第二章 覚醒
約一箇月振りに、僕はフィヨルディアにログインをした。
こんなにログインの間隔を空けたのは、実は初めてのことであった。体調不良を除き、僕は一日たりともログインを怠ったことはない。此度はちょうど受験の時期で勉強をする必要があったため、しばらくログインを控えていたのだ。本来はもっと勉強をしなければならないが、一箇月間しか我慢ができなかったのである。
ラズハを使用中は眠っていても脳が覚醒状態にあるため、睡眠による疲労回復が見込めない。したがって学校の授業中はほとんど机に突っ伏して寝ることとなり、勉強時間を確保するにはゲームを断つしか方法がないのだ。
しかし現代に於いて、学校の勉強に意義があるとは思えない。AIの普及により、人類は労働から解放されたのだから。
実際のところ、テレビやネットを除いて、現実世界では労働に従事する人間を見かけることがない。どの店舗にも店員はおらず、搬入、陳列、配膳、会計など、全ての作業が自動で行われている。
街を行き交う車両は無人であり、運送業や交通網にも不便がない。林業や建設業といった肉体労働でさえ、現在はAIによる仕事なのだ。機械の身体を与えられたAIによってプレカットされた資材が狂いなく組み立てられていく様子は、街を歩けば幾らでも見ることができる。一見不気味だが、もう既に見慣れた光景だ。
現在は世界中で
しかしどういうわけか、高校の教師を務めているAIの機械音声は僕の居眠りをやたらと咎めてくる。生徒の微睡みを感知すると、教卓に隠された発射台からチョークの破片が飛んでくるのだ。勉強が要らない現代で勤勉を強要させられるという、理解不能な不条理を僕は味わっている。
僕の高校生活は、このAI教師との戦いが全てだといえよう。
ラズハは機種や年代を問わず、全てのゲームを仮想現実に変換できる。
五感を仮想現実で再現する仕掛けは不明だが、こうしてゲームの世界を堪能できるのだから技術の進歩とは素晴らしいものだ。
ラズハはどれだけ年代物であろうとも見境なく機能し、それは百三十三年前に発売されたフィヨルディアも例外ではなかった。
僕の視界には、画面上に映るはずの世界が見渡す限りに広がっている。最新のゲームと比較すると画質が悪いはずのフィヨルディアだが、ラズハが生み出す仮想現実にゲームハードの差は存在しない。
現実と同様の感覚で身体を動かすことができ、目に映るもの全てが鮮明だ。物に触れる感触、疲労や眠気もリアルに感じることができる。身体を包み込む布団の柔らかさと日差しの眩しさは、現実と遜色がない。
久方振りのフィヨルディアへの往訪であり、仮想現実による独特の感覚が懐かしい。勢いよく部屋を飛び出して、僕はアイに挨拶をした。
「アイ、おはよう! 久し振りだな!」
「よく眠れましたか。お気を付けて」
宿屋の店主は、いつもと同じ台詞で返答してくれた。
しかし、その言葉の主はアイではなかった。
受付台に立つのは、栗色の髪が眩しいおさげの少女だ。
店主が違うNPCに替わっている。アイの姿はどこにも見当たらない。
「あれ……? アイ……?」
ログイン時にアップデートの通知はなかった。
サービスが終了し、ログインできることさえ不思議な状況であるにも拘わらず、NPCの配置換えなどあるはずがない。
不審に思いながら宿屋を出ると、目に飛び込んできた光景に僕は言葉を失った。
今まで森閑としていた街は見る影もなく、大勢の人でアルンの街が賑わっている。今更こんな古いゲームにログインしてくるプレイヤーがいるのかと驚いた。
雑踏の盛況を見て呆気に取られていると、通りすがりの男性が話し掛けてきた。
「ちょっと、そこの坊主……」
「……?」
振り返ると、髭を蓄えた蓬髪の男性が立っていた。NPCしかいなかったこのゲームで、話し掛けられるという経験は初めてだ。
「な、何ですか……?」
男性は僕の姿を、嘗め回すようにジロジロと見ている。
「濃緑色で和風の羽織、腰の太刀……間違っていたら申し訳ないが、君は……エイタ君か?」
「――! そうですが……どうして俺のことを……?」
「数日前かな、君を探している女の子に会ったよ」
「え……?」
この世界で、僕を探している者などいるはずがない。いまいち状況が飲み込めないが、僕はその人物について尋ねてみることにした。
「……それは、どんな子でしたか?」
「黒髪の小さな子だったよ。朱色の花を髪に挿して――」
「――その子はどこへ行きましたか!?」
髭のおじさんが話し終わる前に、僕は彼の両肩を掴んで訊ねた。
もしや――と考えていたが、その特徴は間違いなくアイだ。
「南へ歩いて行ったが、数日も前のことだ。今はどこにいるのかわからんよ」
僕の剣幕に気圧されながら、髭のおじさんはおどおどと答えていた。
アイが生きていて、僕を探してくれている。その事実を知られただけでも情報としてありがたい。地道に探すしか方法はない。
「ありがとうございます。彼女は……ええと、友達です。探してみます」
「はいよ、頑張って見付けてやりな」
そう言って髭のおじさんと別れようと思ったが、この男性はフィヨルディアで出会った初めてのプレイヤーだ。僕は興味本位で話してみることにした。
「おじさん、よくこのゲームをやろうと思いましたね。サービスは終了しているし、もうフィヨルディアでできることはないじゃないですか?」
「…………?」
僕の言ったことが理解できなかったのか、髭のおじさんは目を丸くしている。
「ゲーム……サービス……何のことかな?」
「だから、この世界にログインをしたのはなぜかと思いまして……。当然ですが、ラズハを使用していますよね?」
「はぁ……?」
髭のおじさんは質問の意味を理解できず、困惑している様子だ。眉を顰めた表情のまま固まっている。
「ログイン……? ラズハ……? すまないが、よくわからないな」
「そう……ですか……」
僕が追及を諦めると、髭のおじさんは首を傾げて去っていった。
彼は一体何のために、こんな百年以上も前のゲームにログインをしてきたのだろうか。おじさんの挙動を見て、僕はふと疑問が過っていた。
ラズハを知らないとなると、彼はモニター上で遊んでいることが考えられる。
しかし、それにしては流暢に言葉を話していた。ラズハを使わずにログインをした場合、会話はキーボードによるチャット入力で行う必要がある。僕は会話を通常通りに行えるが、彼はそうではないはずだ。こちらの言葉は、相手にどのように受け取られているのだろうか。
多くのプレイヤーがログインしてきたことも、宿屋の店主が入れ替わっていたことも、何一つ理由がわからない。
とにかく今は、アイを探すために街を歩くことにした。
◇
空の色が赤く染まっている。日没までには元の世界へ戻らなければならない。
アルンは建造物の密度が低く、かなりの長距離を見渡すことができる。しかし、この街は五キロメートル四方もの広さがあり、一人の人物を探すことは容易ではなかった。アルンを隅々まで探したが、アイは一向に見付かる気配がない。
アイはNPCとしての役割を失い、消滅してしまったのではないだろうかという一抹の不安が過っていた。心配が募るばかりで、不穏なことを考えてしまう。
それでも、アイと思しい少女が僕を探していたという髭のおじさんの言葉を信じて、彼女を探すことを諦めなかった。僕を探している少女なんて、アイ以外に該当しない。
「まさか……《エンマルク》へ出たのか?」
エンマルクとは、アルンと霊峰の間に広がる草原地帯のことである。
NPCがアルンの外へ出られるとは思えないが、見付からない以上は可能性を排除できない。決意を固めて、僕はアルン外周の西門を
すると、ギリギリ目視できる小高い丘の上に、小さな人影が仰向けで倒れているのが見えた。アイだと認識するより先に、僕は倒れている子どもの元へと駆け出していた。近付いてその姿を確認し、僕は安堵から大きく息を吐いた。
宿屋の紺色の装束を着た黒髪の少女。倒れている子どもは、やはりアイだった。
「アイ! 大丈夫か!」
名前を呼び、アイの小さな身体を揺すった。すると、少女の瞳がゆっくりと開いた。悄然と疲れ切っている様子で、身体には力が入っていない。
「アイ! 俺がわかるか!? どうしてここで倒れている!?」
「エ……エイタ……」
アイは返事をしたが、か細い声で元気がない。
すると、ぐうぅ――とアイの腹部から間の抜けた音がした。
◇
「エイタ! これ炒飯っていうの? 凄く美味しい!」
「まだまだあるから、ゆっくり食べな」
「やったぁ! エイタ、ありがとう!」
アイは無我夢中で目の前の料理を口に運んでいる。丘で倒れたまま動けないようだったので、西門から近い飲食店までアイを背負って運んできたのだ。
中華料理屋――《アルン飯店》。僕が行き付けにしており、霊峰の探索で疲れた身体を癒してくれる町中華だ。安価で味が良く、料理の量が多い。飽きのこない濃い味付けが仮想の味覚を刺激し、充分な満足感を与えてくれる。
二人掛けのテーブル席が一つとカウンター席が二つ、奥には座敷席が一つ。お世辞にも広いとは言えない店内だが、客は僕の他にいないので不足はない。
喜んでいるアイを眺めながら、僕は頭の中を整理していた。アイの挙動が、いつもと著しく異なっているのだ。NPCであるはずのアイが宿屋を離れ、僕と会話をし、食事を取っている。僕は初めてNPCの身体に触れたが、背負った時の重量感や身体の温もりは人間そのものだった。
ラズハの故障だろうか。現実世界の僕は入眠中であるため、目の前の出来事は文字通り夢の中であることが考えられる。目が覚めるとアイはいつもの調子に戻っている可能性もあるが、僕は束の間の団欒を楽しむことにした。幻想であっても、アイとこうして心を通わせられたことが嬉しかったからだ。
アイは顔を綻ばせながら、美味しそうに食事を楽しんでいる。アイのこんなにも豊かな表情は、今までに見たことがない。やはり、これは夢――なのだろうか。
それにしても、アイの食事量の多さに驚いた。小さな身体のどこに入るというのか、空になった皿が山のように積まれていく。
フィヨルディアには《満腹度》というパラメータがある。値の低下によって動きが鈍くなることがゲームでの仕様だが、ラズハによるログイン時は大きく作用が異なっている。なんと現実と同様に、途方もない空腹感に襲われるのだ。
NPCにも《満腹度》が適用されているのかは不明だが、空腹時の反応を見る限りアイにも同様に当て嵌まると考えるのが妥当だろう。つまり、胃袋の上限も存在するはずだ。しかし、アイはなかなか食べ終わる気配がない。
一方、僕は既に腹を満たし、デザートのプリンを上品に食べている。僕はアイに合わせて時間を掛けて食べていたが、アイはどんどん料理の追加を注文していた。
食事を終えて、二人で街を歩いていた。
昼間にアルンを満たしていた雑踏も家路に就いたようだ。夜のアルンは静かで、羽虫の歌声が微かに鼓膜を震わせている。
「お腹いっぱい! エイタ、連れて来てくれてありがとう!」
「俺も楽しかったよ。それにしても、よほどお腹が空いていたようだな」
「そう言われると、ちょっと恥ずかしいな。初めてのご飯が美味しくて……」
旺盛な食欲は、今まで食べてこなかった分を補填しているということだろうか。
そう考えると食事の量に合点がいくが、そもそもアイに食事が必要であるはずがない。考えるほどにわけがわからなくなっていく。
このことをアイに尋ねても答えは出ないだろう。アイが食欲を持ち、欲するが儘に食事をした。ただそれだけのことだ。深く考えても仕方がない。
「アイが元気になってよかったよ。豪快で、いい食べっぷりだった」
「えへへ、しかも奢ってもらっちゃったね。このご恩は一生忘れません!」
「一体どこで、そんな言葉を覚えたんだ?」
「ふふっ、秘密!」
会話が一方通行だった八年間を経て、僕はアイと言葉を交わしている。感慨深いことだが不明点も多い。多くの謎を解消したいところだが、もう日が暮れている。もっとアイの傍にいたいが、僕は元の世界へ戻らなければならない。
別れを切り出す頃合いを窺っていると、ちょうどアイが眠そうに目を擦っていた。眠ったことなど一度もないはずだが、アイは大きな欠伸と共に腕を広げ、身体を伸ばしている。投宿を促すチャンスだ。歩きながらウトウトしているアイを、僕は肩を擦って起こした。
「アイ、今日は宿屋に泊まろう。ほら、アイが働いていた宿屋が近くにあるぞ」
「……はーい」
アイの眠気は限界が近かったようだ。酩酊したように足を縺れさせる少女を見兼ねて、宿屋への道程は僕がアイを背負った。安心したように身体を預けてくる少女は、僕の耳元で感謝の言葉を繰り返していた。
「いらっしゃいませ」
宿屋の扉を開けると、新しい店主の少女から挨拶を受けた。
「わたしの宿屋なのに……」
アイは新しい店主と目を合わせず、顔を膨らませている。少し不機嫌な様子だ。
「一泊三十リオでございます」
「二名です。同部屋でいいよ」
「部屋は一号室です。どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
六十リオを店主の少女に手渡し、部屋の鍵を受け取った。他に宿泊客がいないので、いつも同じ部屋に案内されている。宿屋の一号室は、もはや自室も同然だ。
アイに目を移すと、目を見開かせて驚いた様子でこちらを見ている。
赤らめた顔を両手で隠しながら、何やら激しく狼狽しているようだ。
「アイ、どうかしたのか?」
「あああの、いや、その……大丈夫。何でもない……」
「……? 今日は疲れただろう。ゆっくり休もうな」
「うん……」
アイを連れて、一号室の扉を開けた。いつものように整頓された部屋だ。
僕は太刀を棚に置き、上着を脱いでハンガーに掛けた。
アイは部屋の端に立ち、もじもじと服の裾を握り締めている。
「どうした? アイ、寝ないのか?」
「あ、あのね……この宿屋には、どの部屋もベッドが一つしかないの……。同じ布団で眠ることになるけれど……エイタはいいの?」
「あっ……」
アイに言われて気が付いたが、男女が同じ部屋に泊まるという状況が今ここにある。まさかアイは、僕を異性として見ているというのだろうか。
宿屋はログアウトの場所という認識だったので、そこまで気が回らなかった。いや、気を回すほうが可笑しいだろう。相手はNPCであり、AIが搭載されたデータに過ぎない。少女の姿も、人の手で造られたものなのだ。
それにしても、夢の中にしては凝った演出だ。僕の深層心理を描写しているというなら、恥ずかしいことこの上ない。
「あ、ごめん嫌だったか? 俺はログアウト……じゃなくて、眠ると異世界へ飛ぶから、俺の身体はここからは消えるんだよ。不思議だろう?」
「へぇ、そうなの……」
自分でも何を言っているのか可笑しな説明となってしまったが、アイは理解したように飲み込んでいた。睡魔により判断力が鈍っているだけなのかもしれないが。
僕が椅子に腰を掛けると、アイはベッドへ飛び込んでいた。
初めての感触が楽しいのだろう。アイは激しく布団を抱き締めている。
聞いてよいものか迷ったが、僕はアイに現状について尋ねてみた。
「そういえば、どうして宿屋の店主が入れ替わっているんだ?」
すると布団と戯れる動きが止まり、アイは少しの間を置いて答えた。
「そんなの……わたしが聞きたいよ。ちょっと宿屋を離れたら、あの子が受付にいたの。何を言っても、あの子には通じなかった。わたしはもう、店主には戻れないのよ……」
アイは俯せで布団を握り締め、声を震わせている。
新しい店主は従来のNPCであり、意思の疎通はできない。既にアイは、新しい店主と一悶着あったらしい。店主の座を奪われたのがよほど悔しいのか、アイは布団を頭から被ったまま動かない。
「……あれ? アイ? もしかして寝た?」
「…………」
アイからの応答はない。
布団を捲ると、アイは目を瞑って静かに寝息を立てていた。稚い寝顔は、年相応の少女にしか見えない。熟睡しているようで、起きる様子はない。
宿屋の時計を見ると、既に夜の九時を差している。
現実世界では一限目の授業が始まっている頃だ。フィヨルディアは日本と十二時間の時差があり、現実と同じく十二進法なのだ。
「遅刻は確定だな。三限目から行こう……」
アイの頭を持ち上げて枕を敷き、幼気な身体に満遍なく布団を被せた。
僕はアイの隣で横になり、遅刻の言い訳を考えながら目を閉じた。
◇
翌日――。フィヨルディアの朝を迎えた。木漏れ日が窓から差し込んでいる。
昨日の出来事はゲームでもしっかりと反映されていた。ログアウトしてすぐに家のモニターを確認すると、眠りに就く3Dモデルのアイが映っていたのだ。つまり昨日、アイが人間らしく振舞っていたことは夢や幻ではなかったということだ。
僕は大きな伸びをして、隣で眠っているアイの寝顔をじっくりと観察した。
布団が乱れているところをみると、寝相はあまりよくないようだ。モニター上のドット絵の集合体がこんなにも可憐な姿になるとは、この世界を体験できることの冥利に尽きるというものだ。
アイの小さな身体は静止することなく、僅かながらゆっくりと動いている。呼吸による横隔膜の動き、筋肉の弛緩、収縮。その姿はあまりにも人間に近く、ここが現実ではないかと疑ってしまうほどだ。微かに移ろう表情は、心を奪われるほどに可愛らしい。指で頬を
眠る少女を起こさないように、僕は足音を殺してそっと部屋を出た。
「おはようございます! よく眠れましたか?」
店主の少女が、和やかに挨拶をしてくれた。彼女の名前は、ラズハを起動する前にモニターで確認をした。ルイエという名前だ。部屋から出たのが自分一人であることを確認して、ルイエは怪訝な顔をしている。
「お連れ様は……?」
「まだ眠っているから寝かせてやってくれ。後で様子を見に来るよ」
「わかりました。部屋の清掃は後回しにしておきますね」
「ありがとう、ルイエ。それじゃ、行くよ」
「ありがとうございました。お気を付けて!」
ルイエの笑顔は眩しかった。
僕はルイエの様子を見て、心に引っ掛かる違和感の正体を探った。『部屋の清掃』なんて台詞は、今まで店主から聞いたことがない。
昨日出会ったばかりのこの子も、既に従来のNPCとは何かが違っているようだ。挙動から言動まで、意思と情意を感じ取れる。
だが、当の本人に野暮なことを言うつもりはない。
それについて言及することなく、僕は静かに宿屋を後にした。
宿屋を出ると、昨日と同じく大勢の通行人が目に入った。彼らは一体何のために、こんな古いゲームにログインをしているのだろうか。フィヨルディアは現実の逃避先として訪れていたというのに、これでは元の木阿弥だ。
しかし、今となっては問題ない。来訪の目的が当初と変わっているのだから。
現在は霊峰の探索と、アイに会うことの二つの軸でフィヨルディアを楽しんでいる。現実世界の他人が世界観に入って来ようとも、僕は気にすることなく目標を果たそうと思う。
すると背後から、ギイィ――と錆びた蝶番が軋む音がした。
振り返ると、アイが目を擦りながら宿屋から出てくるところだった。
「エイタ、待って。わたしもついていく」
「アイ、おはよう。部屋を出る時に起こしてしまったか。ごめんな」
「おはよう、エイタ。頬をツンツンされていた時、実は起きていたのよ」
アイは顔を膨らませて、自身の頬を突いている。
こうしてまた、アイと会話ができることが嬉しかった。
「ああ、ごめん。寝顔が可愛かったから」
「もう、またそんなことを言って……。ルイエとも仲が良さそうだったわね」
「いや、ただ挨拶をしていただけだよ」
「ふぅん、そうなの? ふぅん……」
アイは眉を寄せて、何かを疑うようにジロジロと僕を見てくる。
その豊かな表情は人間のようで、僕は思わず視線を外してしまった。
「今日はどこへ探検に行くの? わたしも一緒についていくね!」
「……え!?」
「駄目……かな?」
思わぬ提案に驚いてしまった。アイを外へ連れ出せるなんて考えたこともなかった。アイとの同行二人は楽しそうだが、アルンの外には危険もある。魔獣がいなくとも、理不尽な地形には僕も幾度となく殺されてきたのだ。
「今日も霊峰ロルヴィスへ行こうと思う。……ただ、霊峰奥地の探索は危険なんだ。残念だけれど、アイを連れては行けない……」
「そうなのね。わかったわ。エイタの冒険だもんね……」
アイは哀しそうに目を伏せて、わかりやすく表情を曇らせている。
物わかりが良いことは助かるが、落ち込むアイを見て放ってはおけない。
「そ、そうだ、服を買いに行こう。宿屋の制服のままだと動き辛いだろう? お代は俺が出すからさ。可愛い服でお洒落をしようぜ」
「服を買ってくれるの? 嬉しい!」
アイに笑顔が戻った。アイは僕の服の袖を掴んで、ブンブンと振り回している。
とりあえずアイの機嫌が直って、僕はホッと胸を撫で下ろした。
◇
アルン北東の商店通り。この区画には、様々な店舗が軒を連ねている。
飲食店が立ち並ぶ一画を越えると、目的の店舗が見えてきた。アルンで唯一の服屋である――《防具屋エールリグ》。この店は防具と衣服を取り揃えている。僕は今の装束から変えたことがないので、この店に来たのはおよそ八年振りだ。
因みに、この世界での防具はただのお洒落アイテムなのだ。堅固な見た目の鎧であろうとも、安い布地の衣服と比べて防御性能に差はない。装備に拘ることがRPGの醍醐味であるはずだが、この点は製作者の怠慢だという他ないだろう。
アイは陳列されている服を眺めて、目を輝かせている。
「わぁ! 服ってこんなに種類があるのね!」
「そうだな、こんなに売っているなんて知らなかったよ。アイ、どの服が良い?」
「うーん……迷うなぁ」
アイに似合う服を選んであげようと思っていたが、現実世界に友達がいない僕に女性服の善し悪しがわかるはずもなかった。
どうしようかと考えていると、既にアイは自ら様々な服を見比べて、お気に入りの一着を探している。店員に試着室使用の許可を得て、色々な服を試着している。楽しそうに服を選び、おススメや在庫の有無などを店員に質問している。
何の気なしに見ていたが、店員も定型文を繰り返すだけでなくアイと対話ができている。この店の店員もNPCであるはずだが、意思を持って行動しているようにみえる。本当にNPCなのだろうかと不審に思ってしまうほどだ。
小一時間ほど服を選別して試着室から出てくると、アイは緑色のワンピースを着ていた。衣服を着替えただけだが、その姿は見違えるほどに可愛らしかった。
「これにする! エイタの服と同じ緑色だよ。似合っているかな?」
「凄く似合っているよ。差し色の茶色も可愛いね」
ワンピースを着たアイは、以前にも増して笑顔を見せていた。新たに身に着けた服を抱き締め、大きく香りを吸い込んでいる。
「同じ色の服だと、兄妹だと思われそうだな」
「……むむ」
アイは背伸びをしながら、僕を見て怒ったように顔を膨らませている。
「子ども扱いしないでよ……」
「はは、ごめんよ」
よくわからないが失言だったようだ。女性の扱いは難しい。
会計を済ませて、僕とアイは店員にお礼を言った。すると店員は丁寧にお辞儀をしてくれた。どこで学んだのか一連の所作は美しかった。
現実では友人と出掛けることがないが、こうして買い物に付き合うだけでも楽しいものだなと気付かされた。他人の喜ぶ顔や仕草一つで、こうも胸が高揚するものかと知ることができた。アルンは粗雑な街ながら様々な見どころがある。次はどこへ行こうかと、アイと一緒に過ごす時間が待ち遠しかった。
店を出るなり、アイは横溢に飛び跳ねていた。
アイとの束の間の別れが近付いている。
ずっと一緒にいたいが、これも仕方がないことだ。
「俺はそろそろ霊峰ロルヴィスへ行くよ。アイにはこれを渡しておく」
僕はお金の入った蝦蟇口をアイに手渡した。
「これは……? お金?」
「ああ、お金だ。この世界では、食べるにも泊まるにもお金が必要となる」
蝦蟇口の中には、およそ五千リオ相当の札が入っている。
これだけあれば、アイが不自由を感じることはないだろう。
「こんなにいっぱい……」
「一緒にいる時は、俺がお金を出す。こう見えて、大金持ちなんだぜ」
「ありがとう、エイタ。このお金は大切に使うね!」
「なくなったら言うんだぞ。幾らでも補充するからさ」
アイがこうして人格を持ったことは、僕が八年間アイに声を掛け続けたことと無関係だとは思えない。そのお陰で、アイは宿屋の店主の立場を追われたのだ。
アイは自らの意志で宿屋を出て、僕を探す決意をしたのだから。アイを路頭に迷わせるわけにはいかない。
「エイタがロルヴィスへ行っている間に、わたしはアルンを見て回っているね。美味しそうな料理があるお店を探してみる。帰ったら、一緒にご飯を食べようね!」
「ああ、楽しみにしているよ。じゃあ、行ってくる!」
《転送の札》を使い、僕は霊峰ロルヴィスへと向かった。
視界が切り替わる間際まで、アイは僕に手を振り続けていた。
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