわと血で滲んでいく。

「はぁ……はぁ……」

「……なかなか倒れねぇな。戦いはこれからだぜ。逃げるなよ? お前を殺した後に、黒斬刃の弟を殺す。自称修羅狩り、拙僧から少年を護ってみせろ」

「自称……ですか。あなたにどう思われようが構いません。わたしは師匠から修羅狩りだと認められました。それで充分なのです。わたしは幕府とは関係がありませんし、起源など知ったことではありません」

 音の妖術を受けてきた荒士は、深編笠越しに頭を抱えて揺れている。

 徐々にではあるが、詩音の妖術が効いてきたようだ。

「師匠は……わたしにこの場を任せてくれたのです。あなたに勝てると信じてくれたのです。大切な弟さんの命を……このわたしに託してくれたのです!」

 刃の信頼は、怯懦な詩音に力を与えた。詩音は不撓の決意で、雄渾に荒士と渡り合っていた。決着の時は近い。詩音の身体から紫の妖気が立ち上がっていく。

 妖力の高まりは空間を支配し、荒士を幻覚へといざなった。背景が消し飛び、荒士の視界に映るのは詩音ただ一人。荒士はすかさず妖力を高めるが、思うように力が込められない。荒士の生み出す風は、発動と同時に音もなく消滅していく。

「ほう……拙僧の妖術を封じたのか? これが禍月の血……規格外だな。だが拙僧を倒すにはまだまだ足りないぜ?」

 詩音の放つ膨大な妖力を前にしても、荒士の表情を歪ませるには至らない。剣術の技量ではまさっていると、荒士は確信を持っていたのだ。

 余裕を感じさせる荒士の態度を見て、詩音は小太刀を鞘に納めた。荒士が得意とする土俵で打ち倒そうという、詩音なりの意趣返しだ。

 膝が地面に突く寸前まで腰を落とし、詩音は居合の構えを取った。師事している刃の型を見様見真似で模倣したのだ。この時点で既に勝ちを確信しており、荒士を見据える詩音の心は凪のように穏やかであった。

「……剣速で拙僧と張り合おうって?」

「ええ、残念ですが、もう遅いです。さようなら……」

 間合いの外であるにも拘わらず、詩音の構えには寸分の隙もない。

 ――抜刀。

 詩音は抑えていた殺意を零から百へと解き放った。

「なっ!!」

 研ぎ澄まされた音の振動は、不可視の斬撃となる。

 荒士は全身を斬り刻まれ、血飛沫を上げて倒れた。

「わたしは修羅狩り。何人たりとも、敗れるわけにはいかないのです」

 詩音は小太刀を鞘に納めた。抜刀の直前まで、荒士に殺意を気取られることはなかった。刃による薫陶が実を結び、実戦で活きた瞬間だった。

 すると、柄を握っていた手が痺れていることに気が付いた。掌を見ると血腫が潰れた痕がある。手の傷を眺めた後、詩音はグッと拳を握った。

「詩音さん!」

 奥の扉から死闘を見守っていた剣斗が走り寄ってきた。詩音の居場所まであと二尺のところで躓いた剣斗を、詩音は支えるようにギュッと抱き留めた。

「剣斗君、無事でよかった……」

 刃譲りの美しい黒髪を撫でた後、詩音は院長の埜寺に向き直った。

 緩めた口元を引き締め、修羅狩りとしての業務を再開した。

「佐越城は殺し屋の襲撃を受けており、ここも安全ではありません。京子さん、子ども達と共についてきてください。わたしが責任を持ってお護りします」

「詩音さん、ありがとうございます。……一体、どこへ向かうのですか?」

「天守です。そこで皆が戦っています。わたしは助勢をしなければなりません」

「わかりました。よろしくお願いします」

 不測の事態であるが、孤児院の子ども達は慌てずに従ってくれた。

 孤独を知る子ども達は、どうやら肝が据わっているようだ。


    ◇


 刀乃と大地の戦場に、刃は急いで馳せ参じた。

 戦場を見渡すと、大地は刀乃の炎術に攻め倦んでいるようだった。

「苦戦しておるようだのう、大地。助太刀が必要か?」

「要らねぇ。どっかいけよ。邪魔すんな」

「強がりおって……。お主が領地を護りながら戦っておることは知っておる。くたばる前に休んでおれ」

 佐越の境界には現在、高い岩壁がそそり立っている。混乱に乗じて佐越を攻めてきた殺し屋を、大地が遠隔で堰き止めていたのだ。侵入者への警戒をしながら刀乃を相手にすることは、相当に精神を擦り減らす作業であったことだろう。

 刃に知られていたことに一度は驚いた表情を見せたが、大地は綻ぶ顔を隠すように顔を背けて呟いた。

「……知っているなら、さっさと手伝え」

「素直じゃないのう……。まぁここは任せろ。わし一人で充分だ。それに、佐越の修羅狩りはお主だ。暴れる殺し屋どもに天罰を与えてやれ」

「……わかった。お前も死ぬなよ」

「心配無用だ。さっさと行け」

 大地は刃の到着に安堵し、領内で暴れる者どもの始末に急行した。大地の残虐性を知らぬ者はいない。解放されたと知れば、誰もが白旗を揚げることだろう。

 去っていく大地に向けて、追いかけるように刀乃から火球が放たれる。その煌々と輝く炎術は、まるで朱穂の紅蓮が使っていた技を彷彿とさせた。

 すぐさま刃が間に入り、黒の妖気で火球を消し飛ばした。

「ほう、どこかで見た妖術だな……。刀乃、お主は今、妖術を扱えるのだな。それが妖憑とかいうやつなのか? その力は修羅之子とどう違うのだ?」

「………………」

 刃の糾問に刀乃は俯き、黙りこくってしまった。少しばかり呼吸を乱し、かぶりを振り、握った拳の爪を皮膚に食い込ませている。

 当初の威勢はどこへやら、魂が抜けたように放心している。負の感情に支配されていることは確かだが、その心境を推し量ることができない。

「……今となっては同じなのかもしれないな……幕府を滅亡に追い込んだ力、それを我が身に宿そうとは……なんと因果なことか……」

「…………?」

 刀乃は刃の問いを否定することなく、不思議なことを言い残して再び炎の太刀を振り翳してきた。自暴自棄になっているようにも見える。

 黒の妖気を纏った刃の脇差は、岩をも溶かす炎の太刀を物ともしなかった。あっさりと刀身で受け止め、刃は刀乃の豪剣を押し返した。

「馬鹿の一つ覚えに炎を撒き散らせるだけか? お主、芸がないのう。そんなお遊びでわしに勝てるとでも思ったのか? それに、わしの妖術は敵方の妖力を無効化するものだ。お主の妖術なぞ取るに足らん。それとも借り物の力を捨てて、わしと剣術のみで張り合ってみたらどうだ? 腕には覚えがあるのだろう?」

 刃の舌鋒を聞いて、刀乃は何かに気付かされたようにハッとしている。妖魄への憎悪に飲み込まれていた刀乃が、高揚したように口角を吊り上げている。

「面白い……俺も剣術では負ける気がしない。その誘いに乗ってやろう」

 意外なことに、刀乃は刃の挑発に乗った。薄れかけていた気勢が蘇り、刀乃は太刀をグッと握り締めた。

 大上段の構え。妖力に頼ることをやめた刀乃は、構えが大きく異なっている。一刀の威力を重視し、戦国時代より最強とされてきた流派――《扇流おうぎりゅう》。

 修羅狩り――太刀川刀乃。少しばかり剣を交えただけだが、刃はその底知れぬ強さを感じさせられた。神都幕府が誇る最高戦力であり、日輪を武力で掌握したその力は本物だ。殺し屋では、どうしてもこの領域までは辿り着けない。

 幕府最強の剣客が身に纏うのは、純粋な剣気。妖力をかなぐり捨てたことで、眠れる龍を呼び覚ましてしまったようだ。先ほどまでと気迫がまるで違う。

 修羅狩りにとって、契約は命より重いものである。力なき者の盾として、如何なる犠牲をも厭わず責務を全うしなければならない。修羅狩りは完全無欠であり、誰よりも強く、畏れを纏う者でなければならない。

 敗北は絶対に許されない。たとえ相手が修羅狩りであろうとも。

 構える修羅狩り、そして、その前に立つのもまた修羅狩りである。

 最強を名乗る達人が二名。戦場に巻き起こる矛盾。互いが勝利を微塵も疑わず、難敵を処理すべく睨み合っている。

「神都幕府特務機関、修羅狩り筆頭――太刀川刀乃、いざ参る!」

 刀乃は名乗りと共に、刃に向かって太刀を振り下ろした。

 流石は扇流、見事な剣閃だ。振り下ろされた初太刀は、二の太刀への布石となっている。斬撃が扇のように弧を描き、振るう毎に威力を増していく。流れるような斬撃の舞に隙はなく、間合いに入る者を容赦なく両断する。

 だが刃は、落ち着いて刀乃の斬撃を受け切っている。相手が誰であろうと、やるべきことは変わらない。まずは攻撃を見切り、敵の技を知ることだ。

 流派を持つことは、強くなるための近道である。だが修羅狩りの水準まで強さを極めると、流派の型が足枷となる場合もある。決められた動きは読まれやすく、不測の事態への対応が遅れてしまうのだ。人間との戦いを想定したものが流派の基本であり、妖怪などの異形には梃子摺ってしまうことも不利な点だ。

 刃は流派を持たない。父から扇流を教わったことがあるが、すぐに断念した。扇流は大上段の構えを基本としており、小柄な刃には合わなかったからだ。

 あらゆる流派を取り入れて、刃が独自で編み出した自己流剣術。故に型なし。否、無数の型があるといっていいだろう。特筆すべきは凌ぎの技術だ。ありとあらゆる流派から防御の技法を取り入れており、敵の戦型に合わせて技を繰り出すのだ。これに洞察眼が加わり、どんな豪剣であろうとも彼女の前では無力となる。

 だが、戦いに時間を掛けてはいられない。こうしている間にも佐越で殺し屋は暴れており、士隆の安否も確かではないのだ。

 命を大切にするが故に、殺し屋にさえ情けをかけてしまうという彼辺此辺あべこべ

 だが修羅狩りには、引き金を引くことを躊躇ってはならない場面がある。今こそ殻を破り、己の弱さを断ち切る時だ。立ち開かる者を早々に排除し、修羅狩りとして事を為さなければならない。

「危急を要する故、悪いが容赦はせぬ。わしには護らねばならぬ者がいるのだ」

 刃は威嚇のために殺意をぶつけたが、刀乃は依然として闘気を緩めない。

「黙れ小娘。その程度で俺の斬撃を凌げると思い上がるな。幾多の戦場を経験し、三十年間欠かさずに研ぎ続けた扇流の神髄。お前の知る戦いとは、次元の違う闘争を見せてやろう!」

 刀乃は死ぬまで戦いをやめないことだろう。幕府によって刻み込まれた使命が、呪いのように刀乃を縛り付けている。この魔物を鎮めるには、死しか道はない。

 刀乃は恵まれた体躯を遺憾なく発揮し、縦横無尽に太刀を振り回している。闇雲に暴れているようにも見えるが、これも扇流の技の一つだ。全ての動きが緻密に計算されており、安易に手を出すことは大きな危険を伴う。

 だが刃には見えている。どんな攻撃にも存在する、曇りのない一点の隙。刀乃の剣技を前にしても、刃の持つ勝利への確信は揺るがない。

 荒れ狂う刀乃の斬撃を躱し、刃は擦れ違い様に脇差を振るった。

「ぐっ!」

 刀乃の斬撃が空を切った。それと同時に、刀乃の左腿から鮮血が弾けた。

「扇流、破れたり。期間はお主に及ばぬが、剣を手にしてから十三年間欠かさずに研ぎ続けた斬撃の境地。お主ではわしの動きを捉えられまい」

「くそっ! まだだ!」

 再び刀乃は太刀を振るったが、刃には当たらなかった。続いて刀乃の右腿に傷が入り、血が溢れ出す。刀乃が何度太刀を振り下ろそうとも、刃には一向に当たらない。斬撃が空を切る度に、刃は刀乃の下肢に斬撃を加えていった。

 刀乃の実力を以てしても、流水の如き刃の足運びを捉えることができない。禍月の力を借りることなく、刃は人間の届く領域を遥かに凌駕している。

 意地を見せた刀乃だったが、とうとう膝を突いた。膝は笑い、がくがくと痙攣している。刀乃は愕然として目を剥き、立ち開かる刃を見上げた。

「ど、どうして……! どうして当たらない……?」

 このまま刀乃の首を飛ばすことは造作もない。だがそれではあまりにも不憫なため、刃は呆れながらも刀乃の疑問に答えた。

「心の強さが全てを凌駕する。心こそが修羅狩りが最強たる所以なのだと、わしは父上から教わった。わしは心を失った輩には、何度やっても負ける気がせん」

 刃の答えに、刀乃は苛立ちを露わにした。

「心の強さ……だと? 何を馬鹿げたことを……。俺は幕府の武力を牽引し、数々の敵と戦ってきた! 剣客も忍も妖怪も、修羅狩りの威信に懸けて葬ってきた! 俺とお前、一体何が違うと言うのだ!?」

「やれやれ、そんなこともわからぬまで盲信していたようだのう。筋力はお主が上、剣術は互角……いや、ちょっとわしが上か……? つまり決するのは心――すなわち覚悟の差だ。殺し屋では修羅狩りに勝てない。既にお主は殺し屋と変わらぬところまで堕ちておる。そんな腐った心持ちでは、わしを斃すことはできぬ」

 流派が違えど、剣術の行き着く先は同じである。威力、手数、間合い取り。より効率的に攻撃を相手へ届けるために、改良を重ねて日々工夫を凝らしている。

 しかし刃と刀乃、両者には技量では埋められない差が存在する。武術に於ける『心・技・体』。これはまやかしでも何でもなく、勝負を決する重要な要素である。心と身体は対を為し、確固たる信念を以て修羅狩りの強さは完成をみる。近しい技量を持とうとも、この戦場は乱れた心で抗えるほど甘くない。

 刃の言葉は、刀乃の信念を真っ向から否定するものだ。

 想定通り刀乃は激昂し、刃に向かって声を荒らげた。

「俺が殺し屋だと? 幕府が望む修羅狩りの大義も知らずに何を言う! 妖魄を滅さねば泰平の世は訪れんのだ!」

 怒り狂う男の主張に耳を貸さず、刃は膝を突く刀乃の胸倉をグイと掴んだ。巨躯が浮き上がるほどに力を込め、刃は刀乃を見据えた。

「今は亡き幕府の亡霊ども。お主の覚悟の重さは理解したが、人民を蔑ろにした者の覚悟など脆く崩れ去るのみだ。お主ら幕府の修羅狩りが見て見ぬふりを決め込んでいる間に、どれほどの犠牲があったと思っておる? 大地が言っていた通り、既にわしらにとってお主は殺し屋と変わらんのだ。お主のやっておることは万人の死に直結する。大義なんて言葉で罪悪感を誤魔化すな! 幕府に縛られず、自分の頭で考えてみたらどうだ! 目を向けるべきは民であろう!」

「…………!」

 刀乃は刃の言葉に崩れ落ち、額と上腕を地につけた。言葉にならない嗚咽を漏らし、ガタガタと戦慄している。

 幕府の時代、刀乃は優秀な修羅狩りであったことだろう。高い実力に加え、信念を貫き通す意志。それはなかなか身に付けられるものではない。

 当初刀乃は、刃達をすぐには殺さなかった。処刑が確定した者であるにも拘わらず使命を説き、刃達を納得させようとしていた。

 全てを懸けて果たそうと奮起しているという点では、刃に近しいほど刀乃の信念は強固なものであった。優先順位さえ間違えなければ、刀乃は現代でも立派な修羅狩りとなっていたことは間違いない。

 まだ抵抗するというのなら、この場で刀乃を処刑せざるを得ない。しかし、一抹でも改心の余地があるのであれば生かしておくべきだ。人間の生死などという倫理観の問題ではなく、単純に実力者である刀乃が惜しい。

 刃は相手が殺し屋であろうとも、修羅狩りへの道を用意している。そうして大地や詩音は修羅狩りとなり、和平に大きく貢献することとなったのだ。刀乃が幕府への盲信をやめた時、道を正せる可能性は充分にある。

 額を地につけたまま動かない刀乃に向かって、刃は脇差の鋒鋩を突き付けた。

「わしの強さの源は、禍月に血に非ず。これでもまだ、修羅之子とやらを差別するのか? それとも、まだ懲りずにわしの前に立つのか?」

 刃は刀乃の本心に迫った。刀乃がこうして地に伏せているということは、己の信念に迷いが生じている証拠だ。脳内では幕府の指令と人民の保護、二つの狭間で大きく揺れ動いていることだろう。

 すると、刀乃は動かない脚を太刀で支えて立ち上がった。

「……認めよう。禍月の血ではなく、お前自身に敗北したことを……」

 刀乃は敗北を認めて、悄然と目を伏せている。もう戦意はないようだ。

 だが刃の実力を認めたことで、刀乃は信じてきたものが覆されてしまった。

 妖力が厄介な異能であることに変わりはないが、目の前の少女は妖力に頼らずとも刀乃を打ち負かしたのだ。それに、刀乃自身も妖力を使うことで剣技の幅が狭まり、実力が落ちていたことを刃に気付かされてしまった。

 結局のところ、妖力は使い手の実力や鍛錬に依存する代物なのだ。妖力を持つ者を誰彼構わず処理してきた幕府の意向は、完全に間違っていたと言わざるを得ない。

「では、俺は一体何のために戦ってきたのだ……。何のために禍月の血を絶ってきたのだ……。俺という存在は……一体何なのだ……」

 生き甲斐となっていた信念の誤りを知り、刀乃は悔悟の念をボソボソと呟いている。刃を認めつつも、なかなか頭の整理のつかないようだ。

 ぼやく刀乃に向かって、刃は己の考えをぶつけた。

「かつての起源は存ぜぬ。だがわしら現代の修羅狩りは、殺し屋による殺戮の螺旋を断ち切るために戦っておる。わしらが信用できぬか? 妖魄が人間と共存する道はないか? 和平を求めるのは同じであろう?」

「………………」

 刀乃は黙っている。己の過ちを認めつつも、まだ一歩を踏み出せない様子だ。

 その様子を見て、刃は刀乃の肩を掴んだ。そして、揺れ動く刀乃の心に強く訴え掛けた。刃の主張は、幕府が元来から掲げてきた理念と一致しているはずなのだ。

「刀乃よ、何を恐れる? 己の理解の外にあるものがそんなにも怖いのか? わしと契約してくれた領主は、殺し屋の脅威から身を護るために信用して傍に置いてくれたのだ。わしはその信頼に応えるべく身命を賭して尽くした。お主らが危険だと断じる存在は、和平を望んでおる。もし妖憑が人間を脅かした時には、わしらが責任を持って対処に当たる。それでよいのではないか?」

「………………」

 刀乃はふっと息を吐き、糸が切れた木偶のように脱力してその場に座り込んだ。

「黒斬刃、俺の負けだ。君と対話を試みなかったのは、何と愚かなことか……。真の修羅狩りは君だ。俺がしたかったことを、君は続けてきたのだな……」

 刀乃は天を見上げている。踏ん切りがついたのか、清々しい表情だ。



 ひとまず首謀者の無力化に成功した。これ以上意地を張り続けるなら殺生もやむなしであったが、命を奪うことなく刀乃を抑えることができた。

 思い掛けないほどに上々の戦果だが、刃の目的はまだ果たされていない。

「刀乃、士隆はどこにいる? 今すぐに解放しろ」

「……ああ、わかっている。そう急がずとも領主は生きている」

「お、やはりそうか! それを聞いて安心した! 雫玖からも士隆の無事は聞いていたが、嘘だった場合はどうしたものかと不安になっていたところだ。お主はまだやり直せそうだのう!」

「………………!」

 最悪の事態を想定していた刃は、肩の荷が下りたように顔を緩ませている。

 刃に背中をバシッと叩かれた刀乃は、一瞬だが顔を引き攣らせていた。音が鳴るほどの強さで放たれた刃の張り手に、ヒリヒリと痛む背中を擦っている。

 先ほどまで殺し合いを興じてきた相手だとは思えない態度に、刀乃は困惑していた。この少女が懸けてきた思いを感じ取り、おのが所業を悔やんだ。

 士隆の無事に安堵した後、刃は辺り一帯の様子を窺った。

 佐越を襲った脅威は刀乃だけではない。潜んでいた朱穂の殺し屋が姿を現し、佐越を乗っ取ろうと画策しているのだ。これから佐越の解放に急ぐべきだが、周囲からは戦いの音が聞こえなかった。既に戦火は消火されており、佐越の医療機関も機能を取り戻したようだ。領民が力を合わせて怪我人を運ぶ様子が見て取れる。

 大地が自由になったことで、潜入していた殺し屋は潰走したのだろう。もしくは大地に皆殺しにされたか。いずれにしても、佐越の暴動は治まっている。

 孤児院の方角から刃を呼ぶように発せられていた殺意の波動も、刀乃との戦いを前にして消え失せていた。詩音は剣斗を狙う輩の討伐に成功したのだ。

 全ての問題が解決したところで、刃は改めて刀乃へ疑問をぶつけた。

「刀乃、聞かせろ。お主の扱う炎術。それは朱穂の長――紅蓮が使っていた妖術だ。一体どういう絡繰りだ? どうしてお主が使っておるのだ?」

「………………」

 戦闘中の会話から推察するに、刀乃にとって妖力の獲得が不本意であることは間違いない。案の定、刃の質問に刀乃は表情を歪めている。

 だがこれは、日輪にとって重要な事柄だ。妖魄であるという刃にとっても他人事ではない。自身の出自についてでさえ今日こんにちに聞かされたばかりであり、刃は妖力について何も知らないのだ。

 刃は修羅狩りとして知っておかなければならない。どうして刀乃に妖力が宿ったのか、己と紅蓮は何が違うのか。妖憑はどうして生まれるのか――。

 刀乃は絶望したように間を置いてから、呼吸を整えて返答をした。

「これは……俺も誤算だった……。紅蓮とやらは妖憑だったようだ。紅蓮を殺したことにより、奴に宿っていた禍月の思念体は宿主に変えた。なんという無念……。禍月は近くにいた俺を宿主に選んだようだ……」

「宿主を……変えた?」

 妖憑とは、禍月との契約により妖力を得た人間を指している。刃が神都の動乱で出逢った天禰あまねや、朱穂の頭領だった紅蓮がこれに該当する。

 この契約と呼ばれる妖力の授与は禍月にのみ可能な御業であり、対象は人間のみに限られている。妖怪などのたぐいはその限りではない。

 禍月の居所は定かではないが、実際にこうして妖憑が存在している事実がある。何かしらの方法で紅蓮は禍月に接触し、契約に至ったということだろう。

 ここからは刀乃でさえ知らなかった情報だ。妖憑には禍月の思念体が宿っており、契約者の死によって他者に乗り移る性質があるという。それも当人の許諾なく、強制的に。紅蓮の死により、禍月の思念体が刀乃に乗り移ってしまった。つまり刀乃はあの時、予期せず妖憑となってしまったのだ。

 この事象を発見し、刀乃は酷く落胆していた。これでは妖力の根絶を掲げた式目の目的は永遠に達せられない。どれだけ妖憑を葬ろうとも、その全体数が変わることはないのだ。それどころか禍月が更に契約者を増やせば、日輪中が妖憑で覆い尽くされてしまうことだろう。これにより妖憑は、第一の目的であった妖魄以上に厄介な存在となった。この世界から妖憑を完全に取り除くには、どこにいるやも知れない禍月を直接葬るしか道は残されていないのだ。

「人民が安心して暮らせるように、禍月の血が日輪に紛れてはならなかった……。妖力に侵されるわけにはいかないのだ……」

 刀乃は拳を握り、打ち震えていた。忌み嫌っていた存在に自身がなってしまったのだ。刀乃の失望の深さは、底の見えない奈落であることだろう。

 失意の刀乃から発せられた言葉は、またしても突飛な内容だった。

「……とはいえ、俺の犯した罪咎は消えない。黒斬刃、俺を殺せ。これで此度の動乱の幕を引く」

「…………は?」

「これも式目で定められていたことだ。俺は目的に執着するあまり、民を巻き込んでしまった……。その罪は死を以て償わなければならない。復讐の連鎖を、今ここで断ち切らなければならない。狂った歯車は二度と戻らないのだ……」

 突然何を言い出すのかと思えば、刀乃はまだ幕府の決めた式目に囚われている。己の過ちを清算するべく、真摯に処刑を受ける気だ。

 刀乃は刃の前で正座をすると、死を受け入れて目を閉じている。有無を言わさぬ刀乃の豪胆さには呆れたが、刃は望み通りに脇差を再び抜いた。

「……わかった。疾く終わらせてやる。刀乃、最期に聞かせろ。わしの父上は……今際の際に何か言っておったか?」

 刃の質問に刀乃は薄っすらと瞳を開き、記憶を辿りながら訥々と答えた。

「……剣衝が謀反を働いた目的は、妻子の仇を討つため……それから、生き残ったお前と息子を護るためだ。剣衝は……残された子ども達の末路を嘆いて死んでいったよ……」

 刀乃の返答を聞き、刃は装束の襟をギュッと握った。

「……そうか。仔細を承知した。日輪を地獄に陥れた張本人であろうと、わしにとって父上は大切な人なのだ……」

 刃は静かに目を閉じて黙祷し、肉親のことを思い出していた。

 父は強くて真面目な人だった。寝る間を惜しんで職務をこなすほど、仕事に熱中していた。帰りが遅くなって、よく父が母に怒られていたことを覚えている。それでも、休日には朝から晩まで刃と遊んでくれた。剣の修行にも付き合ってくれた。他者のためなら力を惜しまない逞しい人だった。

 母はお淑やかで優しく、いつも笑顔だった。父にだけ厳しい態度を取るので、その相違には驚かされたことがある。母の作る料理が美味しく、食事の時間が楽しみだった。母にどれだけ料理を教わろうとも、刃はその技術を一向に習得できなかった。唯一作れる冷や蕎麦を刃が大量に作ってしまい、家族の食卓に蕎麦が続けて並んだことがある。何をしても母は怒らず、笑って刃を撫でていた。

 兄の剣諒は刃の目標だった。父から授かった剣術は一流で、将来は修羅狩りになると兄は意気込んでいた。刃も兄と共に剣の道に進み、幕府に仕えることを夢見ていた。面倒見がよく、ずっとついてくる刃を兄は優しく迎えてくれた。

 皆が家族想いであった。こうして自身の成長した姿を見せられないことが残念でならない。だが家族を崩壊させる切っ掛けを作ったのは、紛れもなく刃自身なのだ。剣斗が生まれた時に刃が誤って妖術を発動させなければ、一族の血は充分に隠し通せたことだろう。

 結果論だが、現在まで幕府が健在であれば、黒斬一家は安泰であった可能性が高い。妖魄であることを公開しつつ幕府を護る意志を示せば、皇たる劉円も納得していたことだろう。それに納得せずとも、刃や大地を処刑したり、腕尽くで従わせることなどできやしない。妖力について教示することや、式目を力尽くで変えることなど、他に幾らでも遣り様はあったといえるだろう。

 父が幕府を滅ぼしたと聞いて初めは驚いたが、剣衝は気が触れて暴れ出したのではない。目的は殺戮ではなく、肉親の保護と仇討ちだったのだ。

 日輪の均衡を保っていた幕府を滅亡に追い込んだことは、到底許されることではない。倒幕によって世界は散逸し、結果として殺し屋が蔓延る地獄へと堕ちてしまったのだから。

 しかし、幕府が完全に正しかったのかというとそうではない。妖魄を得体の知れない化物であると断じ、存在を抹消してきたことは事実だ。

 父が幕府を倒さなければ、刃も剣斗もこうして生き長らえてはいないのだ。それに、妻子を殺されて平然としていられる者はいない。刃が同じ立場であったとしても、父と同様のことをしただろう。

 刀乃は正座の姿勢で背筋を伸ばし、刃の断罪を待っている。家族のことを思い返していたお陰で、刃は目の前で待つ男の存在を忘れかけていた。

 刃はおもむろに手を差し出し、刀乃の無防備な額に向かって勢いよく指を弾いた。

「――痛っ!」

 思い掛けず額に痛みを感じ、刀乃は少し間の抜けた声を発した。

「殺せだと? 馬鹿を言うな。わしに殺し屋にでもなれというのか? 死にたければ勝手に死ね。現在この国に式目は存在しない。つまり、正当にお主を裁くことはできないのだ。今回は、わしの勝手な正義感でお主を止めさせてもらっただけのことだ」

「黒斬刃……お前……」

 刀乃の額が赤く腫れ上がっていく。刀乃は状況が飲み込めず、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で打たれた額を押さえている。

「それに、日輪の問題は何も解決していない。お主のその力を失うことは、日輪にとって大損害だ。あれだけ無茶苦茶に暴れておいて、修羅狩りの責務から逃げるでない。死などという無責任な現実逃避はよすのだ。刀乃、力を貸せ。もう幕府は存在しない。もうお主を縛るものは何もないはずだ」

 たとえ命を狙われようとも、刃には恨み辛みはない。あるのは日輪に和平を齎す悲願のみ。そのためであれば、刃は過去の悪行にも目を瞑る。これは、式目が存在していない現在だからこそ可能なことだ。手段を選んではいられない。

 刃の寛大な心に、刀乃は目を伏せて涙を流していた。だが返ってきた答えは、刃の命令に近い提案を素直に受け入れるものではなかった。

「黒斬刃、有難き申し出、痛み入る。だが、俺の処遇を決めるのは領主だ。神代士隆の決定に、俺は従う」

「そうか……まぁ、答えはどうせ変わらぬよ。詩音と大地も大概だが、お主の頭の固さは修羅狩り随一だのう……」



 刀乃の説得が終わり、刃はゆっくりと息を吐いた。

 士隆の確保、捕縛した殺し屋の始末、そして、佐越の復興。やるべきことは山ほど残っているが、く任務はない。日輪の復興に先立って、まずは佐越を元の状態に戻すことだ。後は集まった修羅狩りの力を合わせて、順に事を為すのみ。

 今回共闘したお陰で、大地とも上手くやっていけそうな気がする。であれば各国を回るのではなく、共に佐越を天下に導くのも良策であるといえるだろう。

「うっ――!」

 刃が今後の展望について考えていると、刀乃が唐突に呻きを上げた。苦悶の表情と共に胸を押さえて膝を突き、身体を抱き締めて悶絶している。

 刀乃が苦しむ様子は、刃との戦いで負った傷が開いたようには見えない。

「刀乃、どうしたのだ!?」

 すると、思い掛けないことが起こった。

 苦しむ刀乃の胸部から炎が上がると、その炎は身体から分離して天高く舞い上がった。炎は意志を持つように地上に舞い降り、人の形を形成した。

 実体のない炎の魔人は輝きを増し、周囲を焦熱地獄に陥れている。ぐんぐんと気温が上がっていく。中庭の草木は燃え尽き、各所で火柱が上がった。

 刀乃の身体から抜け出た不思議な炎は、爆発的な妖力を帯びている。

「あの殺し屋……奴は死に際に、とんでもない爆弾を残して逝きやがった!」

「刀乃、何を言っておる!? さっさと逃げろ、馬鹿!」

 刃は刀乃を逃がすべく、装束の襟を掴んで背後に放り投げた。

 溢れ出る妖気に気圧され、刃は炎の魔人から目を離せなかった。

「……お主、何者だ?」

 刃が尋ねると、燃え盛る魔人はゆっくりと振り返った。黒く色が変わっている箇所が目だろうか。姿形は人間のように四肢がある。

 今までに感じたことのない妖気を放ち、今にも爆発しそうである。

「我は炎の禍月――《燬坐魔ひざま》。人間、気安く話し掛けるな」

 この世のものとは思えないほどに、籠った声が刃に浴びせられる

 その声は聞くだけで脳を刺激し、無意識に恐怖を感じさせられた。

「禍月……? お主、禍月と言ったのか!?」

 燬坐魔と名乗る者が手を翳すと、刃に向けて火球が放たれた。

 黒の妖気で掻き消そうと考えた刃だったが、その炎術は刀乃のものとは規模が大きく異なっている。刃は相殺しきれず吹き飛ばされ、城壁に叩き付けられた。

「ぐっ、なんという威力だ……」

 刀乃は燬坐魔の威容を見て戦慄し、立ち上がれないでいた。見覚えがあるかのように対象を指し、恐怖でガタガタと足を震わせている。

「黒斬刃、逃げろ! こいつは禍月だ! 勝てる相手ではない!」

 刀乃は恐れを振り絞って叫んでいた。

 刃は忠告を受け取ったが、退却の選択肢がないことは論を俟たない。

「逃げてどうする。こ奴が止めることが、修羅狩りとして成すべきことであろう!」

 砕けた城壁の石をどかし、刃は毅然として立ち上がった。

 するといつの間に動いたのか、燬坐魔は眼前にまで迫っていた。

「――――!」

 刃は驚動し、その場から動けないでいた。

 燬坐魔は、刃の姿を嘗め回すように見ている。

「その力……阿修羅の倅か? 日輪にも妖魄が生き残っていたとはな」

 会話を求められたことに驚いたが、刃は質問に対して真摯に返答した。

「先祖のことはよく知らぬ。わしの両親は人間だ」

 質問をしておいて興味がないのか、燬坐魔は茫然と立ったまま辺りを見渡している。刃のことなど、まるで視界にすら入っていないようだ。

「クク……冥崖山脈を越えられたか、ここは空気が澄んでいる」

 燬坐魔は澄んだ空気を楽しむように、数回に渡って大きく深呼吸をしていた。

 状況から察するに、禍月の思念体は妖憑から自由に抜け出せるということになる。となれば日輪の支配など造作もないはずだが、禍月による事件が起こったなどという話を聞いたことがない。それに、そういった動きがあれば鳩鷹が真っ先に通知してくるはずだ。どうして現れたのが今なのか、燬坐魔の目的が見えない。

「燬坐魔――といったか? お主、何をしにここへ来た?」

「無論、ここを我の領地として、全てをいただくまでだ!」

「――――!」

 燬坐魔は即座に返答し、拳を地表に突き付けた。すると燃えるような轟音と共に、激しい地鳴りが巻き起こった。地面からは火柱が立ち上がっていく。

 殺し屋にとって修羅狩りは災害だという比喩は有名な認識だ。だが禍月は正真正銘、災害そのものであるようだ。その暴威は妖術の範疇を大きく逸脱している。

 地の震えに逆らえず、刃は地面に蹲っていた。

 すると動けない刃に向かって、集束した火柱が襲い掛かった。

「――――!」

 危難な状況であったが、刃の目の前に岩壁が立ち上がり熱線を防いでいた。

 刃が背後に視線を移すと、土塀の瓦の上に大地が座っている。

「危ないところだったなぁ、刃。助太刀が必要か?」

 仲間の登場に、刃はホッと胸を撫で下ろした。実際に大地による加勢がなければ、刃は無事ではいられなかったことだろう。

「要らぬ。どこかへ行っておれ」

「相変わらずムカつく態度で安心したぜ。俺様が力になってやる」

 大地は土塀から降り立ち、刃の隣に並んだ。いつの間にか地鳴りは治まっている。大地の妖術により、地殻変動を止めたのだ。

「……大地、領地の状況は?」

「殺し屋は全員、城の地下牢にぶち込んでおいたぜ。後でゆっくり素性を吐かせてやる。士隆の無事も確認済みだから安心しな」

「そうか、よくやった。後はこいつを仕留めれば仕舞だ」

 刃と大地は肩を並べ、燃え盛る禍月に相対した。

 すると、屋根の瓦を踏む音が聞こえてくる。音の方角に目を向けると、茶髪の少女が颯爽と駆けている。そのまま詩音は土塀を越え、刃の前に着地した。

「師匠、お待たせしました! 孤児院の子ども達は佐越の兵に引き渡しました! 剣斗君を含め、皆が無事です!」

「ありがとう、詩音。お主ならできると信じていた!」

 禍月を視線に入れつつ、刃は詩音と拳を弾いた。

 詩音は即座に表情を変え、炎の魔人を見定めた。

「あれは、何でしょうか……?」

「禍月の思念体だ。実体がない故、恐らくだが妖気の通わない斬撃は効かぬ」

 敵の正体を知り、大地と詩音は眦を決していた。

 無理もない。禍月とは自身が虐げられてきた元凶であり、かつての日輪で暴虐の限りを尽くしてきた伝説ともいえる存在なのだから。

「禍月……だと? 実在していたのか……。でもどうすればいいんだよ。俺様とチビッ子の妖術では、恐らく致命傷にはならないぜ?」

「師匠……」

 得体の知れないものを相手にするのは不安であることだろう。己が修羅狩りでもなければ、一刻も早く逃げ出すべき場面なのだ。

 だが刃には、ある構想があった。燬坐魔は「気安く話し掛けるな」などと人間を突き放しておいて、刃の妖術には興味を示していた。先祖の一人であろう阿修羅についても言及し、懐かしそうにしていた。

 妖術を無に帰す鬼神の力。妖力の塊である禍月に対して、一体どれほどの効果があるのかは定かではない。だが試す価値はある。

 刃は黒の妖気を纏い、燬坐魔に向き合った。

「禍月……言うなれば妖怪の類だろう。ならば、わしの出番かのう。詩音、大地、隙を作ってくれ。わしの妖術で奴を消し去ってやる」



 暴れ狂う燬坐魔は太陽の如き熱量を発し、接近は困難を極めていた。百戦錬磨である修羅狩りでさえも、ここまで慎重を期す戦いは初めてであった。

 大地の妖術――地殻操作は攻撃範囲が広く、陽動には最適であった。地表は隆起と沈降を繰り返し、燬坐魔の意識を撹乱させている。

 刃は俊足で燬坐魔の周りを駆け回り、攻撃の機会を窺った。

「……これが禍月か。なんて圧力だ!」

「大地さん、離れてください! 広範囲の火柱が来ます!」

「助かるぜ! 少しは役に立つものだなぁ、チビッ子!」

 燬坐魔は地中に火種を隠し、対象の足元を焼き尽くす妖術を多用していた。しかし詩音の異常聴覚は、燬坐魔の炎術の発生を完全に感知していた。

 刃の妖術の正体は、既に燬坐魔に看破されている。燬坐魔は刃の攻撃には特に注意を払っているようだった。

 炎の化身は劫火を撒き散らせ、疾風怒涛の攻撃を繰り出してくる。その炎術の攻撃範囲は凄まじく広く、紙一重で避けることも許されない。判断を誤れば命を落とす緊張が、徐々に少女達の精神を擦り減らしていく。

 詩音の放つ音振の斬撃は、多少であるが燬坐魔の足止めに役立った。悠々と攻撃しながらも、燬坐魔が音の妖術に注意を払っている事実からも明白だ。

 そうして攻防を続けている内に、一筋の光明が走っていた。燬坐魔が詩音の妖術を躱した間隙に、大地が投下した岩石が嚙み合ったのだ。巨大な岩石に圧し潰され、なんと燬坐魔は膝を突いている。燬坐魔には実体がないため、これでは致命傷にならない。岩石は徐々に溶けており、今にも脱出されそうだ。

 だが動きを止めることには成功している。刃は絶好の勝機を得たのだ。

 刃は黒の妖気を纏った脇差を振り上げた。しかし燬坐魔は、すぐさま体勢を立て直していた。刃に向かって炎の拳を繰り出している。このままいくと、刃の防御は間に合わない。だがこの機を逃せば、もうここまでの接近は叶わない可能性があった。燬坐魔はもう人間を侮ってはくれないことだろう。

 刃は死を厭わず、同士討ちの覚悟を決めた。ここで仕留めなければ、燬坐魔は日輪を支配することだろう。それだけは絶対に避けなければならない。

 己が死のうとも、刃には頼もしい仲間がいる。この先、いつか仲間が日輪を救ってくれる。そのためにも、目の前の禍月を確実に葬らなければならない。

「――――!?」

 しかし刃は、寸前のところで渾身の斬撃に急制動を掛けた。とある妖気の発生を感知したからだ。

 すると刹那の後、燬坐魔の上に莫大なる波涛が落とされた。まるで大海原に突き落とされたのかと錯覚するほどに、膨大な量の水流が戦場に降り注いだ。大瀑布に打たれた燬坐魔は、炎の拳を引っ込めて苦しそうに藻掻いている。

 刃は一瞬思考を止められていたが、すぐに状況を理解していた。

 芸術のように美しい流水の絶技。これは親友の妖術だ。

 刃はニヤリと口角を上げ、臆することなく脇差を振り下ろした。

「うおおおぉぉぉぉ!」

 裂帛の気合を込めて、刃は斬撃に全身全霊を乗せた。

 刃の放った斬撃は正確に対象を捉え、燬坐魔を真っ二つに両断した。揺れる炎の身体は再生を試みていたが、刃の黒の妖気によって遮断されていた。

「ぐうう! 人間風情が……!」

「ほう、お主らは偉いのか? 早々に消えよ。日輪に仇をなすことは許さぬ」

 燬坐魔はしばらく苦しんだ後、塵となって霧消した。


    ◇


 戦いを終えて、刃は雫玖の元へと駆け寄った。

「雫玖!」

 雫玖は刃との戦いで負った傷が深く、横臥したまま動かなかった。

「……雫玖、ありがとう。お陰で命を助けられた」

「私の命は、刃ちゃんの物よ。『わしのために生きろ』なんて言っておいて、どうして炎に身を投じたの? 私より先に逝くことは許さないわ」

「……すまぬ。禍月を滅することしか頭になかったのだ……」

 顔を綻ばせる刃だが、大地の表情は曇ったままであった。

 刃を押し退け、大地は雫玖の首元に小太刀を突き付けた。

「お嬢、助太刀は感謝する。だが裏切りの顛末をまだ聞いてねぇよ。事と次第によっては、今ここで殺すことになるぜ」

 裏切り者への報復として、大地の小太刀には殺意が込められている。

 雫玖が返答を誤れば即死であると、誰が見ても理解できる状況であった。

「大ちゃん……あのね、ええと……」

 しかし大地を落ち着かせる材料が、雫玖の手にあるはずもなかった。裏切っていたことは事実であり、心を許していた仲間を危険に曝してしまったのだ。

 大地に何も言い返せず、雫玖は言葉を詰まらせていた。

 すると刃は大地の腕を押さえ、雫玖に向けられた凶器を制した。

「大地、刀を下ろせ。事情はその内に説明する。多事多端はあったが、雫玖は雫玖だ。わしが保証をする。何も変わってはおらぬ」

「……わかったよ」

 大地は殺意の拘束を解き、小太刀を鞘に納めた。

 雫玖の裏切りに、一番揺さぶられたのは刃自身であると大地は理解している。己に牙を剥いた親友を刃は許したのだ。釈然としない部分もあった大地だが、これ以上は問い詰めるべきでないと判断していた。

 疑心暗鬼に陥っていた詩音は、刃の言葉を聞いて笑顔になっていた。

「先輩、無事でよかったです! わたしは信じていました!」

「詩音ちゃん、ごめんね……」

 横になって動けない雫玖を、詩音は力一杯に抱き締めた。



 すると、足取り重く近付いてくる者がいた。孤児院を襲った深編笠の男だ。

 荒れた呼吸に肩を上下させ、今にも崩れそうな身体を引き摺っている。

「大嵐荒士、生きていたのですか……」

「禍月と契約をしたお陰かね? これだけ斬られて生きていられるのは驚きだ」

 詩音は立ち上がり、腰の小太刀を抜いた。近付いてくる害敵を威嚇するように、容赦ない殺意を漲らせた。

「おっと、待てよ。もう敵意はないぜ。ほら、自慢の太刀も持ってねぇ」

「……確かに、そのようですね」

 荒士の両手を上げる姿を見て、詩音は愁眉を開いた。居合の達人であろうとも、素手では何もできまい。それに、ここには最強の仲間が揃い踏みだ。

「――!」

 すると刃が、跳ねるようにして荒士のほうへ顔を向けた。どういうわけか刃は荒士を鋭い剣幕で凝視し、目を見開いている。

「……師匠? どうかしましたか?」

 詩音の疑義に応じず、刃は目にも映らぬ俊足で荒士に接近した。

 そして刃は、荒士の胸部に掌を当てた。

「な、何を――!?」

 そのまま刃は黒の妖気を解き放った。すると、荒士の体内を渦巻く妖力が消え失せた。安堵した刃は、その場に崩れるように腰を下ろした。

「ふうっ…………。危なかった…………」

 荒士は自身が何をされたのか理解できず、刃に触れられた胸部を押さえている。

「黒斬刃……拙僧に何かしたのか?」

「ああ。お主に宿っていた禍月の思念体を滅したのだ。また化物退治をする羽目になるかと思って、酷く焦った……」

 刃は両手を後ろに突いて身体を支えている。

 詩音は怪訝な顔で刃に尋ねた。

「師匠、どういうことでしょうか……?」

 あまりの焦燥に息を切らせながら刃は答えた。

「先ほど戦った炎の禍月は、刀乃の身体から抜け出たものだ。妖憑の中には、禍月の思念体が生きておる。妖憑が絶命、または致命傷を負うことで、禍月の思念体が顕現するのだ。そこの笠男かさおとこから妖力を感じた故に、化物が現れる前に消滅させてやったというわけだ。賭けであったが上手くいったようだ」

「思念体だと……? つまり、さっきの奴は本体ではなかったって言うのか?」

 珍しく大地が狼狽している。その衝撃の事実は全員が同感であった。

 燬坐魔は、修羅狩りが力を合わせてようやく斃すことができた化物だ。まだどこかで生きているなど、誰が想像できようか。

 するとなぜか輪に溶け込んでいる荒士が、月輪についての知識を披露した。

「燬坐魔の本体は冥崖山脈の裏手――月輪にいる。拙僧は燬坐魔の本体を見たことがあるぞ。本体の強さは思念体の比ではない。それにしても、蔑んでいた人間に思念体を滅されるなんて……山の向こうで怒り狂っているだろうよ」

「へ、へぇー……。師匠じゃないと倒せそうにありませんね。まさか月輪に行って、本体を叩こうとか考えていませんよね?」

 詩音はあまりの恐怖に顔を引き攣らせていた。戦いには自信を漲らせていたが、流石にあんな化物とは戦いたくないと本能が叫んでいた。

 身を案じて心配する詩音の問いを、刃は高らかに笑い飛ばした。

「禍月なぞどうでもよいわ。わしは山の向こうの勢力争いに興味はない。日輪を巻き込み、牙を剥くなら叩き潰すまでだがのう」

「よ、よかったです……。でも、思念体が日輪にまた現れる可能性はありますよね……。わたし、もっと強くならないと!」

「その時は、また皆で協力すればよかろう。何も独りで立ち向かうことはないのだ。それにしても禍月を滅するなど、まるで幕府の時代に戻ったようだな。あまり気が進まんのう……」

 すると弱気になる刃に対して、大地が意気揚々と割って入ってきた。

「何だ刃、怖気おじけづいたのか? 俺様は怖くねぇぜ?」

「はいはい、言っておれ。燬坐魔にとどめを刺したのはわしだというのに……」

「うっ……」

 痛いところを突かれた大地は、胸を押さえて刺されたような素振りをした。

 大地はこうして言い負かされた時に、わかりやすく意気消沈する癖がある。

「……何かすまぬ。大地、お主の陽動のお陰だ。頼りにしておるぞ」

「そ、そうだろう? 俺様がいねぇと何もできねぇんだお前は!」

「ちょっと煽てたら調子付きおって……」

 傷だらけの修羅狩り達は勝利を喜び、共に笑い合った。

 ひとまず、佐越への脅威は消え失せた。もうこの地に敵はいないのだ。



 すると崩れた瓦礫を踏む足音が聞こえ、目を向けると刀乃が立っていた。

 その傍らには神代士隆の姿があった。見たところ傷はなく、無事であるようだ。

「刀乃、ありがとう。道中の護衛、感謝する」

「…………」

 刀乃は士隆の謝意に反応をせず、抜け殻のように佇んでいる。

 士隆の無事な姿を見て、一同は表情を緩ませていた。

 しかし大地は警戒を緩めず、並び立つ刀乃に向かって小太刀を構えた。

「……士隆から離れろよ。クソ野郎」

 猛る大地に対して、士隆は太刀を降ろすよう手振りをした。

「大地、刀を降ろしなさい」

「だってこいつは……!」

「――大地」

「……わかったよ」

 士隆に制され、大地は仕方なく小太刀を納めた。

 大地が落ち着いたところで、士隆は佇立する刀乃に向き合った。

「刀乃、君は裁きを受け入れると言ったな? しかし残念ながら、日輪に式目は存在しない。よって公正な立場で君達を裁くことはできない」

 士隆の発言に、刀乃は納得がいかないと目で訴えていた。どこまでも真面目で純朴な男だ。その目線を感じつつ、士隆は最後の審判を下した。

「……だが、ここは佐越だ。その判断は領主である私が下す。太刀川刀乃、大嵐荒士、私は君達を罪に問わない」

「――――!?」

「代わりに、佐越に仕えなさい。いいね?」

 刀乃と、荒士は顔を上げた。虚ろだった瞳が驚動している。自身を拉致し、領地を危機に追い遣った下手人を士隆は許そうというのだ。

 士隆の温情に大地は激怒していた。刀乃と荒士は領地を侵した大罪人なのだ。殺さないまでも、地べたに顔面を叩きつけてやろうかとさえ考えていた。

「士隆!? 何を言ってやがんだ? こいつらは死ぬべきだぜ! こいつらの大好きな幕府の式目に則って罪を償わせるべきだ! それとも俺がてめぇらを二度と歩けねぇように………………むぐっ!」

 激昂する大地の背後から、士隆は掌で小さな口を覆った。

「大地、いい加減にしなさい。かつての式目に準ずるというなら、妖魄である君達も咎人となる。私も妖魄を匿った罪に問われることとなるな。それに刃は、幕府を転覆させた者の子孫だ。極刑に値することになるぞ?」

「うっ……むむう……」

 思わぬところに飛び火し、刃は噎せて咳込んだ。己の罪について聞かされた少女達一同は、場都合が悪そうに顔を背けている。

「はは、重い話はここまでにしよう。刃、大地、詩音、そして雫玖。無事でよかった。よく佐越を護ってくれた。礼を言わせてくれ。皆がいなければ佐越はおろか、日輪に未来はなかったことだろう」

 領主から称賛を受けて一度は顔を綻ばせた少女達だったが、すぐに顔を曇らせていた。不思議そうに顔を覗き込む士隆に対して、刃が代表して心境を吐露した。

「士隆……わしらのことは、このままでよいのか? わしは……わしらは妖魄だ。幕府を転覆させた禍月の血族なのだ。人間より妖怪に近い種族なのかもしれぬ……。気味悪いなんてことはないか……?」

「………………」

 目を潤ませて見上げてくる少女達を見て、士隆は呆気に取られていた。幼い少女達が、そんなことに悩まされていたのかと。

 すぐに士隆は少女達に笑顔を向け、安心させるべく本心を伝えた。

「何だ、そんなことを気にしていたのか? 妖怪だろうが何だろうが関係ない。君は君だ。それ以外ないだろう。それに、心は人であると知っている」

 士隆の見解を聞いて、一同は目一杯の笑顔を見せていた。

 心配事が解消された大地は、真っ先に士隆に飛びついた。大地は身体にしがみつくかたちで、士隆の装束の裾を力いっぱいに強く握り締めた。

「士隆、無事でよかった……。俺様を心配させやがって!」

「大地、心配をかけた。私はこの通り無事だ」

 いつものようにすぐ士隆に甘えたかった大地だが、禍月の血を嫌われていたらどうしようかと考え悩んでいたのだ。普段は粗暴な大地だが、この時ばかりは誰が見ても年齢なりの可愛らしい少女にしか見えなかった。

 続いて、刃と詩音が士隆を抱擁した。しがみつく大地の上から、挟み込むように士隆に抱き付いた。

 そして刃は、自分を保護してくれたことに改めて謝意を述べた。

「士隆、改めて礼を言う。ありがとう。お主のお陰でわしは生きられておる。八年前に士隆が保護してくれなければ、こうして生きられてはいまい」

「ふふっ、刃、何のことかな? 護られたのは私のほうだ」

「もうどこにもいかない。わしは士隆を皇にする」

 すると大地が刃の肩に手を置き、先輩風を吹かせてきた。

「俺様は佐越で五年間務めている。つまり、てめぇの先輩ってことだ。こき使ってやるから覚悟しろよ。俺様は厳しいぜ?」

「何を馬鹿なことを。お主の下に就くわけではなかろう……」

 和やかな雰囲気の中、雫玖は瞼を伏せていた。謀反を働いた雫玖は、士隆の労いの言葉を素直には受け取れなかった。

「……………………」

 雫玖は士隆と目を合わせることさえできないでいた。

 戦闘の傷によって動けないことだけが理由ではない。もし無傷だったとしても、士隆に声を掛けることはできなかったことだろう。

 すると士隆は、身体に纏わりつく三人の少女を降ろした。

 そして動けず横たわる雫玖を、士隆はそっと抱き上げた。

「し、士隆さん!?」

「雫玖、もういいのだ。これからも、皆と一緒に佐越を護ってくれ」

「…………はい」

 雫玖は嗚咽を漏らし、士隆にギュッと縋りついた。目には涙が滂沱と溢れている。許されざる罪を犯した雫玖に対し、士隆は少しも咎めなかったのだ。

 自身の胸に顔をうずめる雫玖を、士隆は優しく撫で続けた――。

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