第四話 門限

 教会の外へ出ると、既に山が夕日を飲み込んでいた。仮想空間が生み出す涼しげな風が通り過ぎ、撫でるように衣服の中を擦り抜けていく。


 アイに摘んだ花を見せるべく、僕は小走りで宿屋へと向かった。


「いらっしゃいませ!」


 宿屋の扉を開けると、アイが挨拶をしてくれた。


 アイは僕が宿屋に着くと、いつも嬉しそうに迎えてくれる。気のせいだろうが、最近は人間ではないかと思えるほどにアイの表情が豊かになってきた気がする。


「お泊りですか? 一泊三十リオです!」

「もちろん泊まるよ。いつもありがとう」

「部屋は一号室です。どうぞごゆっくり!」


 台詞はNPCらしく、いつもと同じ定型文だ。それでも僕は、彼女を人間だと思って声を掛けるようにしている。


「…………」


 アイから期待するような眼差しを受けて、僕は受付台に肘を突いて身体を預けた。

 宿泊部屋へ向かう前に、その日の活動をアイに聞かせることが慣例なのだ。


「今日は西の霊峰を登ってきた。山頂までの道は覚えたけれど、その先の奥地が険しくて……。急に落とし穴が現れたせいで、足を踏み外して落ちちゃったんだ」

「…………!」

「なんとか生還できてよかったよ。あ、これお土産。不思議な形の花だろう?」


 札から《スティエルネの花》を具現化して、アイへ差し出した。


 花にアイテムとしての用途はないが、アイに贈ると顔を綻ばせてくれる。

 微動だにしなかったアイの表情を花の美しさが動かしたのだ。花が好きだという感性をアイが持ったのであれば、動けない少女に代わって幾らでも採ってきてあげたいと僕は思う。花弁が放つめいな色彩は、少女の可憐さに似合っている。


 僕は得意になって話を続けた。


「道中で見付けた池は綺麗だった。まさか霊峰の奥地に水域があるなんて驚いたよ。新しい発見は心が躍るね。池は沖縄の海のように水が透き通っていて……」

「オキ……ナワ……?」

「あぁ、沖縄は俺が住んでいる国の地名のことだよ」

「…………?」


 アイと会話はできないが、頷いたり笑ったりしてくれる。時折、言葉を学ぶように鸚鵡おうむがえしをしてくれることもある。一方通行ではあるが、僕はアイとこうして共に過ごす時間が好きだった。友達のいない現実世界よりも、僕にとってはアイがいるフィヨルディアこそが現実であるといっていい。


 アイと心を通わせることができたらいいのに――と、日々考えてしまう自分がいる。不可能であることは理解しているが、アイと共に霊峰探索ができたらどれだけ幸せなことか。だが叶わないことを嘆いても仕方がない。アイが笑顔でいてくれるだけで、僕は人生の活力を貰えているのだ。これ以上を望むことはない。


    ◇


 しばらくアイに話を聞かせた後、僕はいつもと同じ一号室へ入った。室内は質素ながら使いやすく、棚や姿見などのじゅうが備えられているのはありがたい。


 僕は着ていた服をこうに掛けて、布団の上で綺麗に畳まれている寝間着に袖を通した。仮想現実の中では汗を掻くことがなく、着替えなくとも快適に過ごすことができるが、いつも寝間着が用意されてあるので折角だからこれを着て眠りたい。設定上はアイが丁寧に畳んでくれた寝間着である。その厚意を無下にはできない。


 この宿屋は一泊三十リオと破格の安さで泊まれるが、お金が底を尽きた時はどうしようかと日々考えている。過去に貯めた莫大な資金があるが、クエストもなく、魔獣もいない現在は金策の手段に乏しい。山での素材集めしか方法がないが、これがなかなか稼げない。家を購入する手もあるが、僕は宿屋に泊まりたい。アイと喋るだけ喋って宿屋を利用せずに去るのは、流石に不作法というものだろう。


 ログアウトはどこであろうと場所を問わず可能であるが、宿屋以外の場所で行うと次のログイン地点は教会の診療所となってしまう。

 僕は宿屋で目覚めたいので、必ずここでログアウトをすると決めている。


 夜の間もフィヨルディアで過ごしたいところだが、この世界で日が落ちてくる頃にちょうど現実世界では朝が始まってしまう。学校へ行くためにも、僕は決められた時刻に元の世界へ戻らなければならないのだ。


 新たに開拓した道筋を思い返し、次に向かう進路をしばらく考えていた。

 外では木々が騒めき、ひぐらしらしき音声が静かに叙事曲バラードを奏でている。


 日の沈みを見て布団を被り、僕は現実世界の朝を待った。

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