第二章 異世界の変容

第五話 失踪

 約一箇月振りに僕はフィヨルディアにログインをした。

 こんなにログインの間隔を空けたのは、実は初めてのことであった。体調不良を除き、僕は一日たりともログインを怠ったことはない。此度こたびはちょうど受験の時期で勉強をする必要があったため、しばらくログインを控えていたのだ。本来はもっと勉強をしなければならないが、一箇月間しか我慢ができなかったのである。


 ラズハを使用中は眠っていても脳が覚醒状態にあるため、睡眠による疲労回復が見込めない。したがって学校の授業中はほとんど机に突っ伏して寝ることとなり、勉強時間を確保するにはゲームを断つしか方法がないのだ。睡眠時間を利用するラズハの特性上、これは仕方がないと諦めるしかないだろう。


 しかし現代に於いて、学校の勉強に意義があるとはどうしても思えない。AIの普及により、人類は労働から解放されたのだから。


 実際のところ、テレビやネットを除いて現実世界では労働に従事する人間を見かけることがない。どの店舗にも店員はおらず、搬入、陳列、配膳、会計など、全ての作業が自動で行われているからだ。


 更には林業や建設業といった肉体労働でさえ、現代ではAIによる仕事なのだ。

 機械の身体を与えられたAIによってプレカットされた資材が狂いなく組み立てられていく様子は、街を歩けば幾らでも見ることができる。

 一見不気味だが、もう既に見慣れた光景だ。


 街を行き交うトラック、バスやタクシーといった輸送車両は無人であり、運送業や交通網にも不便がない。そもそも販売されている車両は全て完全自動運転機能を搭載しているため、運転免許証を更新する者がほとんどいないという。


 現在は世界中で基本所得制ベーシックインカムが施行され、生活できるだけの金額が毎月振り込まれている。人々は豊かとまではいかないが、平和で幸せな生活を営むことができているのだ。就職なんて道は、作家や芸能などといった花形の職種でしか有り得ない。


 無駄だと思える大学受験は、親に言われて仕方なく取り組んでいる。大学へ行って学びたいことなど何もないが、親の願いを断ることができなかったのだ。


 教師がAIに代替されている高校生活は味気なく、基本的に校内はシンと静まり返っている。これでは人間関係が希薄になってしまうのも無理はないだろう。

 大学でも似たような環境になることを考えると、進学は正直したくない。


 授業の内容も、実生活では役に立たないものばかりである。教育課程は据え置かれており、祖父母が学生だった頃より遥か以前から見直しがされていないのだ。


 しかしどういうわけか、高校での授業を務めているAIの機械音声は僕の居眠りをやたらと咎めてくる。生徒の微睡まどろみを感知すると、教卓に隠された発射台からチョークの破片が飛んでくるのだ。勉強が要らない現代で勤勉を強要させられるという、理解不能な不条理を僕は味わっている。


 僕の高校生活は、このAI教師との戦いが全てだといえよう。


    ◇


 ラズハは機種や年代を問わず、全てのゲームを仮想現実に変換できる。どれだけ年代物であろうとも見境なく機能し、それは百三十三年前に発売されたフィヨルディアも例外ではなかった。五感を仮想現実で再現する仕掛けは不明だが、こうしてゲームの世界を堪能できるのだから技術の進歩とは素晴らしいものだ。


 僕の視界には、モニター上に映るはずの世界が見渡す限りに広がっている。

 最新のゲームと比較すると画質が悪いはずのフィヨルディアだが、ラズハが生み出す仮想現実にゲームハードの差は存在しない。現実と同様の感覚で身体を動かすことができ、目に映るもの全てが鮮明だ。

 物に触れる感触、疲労や眠気もリアルに感じることができる。身体を包み込む布団の柔らかさと日差しの眩しさは、現実と遜色がないほどに巧緻こうちな出来である。


 久方振りのフィヨルディアへの往訪であり、仮想現実による独特の感覚が懐かしい。勢いよく部屋を飛び出して、僕はアイに挨拶をした。


「アイ、おはよう! 久し振りだな!」

「よく眠れましたか。お気を付けて」


 宿屋の店主は、いつもと同じ台詞で返答してくれた。

 しかし、その言葉の主はアイではなかった。

 受付台に立つのは、栗色の髪が眩しいおさげの少女だ。


「あれ……? アイ……?」


 店主が違うNPCに替わっている。アイの姿はどこにも見当たらない。


 一体どういうことだろうか。ログイン時にアップデートの通知はなかったはずである。それに、フィヨルディアは既にサービスを終えたゲームだ。ログインできることさえ不思議な状況であるにも拘わらず、NPCの配置換えなどあるはずがない。

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