スペース・クロコダイル

海鳥 島猫

スペース・クロコダイル

 一切の光なき深淵が、ジョン・ウォーカーとアリス・ウォーカー夫妻の前に広がっていた。

 輝く星々と渦巻くガス雲たちが果てしなく広がるこの場所で、それは周囲の絶景を押し除け存在を誇示していた。

 そう、それこそがまさしく宇宙に開いた暗黒の穴――ブラックホール・ガイアBH1であった。

『〈イカルス〉、突入前の最終チェックはどうか』

「問題ない。いつでも行ける」

 遥か遠方に浮かぶ宇宙ステーション〈クオンタム〉から、夫妻の乗る有人宇宙探査船〈イカルス〉へと通信が届く。ウォーカー夫妻は共にブラックホール研究者として、人生の大半をブラックホール研究に捧げてきた。彼らがこれから挑むのは、人類史上で前例を見ない大冒険――ブラックホール内部への有人探索であった。

 そのために開発された〈イカルス〉は、その体積のほとんどが様々な特殊装置であり、形状もこの時代の一般的な宇宙船とは一線を画す直線的なシルエットをしていた。

 定員は2名。まさしくウォーカー夫妻のための専用機であった。


「いよいよ、この時が来たのね……。とても怖いわ。ブラックホールが人体に及ぼす影響は未知数。これまで沢山の無人機をあの暗黒へ送り込んできたけど、やはり自分たちが飛び込むのは訳が違うわ。上手くいくかしら……」

「大丈夫さアリス。僕も君も、今日という日のために何年もかけてあいつを研究してきた。僕たち以上にこの世界で、あいつに詳しい人間はいない」

「ジョン……。ええ、そうね。ありがとうジョン。絶対に生きて帰りましょう」

『こちら〈クオンタム〉。これが突入前最後の通信となる。もう一度確認するが、ブラックホール近傍からは通信が不可能となる。危険だと判断したら即座に帰還し、緊急用ビーコンを発信してくれ』

「ああ、わかっている」

『突入カウントはそちらのタイミングで行ってくれ。それでは、幸運を祈る』

「了解。〈イカルス〉、ブラックホール突入シーケンスに入る」


 ジョンがコックピットに付いたレバーをいくつか倒すと機体が変形し、トビウオにも似た細長いシルエットに変わる。さらに、六角形の口を開けた大きなスラスターから青白い光が発せられる。


「さあ行くぞ、未知なる扉の向こう側へ……。カウントダウン開始。5、4、3、2、1――発進!」


 〈イカルス〉は猛烈な加速を伴ってブラックホールへと突入した。周囲の光景が一瞬にして変わり、深い闇に包まれる。時間と空間が歪んでいく感覚が二人を襲う。

 不気味な感覚に襲われ、アリスはジョンの手を握った。ジョンも操縦桿を片手で握ったまま、アリスの手を握り返す。


 〈イカルス〉はさらに内部へ進んでいく。その先には、まるで夢の中にいるかのような異様な光景が広がっていた。


「これは……すごい。無人機でカメラ越しに見るのとは全くの別世界だ」

「見て、ジョン! あれは何かしら」


 巨大なフラクタル構造の結晶体、ゼリーのように蠢く半透明の物質、規則的に並んだ球体……その中へ紛れ込むように、どこか歪な形をした金属の塊が所々に浮かんでいた。


「何かの歯形みたいな形に見えるけど……」

「そうかな?」


 〈イカルス〉のスキャン装置が金属に照射される。アリスが思ったように、それはどこか噛みちぎられたようにも見える形をしていた。


「ジョン、このスキャン結果を見て。これの構造……これって、人工物じゃないかしら」

「何機かロストした無人機はあるけど、こんな形じゃなかったよな。まさか……人類以外の知的生命体が?」


 ジョンの声には興奮がこもっていた。長年の研究の成果がここに結実し、彼の科学者としての探究心が燃え上がっている。しかし、アリスは眉をひそめた。


「ジョン、なんだか嫌な予感がするわ。これだけでも十分な成果よ。帰還しましょう」

「しかし……いや、そうだな。慎重になることが大事だ。ここまでのデータを持ち帰ろう」


 ジョンは〈イカルス〉の帰還シーケンスを開始した。しかし、〈イカルス〉が方向転換を始めた瞬間、警報が鳴り響いた。


「何だ!?」

「何かが接近しているわ!」


 アリスが叫んだ直後、〈イカルス〉の機体が激しく揺れた。

 ノイズが走るカメラで、ジョンは必死に衝撃の正体を探る。


 それは流線形の筋肉質な胴体に短い四肢を持ち、全身を灰色の鱗で覆った怪物だった。鋭い目で〈イカルス〉をじっと睨み、さらに長く大きな口を半開きにして待ち構えている。その口には鋭い牙が何列も並んでおり、1つ1つがまるで刃物のように鋭利であった。


「「なんだこいつは!?」」


 夫婦の叫びがシンクロする。なぜなら怪物の姿は、どう見ても――――地球のワニそのものだったからだ。

 〈イカルス〉を噛み殺そうと牙を向けるワニに、ジョンは困惑と恐怖が混じりながらもエンジン出力を最大にする。すんでのところで噛みつかれるのは回避したが、ワニはまるでここが地球の河川であるかのように空間を泳ぎ、〈イカルス〉を追いかける。


「なんでワニがブラックホールに!?」

「わからない! けど捕まったらおしまいよ! 頑張ってジョン……!」


 ブラックホールの出口が目前に迫る。しかしワニは執念深く〈イカルス〉を狙う。強靭な尻尾を揺らしスピードを上げると、脱出寸前だった〈イカルス〉のスラスターに噛みついた!


「きゃあああ!」

「しまった! 座標系に異常が――」


 ブラックホールからの脱出には緻密な計算が伴う。ワニの突撃で生じた誤差は、〈イカルス〉を想定外の場所へと導いた。


「――ここはどこだ。ワニはいなくなったみたいだが、計器が何も反応しない」

「緊急用ビーコンを上げたけど、反応がないわ」


 ブラックホールの外側ではあるようだったが、ふたりは未知の宇宙空間へと迷い込んでしまった。ジョンは〈イカルス〉をゆっくりと前進させたが、直後おびただしいほどのアラートが艦内に響き渡る。


「何!? 今度はなんなの!?」

「左方向に巨大な熱源!? いや、これは……そんな……」

「あぁ、嘘……こんなの嘘よ……」


 小惑星の影からゆっくりと姿を現したのは、ワニだった。

 宇宙を泳いでいる時点で普通ではないが、普通のワニよりも遥かに巨大だった。瞳の大きさだけで〈イカルス〉を超えている。それでいてあまりにも俊敏であった、気づいた頃には、ワニはぬるりと〈イカルス〉の目前で大きな口を開けていた。


 まさかこんなことになるなんて、誰が想像できただろうか。人類初の大挑戦は、人類の想像を超えたワニによって噛み砕かれてしまうのか。

 ジョンとアリスは体を寄せ合った。周囲にある岩石も小惑星も、このワニの前には何の障害にもならない。

 ブラックホールで見つけた歪な金属塊を思い出す。あれは歯形のようだったとアリスは言っていた。ああ、そうか。あれはワニの仕業だったのか。そして自分たちもそうなるのだ――絶望のなか目を閉じたふたりは、しかし次に訪れた衝撃の中でもまだ生きていることに気が付いた。


 ワニは目前にいる。しかしその牙は自分たちの前にない。その牙が向く先には、ワニさえも超える衝撃があった。


「あれは……」

「まさか……」


「「サメ………………」」


 サメだった。


 サメが宇宙を泳いで、ワニを襲いに来ていた。


 ワニと同じくらいに巨大なサメだった。一方で戦力差は圧倒的だった。亜光速でバレルロールをしながら襲い来るサメに為すすべなく、ワニは一瞬で首を噛みちぎられ宇宙の闇に消えた。


 サメは〈イカルス〉に見向きもせず、悠々と宇宙空間を泳いで去っていった。


 暗黒と静寂が戻ってもなお、ジョンとアリスは生き延びたことに安堵することもできず、できたのはただ茫然とサメの後ろ姿を眺めていることだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スペース・クロコダイル 海鳥 島猫 @UmidoriShimaneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ