第四章 偽りの罪状

 暖かい陽気に照らされながら、一行はアルンの通りを歩いていた。

 僕の隣には金髪の少女、閃龍ライハが並んでいる。フウカのはかりごとにより山頂では予期せず戦いを強いられることとなったが、なんとかライハを仲間として迎えることができた。

 しかしライハは僕に易々と従うことはせず、「満足のいく食事ができたら霊峰探索を手伝ってやる」――と無茶な要求をしてきた。憎々しいことこの上ない。

 奔放な少女達の中でもライハは特に我が強く、食事の好みも偏っている。一度訪れた飲食店にはなかなか再訪をせず、いつも違う店を所望してくるのだ。様々な食事をライハに提供してきたが、未だに我儘女王を納得させるには至っていない。

 いつになったら霊峰ロルヴィスに挑戦できるというのか。そうこうしている内に、霊峰トルエーノを下山してから一週間が経過してしまっていた。

「初心に返って、もう一度アルン飯店へ行かないか? まだライハが食べていない料理があるはずだ。あそこは結構な種類のメニューがあるんだ」

「エイタよ、アルン飯店のメニューはお主に会う前に制覇済みじゃ。他にもっと美味しいものは出せんのか? 余は今、モチモチしたものが食べたい気分じゃ」

「何だ、それは……? 注文はもっと具体的に頼む……」

 僕の提案は呆気なく一蹴された。

 少女達にとって食事は、フィヨルディアでの数少ない娯楽でもあるのだ。吟味したい気持ちはわからなくもない。お陰で店探しは難航していた。

 とはいえ飲食店の数も少なく、選択肢は限られている。商業区画に喫茶店のようなものを見たことがあるが、ライハを満足させられるとは思えない。

 すると困っている僕の姿を見て、アイが発案に参加してくれた。

「冒険者ギルドはどうかな? 食事できる場所があったよね」

「そういえばあったな。でも、あそこの料理は結構値が張るんだよな……」

「ほう……お手並み拝見じゃのう」

 確かに冒険者ギルドは、奥の空間の一部が食堂となっていた。数年前の記憶だが、料理の値段の高さに驚き、注文をせずに退店したことがある。

 他の案を考えていると、フウカが有無を言わせずに僕の腕を引いた。アイとライハを従えて、フウカは冒険者ギルドに向けて歩き出している。

「エイタ、行こうぜ。冒険者ギルドの場所は、アルンの中央付近だったな」

「……御意」

 僕は仕方なく、少女達に追従した。きっとまた、僕は奢らされることだろう。



 街を歩き出して間もなく、フウカとライハが辺りを警戒し始めた。

 眉間に皺を寄せ、顔を動かさずに視線を周囲に散らせている。

「……フウカ、ライハ、どうかしたのか?」

「しっ! ……前を向いておれ。疑心を気取られるな。誰かに見られておる……」

「ああ、かなり数が多いな。刺客か……?」

「え……? 本当か……?」

 二人に言われて気が付いたが、誰かに見られている感覚が確かにあった。ロルヴィスで魔獣に遭遇した時のように、敵意の入り混じった視線だ。この二人は僕以上に感覚が鋭いらしい。街に魔獣がいるとは思えないが、その正体が掴めない。

 通りすがりは、どういうわけか漏れなくこちらへ振り返っていた。街の人々は狐疑の視線を僕達に送り、ひそひそと耳語が聞こえてくる。

 まるで、不審者を目の当たりにしたかのように――。

「街の人がこっちを見てる……有名人になったみたい……」

 アイはライハの腕を抱いて背後に隠れている。

「そうであったとしても、良き意味での有名人ではなかろう。まったく……余を誰だと思っておる……? まるで異物を見るような目を向けおって……」

「あたしは不愉快だな。エイタ、お前が何かやったんだろう?」

「俺は何もしていない!」

 この奇妙な状況の原因を探るべく、僕が周囲をもう一度見回した時だった。

 あっさりとその答えが判明した。隣を歩く四天獣の少女を見ると、一方の頭には猫耳、もう一方の背には龍の翼が畳まれている。これでは目立つわけだ。

 少女達に気が付く様子は見られず、真剣な眼差しで警戒を続けている。

「おい……そこの阿呆ども。フウカとライハ……」

「ん? なんだよ」

「阿呆とはなんじゃ。無礼な」

 額に掛けた眼鏡を探すように、酷く滑稽な状況だ。

 笑いを堪えるのに苦労したが、僕は二人を諭すべく声を上げた。

「お前ら、猫耳と羽根を消し忘れているぞ! そりゃ目立つだろ!」

「「――――!」」

 フウカとライハは過ちに気が付き、お互いの姿を見て仰天している。

「あぁ、しまった!」

「羽根ではなく翼なのじゃ。虫みたいに言うでない。撤回するのじゃ!」

「どっちでもいい! 尻尾も消せ!」

 二人が狼狽する姿は可愛らしく、アイはクスクスと笑っていた。


    ◇


 冒険者ギルドの食堂は受付台の裏にあり、思っていた以上に空間が広く取られている。店が混雑していたため、二人掛けの卓を繋げて四人席を作って腰を掛けた。

 次々と料理が運ばれてくる。全部のメニューを持って来いとライハが言い出したので、幾つかに絞らせて注文し、バイキング形式で食事を取ることとなった。

「さっきはすまなかった。あたしらのせいで騒がせたな」

「もぐもぐ……ごめんなのじゃ」

 ライハは食事に夢中で反省の色が見えない。

 そして、ライハは食べ方が汚い。口の周りをソースで汚している。逆手でフォークを持ち、食事を掻き込む姿は幼児でも見ているようだ。

 おしぼりでライハの口周りを拭き取ってやると、ここも拭けと頬を差し出してきた。呆れたが、僕は仕方なく応じることにした。

「おい、ライハ、零すな。口を閉じて噛め」

「エイタはうるさいのう。さっさと揚げ物を追加で注文するのじゃ」

「先に皿を空にしろ。料理を残すことは許さないぞ」

「ライハ、わたしの揚げ物をあげるね」

 アイから揚げ物を皿に移され、ライハは幸せそうに顔を綻ばせている。

「アイにはお礼に、この肉の塊をあげるのじゃ」

「おい、ライハ、歯型の付いた食べかけをアイに押し付けるな」

「わたしは気にしないよ。このお肉、凄く美味しいよね」

「アイ、ライハを甘やかすな」

 放埓なライハの行動には疲れるが、アイに友達が増えて嬉しい気持ちもあった。ずっと孤独だった仮想世界で、こうして仲間と食卓を囲めるのは幸せなことだ。

 しかし、街中で起きていた異変は治まっていなかった。フウカの猫耳とライハの翼は既に隠したが、今も尚周囲から懐疑の目を感じるようになった。

 皆もそれを感じ取っている。警戒するようにと互いに視線を送り合った。



 ――すると、背後から突然の殺気を感じた。何者かがフウカを目掛けて刃物を振り下ろしたのだ。

 フウカは瞬時に振り返り、籠手で何者かの斬撃を防いだ。

「お前……何の真似だ!」

 フウカは風を発生させ、襲撃者を奥の壁まで吹き飛ばした。すると周りで食事を取っていた者達も立ち上がり、全員がこちらへ武器の鋒鋩を向けた。

 出入口を塞がれ、あっという間に凶器を持った男達に取り囲まれた。

「なんだ……こいつら……」

「お主ら、誰に剣を向けておるのじゃ。余が何者かわからんのか?」

 一体どういうことだろうか。受付のスニルまで銃を抜いている。

 考える間もなく、取り囲む集団が僕達に向かって一斉に吶喊した。

 僕達が攻撃される理由がわからない。まずはこの状況を脱するために、僕は攻撃を防ぎつつ思考を巡らせた。彼我の実力差は歴然としており、僕達が打ち負かされることはないだろう。アイもフウカから教わった格闘術を遺憾なく発揮して、襲撃者の攻撃を軽く往なしている。

 すると強烈な殺気を感じると同時に、パチパチと弾ける音が室内に響いていた。

「余を怒らせたのう。もうよい……皆殺しじゃ」

 ライハが二刀を握り締め、殺意を持って襲撃者の男に斬り掛かろうとしていた。

「待て! ライハ!」

 僕は間に入り、なんとかライハの斬撃を太刀で受け止めた。

「エイタ、なにゆえ邪魔立てをするのじゃ!?」

「街で人を殺すつもりか!? お前はもう魔獣ではないだろう! 頭を冷やせ!」

 先ほどからの襲撃でわかったことがある。フウカとライハが執拗に狙われている。魔獣を狩る時のように、明確な殺意を持って――。

「エイタ! 掲示板を見て!」

「――――!」

 アイの声を聞いて、僕は掲示板に目を移した。

 そして、目線の先にある光景に絶句した。なんと、クエストが更新されていたのだ。指定された魔獣の討伐や素材の蒐集など、ずらずらと懐かしいクエスト名が並んでいる。魔獣が再び出現したことが既に知れ渡っていたようだ。

 そして、僕達が襲われた理由が判明した。

 掲示板を見終わった時に、憂いは真実となった。

《メインクエスト:魔獣の王・四天獣の討伐》。

 ・四天獣――颱虎たいこフウカ。

 ・四天獣――閃龍せんりゅうライハ。

 ・四天獣――煌凰こうおうホムラ。

 ・四天獣――幽亀ゆうきセツナ。

 ご丁寧に顔写真まで添えられ、別枠で大きくクエストの紹介がされていた。

「メインクエストが更新されている……どうして……?」

「どうしろと言うのじゃ、エイタ!」

「こいつら、目が本気だぞ!」

 街の住人の殺意に疑問の余地はない。フィヨルディアの設定である――街の平和を脅かす魔獣。その首魁である四天獣が目の前にいるのだから。

「一旦退くぞ! 退路を確保しろ!」

「余に任せるがよい!」

 ライハが手を挙げると、落雷が発生してギルドの屋根を穿った。

 見上げると、ギルドの天井から空が見えるほどに大きな穴が開いている。

「この穴から脱する! 余に掴まるのじゃ!」

「――よし!」

 ライハが両手を差し出した。僕とアイがライハの手をそれぞれ握ると、発現させた翼を羽搏かせて勢いよく上昇した。風圧で襲撃者の動きを止めていたフウカは、敵の沈黙を確認すると天井を貫く穴へと跳躍し、ライハの背中に飛び乗った。

 そのまま三人でライハにしがみつき、空を飛んで街を離れた。


    ◇


 アルンに居場所を失った僕達は、エンマルクの北西にある洞窟で身を潜めていた。何のために作られたのかは不明だが、身を隠すには丁度良い空間だ。懐に眠っていた《焚火の札》を使用して、暗闇だった洞窟の中に明かりを灯した。

「なんだよ、あいつら! いきなり襲って来やがって!」

「あまり食べられんかったのう……」

 フウカとライハは、随分とご立腹のようだ。当人からすれば、クエストの存在など知ったことではない。ゲームの事情を押し付けられてしまったのだ。せっかく人間の姿で転生したというのに、この仕打ちでは可哀想だ。

 しかし、被害はそれだけに留まらない。四天獣である彼女達を庇い、共にあの場から逃走した僕とアイもアルンには戻れないことだろう。

 少女の姿をしているので特に疑問を抱かなかったが、ゲームの最終ボスである四天獣と共にいるこの状況が異常なのだ。

「フウカ、ライハ。人間を攻撃しないで我慢したな。偉いぞ。二人がその気になれば、建物ごと消し飛んでいただろうからな」

 少女達は理不尽な暴力に屈さず、誰一人として殺生をしなかった。

 魔獣の王である彼女達だが、心は人間であると僕は信じている。

「あたしらは、もう魔獣じゃないからな」

「ほう、そうなのか? 余は魔獣じゃなかったのか?」

 四天獣の二人は顔を見合わせて首を傾げている。

 フウカとライハで認識が違っていたようだ。それにしても、彼女達はそもそも魔獣なのだろうか。四天獣であれば、設定上は魔獣であるはずだ。しかし霊峰にいる魔獣と意思の疎通はできないが、二人とは心を通わせることができる。

 それに、彼女達がいたずらに人を襲うこともないだろう。実際に僕がログインを控えていた一箇月間、四天獣の少女達が人を傷付けた記録はないのだ。

「もう街へ戻れないなら、いっそのことアルンを魔獣の巣にしちまうか。あたしの霊峰にいる子達を送り込めば一晩で片が付くだろう」

「支配することは至極容易い。食事も宿も無料タダになるのう」

 僕が少し考え事している間に、少女達が何やら魔獣らしいことを言い出した。

 記憶を辿れば二人とも、霊峰山頂では僕に躊躇なく襲い掛かってきていた。レベル上限値である僕でもなければ、確実に殺されていたほどの猛攻だった。もしアルンの住人が霊峰に侵入していれば、同様に襲われていたであろうことは想像に難くない。少女達がその気になれば、設定通りにフィヨルディアを破滅に導くことは容易に可能なのだ。

 とはいえ、四天獣の二人は生まれてまだ一箇月程度しか経っていない。魔獣の王なんて大それた役割を与えられ、現在も凄い進度で成長を続けている。前世の記憶を一部継承しているため言葉の習得は既に終えているようだが、彼女達の精神は外見通りの幼い少女なのだ。今後の行動次第で、善にも悪にも染まる可能性がある。無下に扱っていい相手ではなく、冒険者ギルドで行われたNPCによる排除行為は完全に悪手であったと断言できる。

 不穏な発言をする二人に対し、アイが心配して窘めていた。

「二人とも、悪いことを考えちゃ駄目だよ。アルンを襲ったら、本当の悪者になってしまうよ……」

「はは、冗談だよ。あたしはアイが悲しむことはしない」

「支配した街に、アイの家を建ててあげるのじゃ。一緒に住むかの?」

 心配そうに目を伏せるアイを、ライハが優しく抱き締めている。二人はアイと仲が良い。アイと一緒にいれば、少なくとも悪に染まることはないだろう。

 すると、フウカがアイを撫でながら問題提起を発した。

「これからどうする? もうあたし達、アルンの宿屋には泊まれないだろう?」

「ああ、そうだな。どうしたものか……」

 フウカの言う通り、僕達はこれからの行動を決めなければならない。

 しかし、フィヨルディア唯一の街であるアルンに戻れないとなると、正直行く当てがなかった。宿屋も食堂も利用できないので、野営と狩猟が必要となる。

 これではゲームのジャンルが変わってしまう。ログアウトをすれば済む僕とは違い、少女達にとっては生存を懸けたサバイバルゲームが始まってしまったのだ。

 山での生活を基本とする四天獣はともかく、アイが気の毒でならない。

 僕がなかなか言い出せずに口籠っていると、アイが正鵠を射た結論を述べた

「アルンに戻れないなら、ロルヴィスかトルエーノが安全じゃないかな。霊峰にいる魔獣は、フウちゃんとライハの味方でしょう? 野宿でも、皆と一緒ならきっと楽しいよ!」

 アイは悲観的にならず、アルンに戻れないことを既に受け入れているようだ。

 優しい心を持った子だと、僕はしみじみ感心していた。指名手配されているフウカとライハに、厳しい現状の負い目を感じさせないようにしているのだ。

 アイの提案を聞き、フウカが真っ先に賛意を示していた。

「そうだな。じゃあ、ここから近いあたしの山に泊まろうぜ」

「そうしようか。皆、それでいいな?」

 しかしフウカの意見に対し、ライハが苦い表情を浮かばせていた。

「ロルヴィスは……却下じゃ。余は虫が苦手なのじゃ」

「ライハ、心配しなくていい。ロルヴィスに虫型の魔獣はほとんどいないよ」

「少しでもいたら嫌なのじゃ!」

 ここ一箇月で何か苦い思い出でもあるのか、ライハは断固として譲らなかった。 結果として、当人の根城である霊峰トルエーノで一泊する運びとなった。



 熾火を消し、僕達は洞窟の外へ出た。

 エンマルクの草叢が、夜風に揺られて静かに靡いている。

 既に辺りは暗くなっていた。そろそろ僕は元の世界へ帰る時間だ。舂く太陽の高さを窺っていると、僕の時間を気にする挙動にアイは気が付いていた。

「エイタ、そろそろ異世界へ帰る時間かな……?」

「ああ、皆と一緒にトルエーノまで行ってから帰るよ」

「…………?」

 フウカとライハは、先ほど僕とアイの間で交わされた問答の意味をわかっていない。ライハは訝しんで、僕の顔を覗き込んでいた。

「エイタ、どこかへ行くのか?」

「えっと……」

 僕が言葉を濁していると、ライハの質問にアイが代わりに答えた。

「実はね、エイタは異世界から来たの。太陽が沈み切る前に、エイタはいつも自分の世界へ帰っているのよ。ここから遠い場所なんだって!」

 アイの回答を聞いたフウカとライハは、目を丸くしてこちらを見ている。

 その表情には、嘲笑と落胆が見え隠れしているようにみえた。

「エイタよ……その設定は流石に無理があるぞ……」 

「うわぁ……アイに嘘をくなよ。可笑しな奴だな……」

「い、いや、本当のことなんだ……」

 僕の反論に耳を貸さず、二人からはクスクスと笑いが零れている。

 フウカとライハは、当然ながら僕が異世界人であることを知らない。だが信じてもらう必要もなければ、AIが進化した現在のフィヨルディアでは現実世界のことを伏せておいたほうがいいだろう。

 そして宿屋に泊まれない今、次のログイン場所がアルンの教会であることを思い出して頭が痛くなった。教会の神父に通報されないことを祈るのみだ。

 それはそうと、まずは少女達を休ませる必要がある。《転送の札》を買い込んでおいて正解であった。ライハが仲間になったことで、霊峰トルエーノへの《転送》の術式が有効に作用する。今後の移動手段として頼りになるだろう。

 僕達は互いに向き合って円となり、札の発動に当たって手を繋いでいた。しかし、フウカの手が挙げられておらず、僕の差し出した手は空振りとなってしまった。また僕に意地悪でもするつもりかと疑ったが、フウカは上の空で他方に視線が向けられていた。

「フウカ、どうかしたか?」

 フウカは東の方角をじっと見据えて、眉を顰めている。

「霊峰イスカルドへ、ぞろぞろと人が入っていくぞ。こんな時間に探索か……?」

「……え?」

 北の方角へ目を向けたが、宵闇も手伝って人影は確認できなかった。

「……俺には何も見えないぞ。そういえばフウカ、視力が高いと言っていたな」

 アルンの住人が街の外へ出ている。外へ出歩くNPCは、今までアイ以外にいなかった。彼らはプレイヤーのように、自らの意志で行動を起こしたのだ。

「四天獣――幽亀セツナの討伐に行くつもりかしら……」

「恐らくそうだろう。わざわざ夜に挑むとは強かな連中だな……」

 アイの予見は当たっていることだろう。

 クエスト表には、討伐目標の生息地が記されている。街の人々が危険な霊峰に挑む理由も、四天獣に課せられた偽りの罪状を真に受けた結果だ。

 NPCが夜のイスカルドを登っていることは、偶々だろうが見事な判断だ。実は視界の悪い夜に登山することこそ、幽亀セツナの攻略に於いて重要な一手となるのだ。幽亀セツナは四天獣で唯一、深夜に眠って動かなくなる。確実に不意打ちを狙えるため、目覚める前に袋叩きにすることができるのだ。

 これは僕が長年、幽亀セツナに挑んだ末に手に入れた情報だ。しかしNPCがそんな攻略情報を知るはずがなく、自力で辿り着けるとは思えない。こうして夜に挑んでいるのは、偶然による産物だろう。

「セツナを助けに行こうよ。フウちゃんとライハの友達でしょう?」

「えっと……」

 もっともらしいアイの提言に対し、フウカとライハは互いに顔を見合わせている。二人は悩むように考え込み、少しの沈黙が流れていた。同胞の救助を拒む理由などないはずだが、四天獣の少女達からは清々しい答えが返ってこない。

「うーん……。あたし達、セツナとは厳密には友達ではないんだよ。四天獣として同じ立場にあるわけだけれど……」

「そうなのか。仲が悪いのか? 以前にも、ホムラを入れて三人でよく遊ぶと言っていたな。そこにセツナは入らないのか?」

「仲が悪いとかではなく、セツナには会ったことがないんだ。ほら、あの子、霊峰の山頂から下りてこないからさ」

「へぇ、セツナは真っ当にボスキャラを演じているんだな」

 四天獣は通常、山頂から動くことはない。したがって、お互いを知らないことは至極当然のことだ。身勝手に根城を離れる、他の三名こそが異常なのだ。

「フウカとライハとホムラは、一箇月前に出会ったばかりなんだよな? よくこんな短期間で仲良くなれたものだな。ずっと昔から一緒にいるような、そんな関係に見えるよ」

 僕の言葉を聞いたフウカは、二人の仲を見せ付けるようにライハの肩を抱いた。

 ライハはフウカを受け入れ、身体を預けながら胸襟を開いた。

「フウカとホムラは、余の初めての友達なのじゃ。ずっと独りぼっちじゃった余と遊んでくれた、大切な存在じゃ。アイと出会えたことも喜ばしいことじゃ」

 ライハとフウカは、目を合わせて微笑んでいる。

 アイも二人の輪に加わり、身を寄せ合っている。

「あたしらは境遇も同じで、歳も近いからな。セツナとも仲良くできるかな」

「できるさ。助けが要るかはわからないけれど、セツナを助けに行こうか」

 三人とも賛同してくれたようで、拳を掲げて小さく鬨の声を上げている。

 そうして話は纏まり、霊峰イスカルドへ向かうこととなった。僕は雪山の攻略情報を仲間達に共有し、先を進む見知らぬ討伐隊を追い掛けた。


   ◇


 霊峰イスカルド。麓の鳥居を境に、山中は銀世界が広がっている。

 荒れた天候により視界が悪く、眼前の約五メートル先を見通すことができない。

 その光景はまるで、標高八千メートルの死地《デスゾーン》を彷彿させる。酸素濃度や実際の気温がそれに合致するわけではないが、いつかテレビで見た山岳特集を目の当たりにしている気分だ。

 それに、猛吹雪の轟音によって物音が聞こえないため、魔獣の気配を感知する能力を要求される。更に、問題は魔獣だけではない。霊峰イスカルドは一部氷河でできており、至るところに深い裂け目が存在する。魔獣に気を取られてクレバスに落ちれば、当然だが命はない。

 しかし山頂までの安全な道筋を熟知している僕に、一切の不安はなかった。

 僕が先頭を歩き、皆には僕と同じ道を歩くよう指示を出している。これでクレバスやホワイトアウトを確実に回避できる。

 自軍の戦力にも不足はない。特級魔獣であろうとも、四天獣にとっては何の障害にもならない。感知能力に優れる二人が、敵の奇襲に意表を突かれることもないだろう。アイのことはフウカとライハが護ってくれており、不安要素はない。

 何度も魔獣に遭遇したが、僕達は物ともせずに蹴散らして進んでいった。

「…………!」

 遠くで何かが聞こえてくる。先を進む男達の悲鳴だ。急斜面を滑落したか、或いは魔獣に襲われたのだろう。今となって、死亡したNPCの末路を想像して背筋が凍った。プレイヤーのように生き返れる保証はなく、命を失ったNPCがどうなるのか僕にもわからないのだ。

 仲間に明かすことはないが、僕は登山の目的に先へ進む討伐隊の救助も付け加えた。霊峰を引き返すこともまた危険が伴うため、セツナと合流をして《転送》の術式を機能させ、NPCには札を使って安全に帰ってもらおうと画策した。

「エイタ、寒いね……」

「ああ、凍えそうだ」

 この山は風景を見ての通り、恐ろしく気温が低い。あまりの寒さに、現実世界の身体が風邪を引かないか心配になるほどだ。

 だが残念なことに、防寒の手段はない。これはラズハによるログイン方法の内、数少ないデメリットの一つだといえよう。リアルに近い仮想現実であるが故に注がれる理不尽を、僕は甘んじて受け入れるしかないのだ。

 白い息で冷えた手を温めながら、アイは両手で身体を抱き締めて震えている。アイは僕と同様に寒さを感じているようだ。

 しかしフウカとライハは平然としており、気温の低さに対する反応を見せない。雪山の凍えるような寒さなど、どこ吹く風といった顔である。

「あたしはそこまで寒くないな。ほらおいで、温めてやるよ」

「アイよ、余の身体はぬくぬくじゃぞ。近う寄れ」

「わぁ、二人とも温かいね!」

 アイを温めるために、少女三人は身を寄せ合っている。

 前身の颱虎は毛皮を纏い、閃龍は鱗に覆われていたため、その保温機能を継承しているのだろう。現在は薄手の着物を着用し、尚且つ肌の露出があるので違和感がある。どう見ても、雪山を登山してよい服装ではない。

「あまり俺から離れるなよ。クレバスに落ちても知らんぞ」

「エイタよ、余をおんぶしろ。もう歩けぬ」

「もうすぐ着くから頑張れ」

「エイタは冷たいのう。まるでこの吹雪のようじゃ」

 よく考えると、僕達の行動は完全に悪役のそれである。四天獣を助けるために、討伐へ向かう人間を邪魔しようというのだ。冒険者ギルドで襲われたことは、ゲームの趣旨としては正しかったのではないかと思えてきた。



 僕達は行き詰まることなく山巓に到着した。辺りは地面から鋭く突き出た氷柱が堵列している。先に進んでいた人達はどうなったのだろうか。

 よく見渡すと、氷漬けになっている者や氷柱に貫かれている者が確認できる。どうやら先に登った者の中に生存者はいないようだ。吹雪に吹かれると、息絶えた者達は粉々に霧消していった。

 NPCを全滅させた氷の暴威は人為的に発動されたものだ。つまり幽亀セツナは眠りから覚醒し、侵入者に牙を剥いたのだろう。

 舞台の中央――氷柱の中心に、透き通るような青い髪の少女が佇んでいる。

 彼女が蘇りし四天獣の一角――幽亀セツナで間違いない。その玲瓏たる顔立ちは、冒険者ギルドの掲示板で見た写真と一致している。妖しいほどに白い肌と、綺麗に着付けられた水色の和服。その姿はまるで雪女のようだ。

 無傷であるところを見ると、助太刀は不要だったようだ。侵入者である僕に向かって、セツナからじっと冷たい視線が注がれている。

「君がセツナだな。無事でよかった」

「…………」

 青髪の少女は、応えずにこちらへ向かって歩いてきた。僕の目の前で立ち止まりニコリと笑うと、セツナは握手を求めるように手を差し出してきた。

 握手に応じようと、僕も手を差し出そうとした時だった――。

「――待つのじゃ! エイタ!」

「――ライハ!?」

 ライハが咄嗟に僕の手首を握り、無理矢理に手を引っ込めさせてきた。

 青髪の少女の掌を見ると、青白い魔力と共に氷霧が立ち上っている。もし僕がセツナの手に触れていれば、氷漬けにされていたことが見て取れる。

 ライハに命を助けられた。なんとセツナは、明確な殺意を持って攻撃を仕掛けてきたのだ。

 セツナの手に宿る脅威を感じ取り、ライハが対象を追い払うべく小太刀を一文字いちもんじに振り抜いた。目にも留まらぬ一振りであったが、セツナはライハの抜刀が始まる前に身を翻し、後方へ大きく距離を取っていた。

 セツナは身に纏う空気がフウカやライハとは違う。意思の通わない山中の魔獣と同様に、慈悲の心を一切感じない。まるで昆虫、否、機械のようだ。

 奇襲に備えて、フウカが自ら前へ出た。相手の攻撃手段が不透明であるため、動体視力に優れる自分なら対応が可能だという判断だろう。

「セツナ、聞け! あたしは四天獣――颱虎フウカ。あたしらは戦いに来たんじゃない。必要なかったようだけれど、お前を助けに来たんだ!」

 ライハもフウカの隣に並び立った。二刀は既に抜かれており、牙を剥く敵に対して威嚇をしている。こういった時に四天獣の強さと侠気は、本当に頼りになる。

「牙を納めよ、セツナ。余は四天獣――閃龍ライハじゃぞ?」

 フウカとライハが説得を試みたが、セツナは不敵に笑っている。

「あなた達、どうして人間と一緒にいるの?」

 セツナが口を開いた。敵意を撒き散らせ、害心を緩める気はないようだ。

「この二人は人間だが……あたしらの友達だ」

 フウカの発言に対し、セツナは溜息をいて目を伏せていた。

「……あなた達には失望したわ。四天獣としての役割も果たせないなんて。人間は敵性対象なのよ? 今すぐにそこの二人を殺して、自分の霊峰に戻りなさい」

 セツナは冷酷な目でこちらを睨め付けている。フウカとライハのように、仲良くはできなさそうだ。しかし四天獣としての観点で言えば、セツナの言っていることは至極真っ当ではある。

 だがそんなセツナの正論を、あっさりと受け入れるライハではない。

 金髪の我儘女王は苛立ちを露わにし、鋭い眼光でセツナを睥睨した。

「セツナよ、誰に向かって指図をしておる……? 余が人間とおって、お主に不都合でもあるのか? つまらぬ口出しをするな。もうお主に助けが必要ないことはわかった。すぐに下山してやるから、お主はいつまでもここに引き籠っておれ。余はもう二度とお主に会ってやらぬ」

 ライハは踵を返し、目線で僕達にも下山の指示をした。

「そう……残念ね。同胞を殺さなければならないなんて……」

 一言呟いてセツナが手を翳すと、眼前に氷の壁が出現して帰路を塞がれた。ライハがもう一歩前へ出ていれば、氷の中に閉じ込められていたことだろう。

 挑発のようにも思えるセツナの行動に、ライハは怒りを露わにしていた。

「何の真似じゃ小娘! 余と戦うつもりか!?」

「颱虎、閃龍、四天獣としての矜持を持たないあなた達は死んだほうがいいわ。死んだらきっとまた生まれ変わるでしょう。私達は一度死んだのだから」

「――――!」

 セツナには前世の記憶がある。つまり、非常にまずいことが起こってしまう。

「私が転生したのは、恐らくあなたを殺すためよ。エイタと言ったかしら? 他人の寝所に入り込み、執拗に私を斬りつけた後、山に火を放った最低の男……」

 セツナは僕を指している。やはり僕のことを知られていたようだ。当の被害者から聞かされると、僕の行いがあまりに猟奇的に思えてきた。

 彼女の恨み節を聞き、フウカとライハは瞠目して僕の顔をまじまじと見ている。僕の所業に対して、ちょっとやり過ぎだと引いているようだ。

 勝手に抗弁をさせてもらうと、当時の幽亀セツナは巨大な亀の魔獣であり、仕方がないと言わせてほしい。共に戦う仲間がいなければ、そこまでしないと幽亀は倒せなかった。僕だって前身の彼女には、千回以上も殺されてきたのだから。

「戦うしか道はないのか……」

 僕は腰の太刀を抜いた。戦いを前にして、早い鼓動が胸を打っている。

 四天獣の強さは尋常ではない。何度も壊走を繰り返した末に、なんとか一勝を捥ぎ取った相手なのだ。

 セツナは憤懣遣る方ない様子で、殺意を犇々と漲らせている。フウカとライハの時のように、途中で打ち解けるなんて展開は期待できない。厳しい戦いが予想されるが、僕には仲間がいる。いつものように独りではない。

 フウカを真似て構えを取るアイに対して、僕は優しく手で制した。

「アイ、下がっていてくれ。四天獣の強さは知っての通りだ」

「う、うん。そうだよね……。わたしじゃ役に立てないよね……」

 アイはがっかりしたように引き下がった。

 四天獣の強さを知り、怒り狂うセツナを目の前にしてもアイに怯える様子はない。これは鈍感や無知ではなく、仲間を助けたいという気持ちの表れだ。危険を顧みず、協力をしたいという気概が滲み出ている。

 それでも、アイを四天獣と戦わせるわけにはいかない。僕やフウカ、ライハによる支援も、どこまで満足に行えるかがわからないのだ。四天獣――幽亀セツナは、付け焼刃の連携を試せる相手ではない。

「でも、救援を求める場面が訪れるかもしれない。アイ、心の準備を頼む」

「うん! わかった!」

 アイは気持ちを昂ぶらせ、握り拳を振って返事をした。その姿を見たフウカとライハは少し顔を緩ませた後、覚悟を決めて害敵へと向き直った。

 セツナは数的不利を気にする素振りも見せず、勝利を確信したように笑みを崩さない。同格の四天獣二体を相手にとっても、勝てると思っているのだろうか。

 セツナが何やら札を翳すと、長さ五尺ほどの錫杖が出現した。先端の輪形にある四つの遊環が、シャラシャラと不気味な音色を奏でている。

「錫杖……だと?」

 颱虎フウカの武術、閃龍ライハの二刀については何となく前身との相関性を理解できた。だが錫杖を操るセツナは、前身の幽亀とは全く異なる戦型が予想される。僕の用意した攻略が使えず、ここで新たな対策を練らなければならない。

「霊峰イスカルドの王、四天獣――幽亀セツナ。侵入者の排除を実行するわ」

 名乗りと共に、セツナの魔力が爆発的に増大した。セツナが握ると錫杖は青白く輝き、肌を突き刺すように辺りの気温がみるみる下がっていく。



 フウカやライハと比べるとセツナは動きが遅いが、戦いは至難を極めていた。

 セツナが錫杖の柄頭で地面叩くと、瞬く間に地表が凍り付いていく。

 この凍り付いた足場では滑り、フウカは普段の敏捷性を発揮できないでいた。僕も同様に行動を制限され、氷に足を取られて思うように走れない。足元の氷を割って、それをセツナが再び凍らせる鼬ごっこが繰り広げられている。

 錫杖での防御も固く、近接戦闘でもなかなか崩せない。だが空を飛べるライハは地勢の影響を受けず、セツナと互角に渡り合っている。

「大口を叩いた割には、大したことがないのう。余の敵ではないぞ」

「ちょろちょろと目障りね。その翼を凍らせれば大人しくなるかしら」

 セツナはライハの雷撃を防ぐことに手を取られ、他への注意が疎かになっていた。別方向からセツナの背後へと回り、僕は攻撃の機会を窺った。多勢の利を活かした連携が噛み合い、遂に僕の斬撃がセツナの身体に届いた。

 だが、どうもおかしい。斬撃を受けてもセツナは動じない。当たっていないかのように振る舞い、表情を変えることなく攻撃を続けている。

 続いて放たれたフウカの突きが、セツナの脇腹を正確に捉えた。すると、セツナの身体から弾けるように氷の破片が飛散した。

「氷……?」

 拳の感触に違和感を持ったフウカが、驚嘆して呟いていた。

 僕はその有様を見て、過去にセツナと戦った時のことを思い出した。セツナの戦法について、仲間に共有しておく必要がある。

「そうか、そうだった! フウカ、ライハ! セツナは常に氷を纏っている! 生半可な攻撃ではダメージが通らない!」

 セツナは防御性能に特化した性質を持っている。下級魔術《氷纏鎧ひょうてんがい》――氷の膜を常時身に纏い、一定以下のダメージを通さない。

 この術により、少しずつ攻撃を当ててダメージを蓄積させる作戦は通じない。素肌と見分けがつかないほどに極薄だが、その氷の耐久力は見かけ以上に高い。更に、何とか氷の膜を砕くことができても、すぐに再生してしまうのだ。

 僕が前回の戦いで火を放ったのは、この防御術を破るためだ。魔術の使えない僕は《松明の札》や《焚火の札》などの火が出る札を買い込み、霊峰イスカルドの山頂で一時的な山火事を発生させた。幽亀セツナに単独で勝つことは不可能だと判断し、強硬手段に出たのだった。だが現在はそんな準備があるはずもなく、正攻法でセツナに挑まなければならない。

 するとフウカは氷の防御を破るべく、すぐさま対策を講じていた。

「なるほど、小細工は通じねぇか。威力を上げるぜ」

 フウカは術のギアを上げ、風の魔力を暴走させた。掌に生み出された小さな台風が、唸りを上げて拳に巻き付いていく。これほどの力を以てすれば、氷の鎧を貫くには充分だろう。気を抜けば吹き飛ばされそうな暴風が拳から発せられているが、これで下級魔術だというのだから四天獣の魔力は本当に底が知れない。

 四天獣同士の死闘は、まさに天変地異と呼ぶに相応しいほどの規模だ。両者は出の速い魔術で牽制し合い、必殺の切り札を狙い合っている。

 だが竜虎相搏の読み合いは、思わぬところで決着を迎えることとなる。

 纏わりつく拳士を遠ざけるために、セツナは大きく錫杖を振り回していた。

 その僅かな隙を見逃さず、ライハが空中からセツナに突撃する。ライハの帯電した小太刀が霹靂のように閃き、見事にセツナの正中を貫いた。

「――何じゃと!?」

 しかし、ライハが放った突きには手応えがなかったようだ。

 躱されたのか、周囲を見渡してもセツナの姿が見えない。

「セツナが消えた……。逃げたのか……?」

 辺りを見渡していると、突然ライハが吐血した。

「ぐうっ!」

 苦悶の表情を浮かべるライハの腹には、セツナの錫杖が貫かれている。

 勢いよく錫杖を引き抜かれたライハは、鮮血を撒き散らせて力なく倒れた。

「ライハ! 生きているか!?」

 ライハからの応答はなく、俯せで倒れたまま動かない。

 崩れたライハの背後には、何食わぬ顔でセツナが立っている。

「……あと三匹ね」

 セツナは掌の氷を弄び、嘲るように口角を吊り上げている。

 僕は心臓が凍り付くような錯覚を覚えた。だがセツナの術の脅威に絶望する時間も、ライハを心配する余裕もない。

 次の標的に目を向け、セツナは構うことなく攻撃を続けている。二次被害を防ぐためにも、戦闘から意識を外してはならない。

 セツナが手を翳すと、地表から次々と氷の刃が屹立する。下級魔術《凍槍林とうそうりん》。心の揺らぎを突いて放たれる氷柱に対し、アイの光の結界で耐え凌いだ。セツナは命を奪うことに躊躇がない。容赦なく致死の攻撃を繰り出してくる。

 セツナは姿を晦ませる術を持っているようだ。この異能は、前身との戦いでは見たことがない。極めて厄介だが、新たな攻略法を実戦で考える必要があった。

 まずはライハの出血量が多いため、早急に手当てをしてやらなければならない。僕が判断を誤ればライハは助からない。絶対に仲間を死なせるわけにはいかない。

「アイ、ライハの手当てを! フウカは俺と来い!」

「任せて!」

「いいぜ!」

 倒れたライハをセツナから遠ざけるために、フウカが突風を起こしてセツナの動きを堰き止めた。その隙にアイがライハを抱えて、その場から離脱した。

 僕は無防備なアイが狙われることに備え、間に立ってアイの背を護った。

 三人は連動して役割を果たし、致命傷を負ったライハの救出に成功した。

「ライハ、死なないで!」

「アイ……すまぬ……」

 ライハは目が虚ろになっており、声が掠れている。

 アイは手をライハの傷口に当て、回復魔術での治療を始めた。

 特級魔術《治癒光ちゆこう》。回復や支援の術は《秘術》とも呼ばれ、一般的な魔術とは仕様が大きく異なっている。この世界の回復魔術は計算されたように不便な点が多く、まず挙げられるのが魔術の級位を問わず硬直時間が一定でないことだ。施術中は完全に無防備となり、術師は戦線を外れる必要がある。息の合ったパーティでなければ、無用の長物と化してしまうほどに実用性がない。

 それに回復に時間が掛かる上、体力の消耗が異常なほどに多いのだ。その燃費の悪さから、一日に治療できる回復量は微々たるものである。死の淵から救い出すことが目的で、手軽に傷が完治して戦線復帰できる代物ではない。

 これだけの致命傷では、治療が終わってもライハはこの戦いに戻ることができないだろう。アイはこの回復魔術の仕様を理解した上で、光の魔術を修得することに決めた。仲間を死なせないためだ。この世界では応急処置を疎かにすると、すぐに絶命しかねないのだ。

 アイを治療に専念させるために、僕とフウカでセツナの邀撃を行った。

 僕の異能《飛剣》とフウカの《月剣刃》を交互に放ち、動きや攻撃の指示を目配せで行った。戦闘が進むにつれて、二人の連携が合うようになってきた。

 セツナが放つ氷の波涛を回避するために、フウカは天高く跳び上がった。空中で無防備を曝したことにより、フウカはセツナに急所を狙われている。

 しかしフウカは、空間を蹴って更に上空へと回避した。なんとフウカは脚に風の靴を纏い、二段の跳躍を成功させていた。

「フウカ、空間を蹴って移動できるのか!? いつの間にそんな技を……?」

「さっき思い付いたんだよ。身体が羽根のように軽いぜ。あたしは自分の異能を把握できていなかったみたいだ」

 異能《天駆てんく》。跳躍は二段では留まらない。フウカは水を得た魚のように空を駆け、不規則な動きでセツナを撹乱した。セツナはフウカの動きを見切れずにいる。

 そしてフウカの拳は風切り音を巻き起こし、上空からセツナを強襲した。

「もらったぜ!」

 強化されたフウカの拳はセツナを貫き、石造りの地表を砕いた。恐ろしい威力の拳撃だ。如何なる魔獣であろうと耐えることはできないだろう。

「――!? また消えやがった! どこへ行った!?」

 しかし、またもやセツナの姿がない。

 フウカの一撃は躱せる距離ではなかったはずだ。ライハがやられた時を思い出し、フウカは奇襲に備えて聴力を研ぎ澄ませていた。

 しかし警戒は実を結ばず、フウカは魂を抜かれたようにその場で頽れた。倒れたフウカの背後には、またしてもセツナが立っている。

「ふうっ……あと二匹。一人ずつ順番に殺してあげるわ」

 フウカの身体には霜が張り付き、薄く過冷霧が立ち上っている。

 恐らくだが、フウカは凍らされたとみて間違いないだろう。

「フウカ、しっかりしろ! 生きているか!?」

 フウカは応えない。死体のように動かず、生きているかも定かではない。

 消えたセツナからは、足音どころか空気の揺らぎすらも感じ取れなかった。視線を気取るフウカですら、セツナの気配を見抜けなかったのだ。

 攻略の糸口が全く掴めないが、消える術を破らなければ同じことの繰り返しだ。彼女の言う通り一人ずつやられていき、このまま全滅してしまうことだろう。

 仲間を失う恐怖のあまり、僕は戦慄していた。脳裡の奥底で僅かながら想定させられていた敗北という名の死神が、ひたひたと足音を立てて近付いてきたのだ。



 セツナの異能は、姿をただ晦ませるものではなかった。その正体は、実体を消失させる能力だ。異能を発動中は存在そのものが失われ、感知することさえ叶わない。完璧とも思える異能だが、何か弱点があるはずだ。この戦いをじっくり振り返ると、その端緒が少しずつ見えてきた。

 フウカが倒される瞬間を僕は見ることができていた。フウカの背後、何もない無の空間からセツナが姿を現したのだ。実体の消失中はこちらの攻撃が当たらない。だが消えたままでは、セツナ本人も攻撃ができないはずだ。でなければ姿を現す道理がない。セツナが消えた位置と出現位置が異なっていることから、消失中は移動ができるようだ。

 アイには仲間の回復を担当させている。これから僕は、単独でセツナと戦わなければならない。かつては何度も敗れて攻略法を確立させていったが、今回はその作戦を使うことはできない。僕の敗北は、仲間達を死に追い遣ってしまうからだ。

 先ほどは気が動転してしまったが、僕の心を落ち着かせる吉報があった。

 NPCの死は亡骸が残らず、塵となって消え失せる。したがって、凍らされたまま固まっているフウカは確実に生きているのだ。

 ライハにも同様のことが当て嵌まる。このままアイの治療を受けることができれば、二人が助かる見込みは充分にある。

 後は僕がセツナを食い止め、勝利するだけだ。簡単なことではないが、成し遂げなければならない。僕は唯一のゲームクリア者だ。レベルを九九九まで上げ、四天獣を討ち滅ぼしたフィヨルディアの英雄なのだ。その矜持と仲間の命を背負って、僕は太刀を強く握り締めた。

「こいよ、幽亀セツナ。俺は絶対に負けられない!」

「……望み通りに。もう一人の少女には、すぐあなたの後を追わせてあげるわよ」

 セツナは錫杖を振り回し、剣士である僕に対して肉弾戦を挑んできた。僕の土俵で勝とうという算段だろうか。どういうわけか、セツナは異能を使わない。何か発動条件や副作用がある可能性も考えられるが、セツナの意図が読めない。

 接近戦は僕が上だ。このまま剣戟を続けていれば、付け入る隙はある。

 斬り合いの最中、僕が攻略に向けての思考を巡らせていた時だった――。

「……うっ!」

 急にセツナが頭を抱え、顔を引き攣らせていた。息を荒らげて呻吟し、セツナはその場で蹲った。

「なんだ? どうした!?」

 こちらの攻撃は、セツナにほとんど当たっていないはずだ。

 罠である可能性もある。僕は警戒をしながら、恐る恐るセツナに近付いた。

 セツナは内股に座り込んだまま、苦しそうにこちらを見上げている。

「『制限』がきたようね……あなた達の勝ちよ。さぁ、私を殺しなさい」

「何を言っている? 『制限』……? どういうことだ?」

 セツナからの応答はない。セツナはそのまま倒れて意識を失った。


    ◇


 アイはフウカとライハの治療を終えたようで、三人がこちらへと近付いてきた。

 凍らされていたフウカには、《松明の札》で火を灯して暖を取らせた。

「……終わったようじゃな」

「エイタがセツナを倒したの?」

 仲間の疑問はもっともだが、僕は首を横に振った。何が起こったのか、僕自身も事態を把握できていなかった。

「……違う。俺の攻撃は致命傷にならなかったはずだ。急にセツナが倒れて……意識を失ったんだ。何か……『制限』がどうとか言っていたが……」

 セツナの言葉の意味を誰もが理解できず、場に数秒の沈黙が流れていた。

 フウカとライハは、悔しそうに歯を口唇に食い込ませている。二人ともフィヨルディアの頂点に君臨する立場にあり、戦闘に関しては絶対的な自信を持っていたはずだ。こうも容易く破られては立つ瀬がないのだろう。

「こいつ、化物みたいに強かったな。あたしら四人掛かりで勝てないなんて……」

「うむ。こんなに強い奴は初めてじゃ。どうする? こ奴、殺すか?」

「…………」

 僕は倒れて動かないセツナに目を向けた。こうして姿を維持しているということは、セツナは当然だが生きている。確実に殺すなら、今しかないのだろう。

 だが僕は、このままセツナにとどめを刺す気にはなれなかった。

「セツナは、四天獣としての役割を全うしていたに過ぎない。俺の目的は四天獣の討伐ではないし、クエスト達成の報告に行ってもギルドで捕らえられるだけだろう。俺はこのままセツナを置いて下山したい。殺す必要はないと思う……皆はそれでいいか?」

 僕は自らの考えを開示し、仲間達に同意を求めた。

 セツナの首を土産にギルドの信用を取り戻す手もあるが、それではどの道、フウカとライハは街に入れない。それに、僕は転生したセツナを殺したくない。

「……まぁよかろう。この蟄居の小娘とは、もう会うこともないじゃろう」

「そうだな。強かったし、味方になったら頼もしいのにな……」

「友達になれるかと思ったのに……」

 あれだけ僕達を苦しめた相手だったが、皆に恨み辛みはないようだ。

 とどめを刺すことはせず、セツナを置いて下山することとなった。



 セツナが生きて山頂にいる以上、霊峰イスカルドでは《転送の札》を使用できない。四天獣の許諾があれば《転送》の効力を有効にできるが、セツナが気絶しているためそれは叶わない。

 仕方なく歩いて下山し始めたところ、武装した男がぞろぞろと山頂へ登っていくのが見えた。人数は八名。少しルートが逸れていたため、彼らは僕達の存在に気が付いていない。

 僕は足を止めた。彼らが霊峰の山頂を訪う目的は一つしかないのだ。

「幽亀セツナはどこだ? そこで寝ているガキか?」

「間違いありません! 奴です! 今が討ち取るチャンスです!」

 案の定だが、山頂からセツナについて言及する声が聞こえてきた。クエストの報酬に目が眩み、無謀にも四天獣に挑もうというのだ。

 だがセツナは気絶しており、氷の鎧も解除されていることだろう。その小さな身体に刃物を食い込ませれば、誰にでも彼女を討ち取れる状況だ。

 セツナを助けに行こうか迷ったが、それをしてしまうと僕は本当に魔獣の側となってしまう。人間に仇なす者だと言われても、何も言い訳ができない。

 どうしようかと悩んでいると、アイが声を小さく張り上げた。

「セツナを助けよう! わたし、放っておけないよ!」

 アイの目に迷いはなかった。アイのお陰で、僕にも決心がついた。

「行こう。セツナを救出するために、闖入者を追い払うぞ!」

「よしきた!」

「ふっ、いいじゃろう」

 フウカとライハも遅れて賛意を示した。

 二人は、人間である僕とアイの決断に委ねてくれたのだ。

 僕達は山頂へと舞い戻り、現れた男達の前に立ち塞がった。



「警告だ。このまま下山してくれ」

 できれば人間を攻撃したくない。魔獣以外に太刀を振るうことは、ここがゲームの世界であっても殺人に他ならない。もしNPCがプレイヤーと同様に生き返ることができても、殺されたことは永遠に記憶に残り続けるだろう。冗談話では決して済まない。彼らはプレイヤーではなく、この世界に於ける人間なのだから。

「エイタとやら……お前は自分が何をしているのかわかっているのか? お前が四天獣の討伐者だという掲示板の記載は誤りか? なぜ四天獣が生きている? どうしてお前は、仲間のように四天獣を引き連れているんだ?」

「…………」

 この男の言う通り、僕のこの行動は不条理極まりない。

 人間が四天獣と行動を共にし、更に幽亀セツナを庇っているのだから。四天獣が蘇った理由は僕にもわからない上に、彼らにとっても知る由のないことだ。

「下がれ、エイタよ」

 答えられずに押し黙る僕を見兼ねて、フウカとライハが前へ出た。二人は既に戦闘態勢だ。風神と雷神さながら、練り上げられた魔力が場を支配していく。

「お主が手を下す必要はない。ここは余の仕事じゃ」

「あたしらは正真正銘の四天獣だからな。魔獣にやられるなら、こいつらも文句はないだろう。切り刻んで雪に埋めてやるよ」

 二人とも、セツナとの戦いで負った傷は深い。強気に出ているのは虚仮威こけおどしだが、そうとは感じさせない闘志が犇々と伝わってくる。

 魔獣の王たる虎と龍の威圧に圧倒され、男達は大いに怯んでいた。

「くっ! 貴様ら! なぜ魔獣が人間に与しているのだ!」

「ここは退くぞ。四天獣を二体も相手にできん!」

「覚えておけ、エイタとやら。貴様はフィヨルディアを滅ぼすつもりなのだな!」

「俺は…………」

 何も言えなかった。世界を滅ぼすという設定の四天獣を庇っているのだ。

 つまり彼の言う通り、世界滅亡に加担していることとなる。



 少女達の糊塗が功を奏し、不満を漏らしつつも男達は下山していった。

「引き下がってくれたようだ。フウカ、ライハ、助かった。手を煩わせたな」

「別に何もしていないよ。それよりエイタ、大丈夫か? 無理をしていないか?」

「クク……奴らにとってみれば、お主はもう魔獣の親玉じゃ」

「エイタ、わたしのせいでこんなことに……」

 落ち込むアイの頭に手を置いた。これはアイのせいではない。少し躊躇したが、僕自身もセツナを助けたかった。

 そして探索が楽になるだろうと、最初に四天獣フウカの同行を許したのは僕だ。そこから全てが始まったのだ。アイに悲しい顔をさせるわけにはいかない。

「アイは何も悪くない。セツナを助けたことも、フウカとライハを帯同させていることも、俺は後悔していない。フウカもライハも、大切な仲間だと思っている」

 僕の言葉を聞き、緊迫していたアイの表情が少し和らいだ。

 するとフウカとライハが僕を揶揄って、脇腹を指でつついてきた。

「仲間じゃて。余に人間の仲間ができるとはのう」

「なんだか照れるな。あたしも皆といると楽しいよ」

 仲間だと言われて満更でもないようだ。二人とも嬉しそうに顔が綻んでいる。

 しかし、僕達が抱えている問題は何も解決していない。僕達はこれから、アルンに戻ることなく生活をしなければならないのだ。

 すると少女達は率先して、今後の動きについて話し合っていた。

「無駄に時間を食っちまったけれど、ライハの山に直行しようか」

 四つの霊峰は連なっているため、仮想現実である今なら下山せずとも隣り合う霊峰に渡ることができる。霊峰間の境界は厳しい地勢であることが予想できるが、ライハの飛行能力があればなんとかなるだろう。

 フウカの提案が既定路線であったが、アイが別の案を提示していた。

「その前にホムラに会わない? フウちゃんもライハも、ホムラとは仲が良いんでしょう? わたし、ホムラに会いたい!」

「おう! ホムラは良い奴だぞ。今すぐに会いに行こう!」

「ホムラがいれば、セツナには苦戦しなかったじゃろうな。ホムラは炎の魔術を操るからのう。セツナが炎に怯え散らかす様を見てみたいわい」

 ホムラに会うのは良案だ。二人とも、ホムラとは既に意気投合している。アルンの人間を敵に回してしまった以上、戦力が多いに越したことはない。

 しかし、疲弊した少女達には休息が必要だった。これは賭けだが、僕にはゆっくり休める場所の目星がついている。

「ホムラに会いに行くより先に、ロルヴィスの奥地を越えよう。ライハがいれば奥地の崖を越え、霊峰の向こうの世界へ行くことができる。皆、ふかふかの布団で寝たいだろう?」

「「「ふかふか……!」」」

 一同は『ふかふか』という単語に心を奪われ、目を輝かせている。

 アイは僕の考えを汲み取り、山頂から遠くに見えた謎の街を思い出していた。

「霊峰ロルヴィスの奥地を越えた先の街……アルンに戻れないから、その街を拠点にするのね? いい考えだわ!」

「その通りだ。アルンの住人は霊峰の奥地を越えられないからな。多分……」

 フウカもライハも、わざわざ本拠地を離れてアルンの宿屋に泊まりに来ていた。その行動を考慮すると、山ではなく布団で眠りたいはずだ。

 この二人は四天獣であるにも拘わらず、欲望に忠実に生きている。己の霊峰を護るセツナのほうが随分と偉い。

 AIがより発達していると考えてもよいのだろうか。彼女達は、もはや人工知能だとは信じられないほどに成長している。

「その前に飯じゃ。エイタよ、馳走を用意するのじゃ」

 ライハの言葉を聞いて、三人とも両手をこちらへ差し出していた。

 残り数少ない食料系統の札を選ばせ、僕は少女達に弁当を振舞った。よほどお腹を空かせていたのだろう。少女達は黙々と弁当を食べて英気を養った。

 気が付けば、既に日が落ちて数刻が経過していた――。


    ◇


 深更のフィヨルディアで過ごすのは、僕にとっては今日が初である。

 夜の帳が下ろされたロルヴィスの奥地は、いつもと違った姿を見せていた。亭々たる木々は疑似的な月明りすら届かせず、地上に暗黒の世界を作り上げている。

 四天獣の二人は夜目が利くので、僕はフウカの、アイはライハの背に乗った。

 フウカとライハがいれば、すぐに霊峰の奥地を突破できるはずだ。早く謎の街に着いて、皆を休ませてあげたい。

「時にエイタ、我が山の奥地へは行ったのか?」

 険しい山林を駆ける最中、ライハが声を掛けてきた。

「……行ったことはある。でもトルエーノの奥地は異常なほどに地形が険しく、落雷の頻度もかなり多かった。進めそうになかったから、途中で引き返したよ」

「ほう……落雷も岩場も余には問題なしじゃ。次はトルエーノへ行くとしようぞ」

「落雷をライハの力で止められるのか?」

「天候操作は四天獣の本領じゃ。雷雲を取っ払えば仕舞じゃ」

 ライハは得意げに鼻を鳴らしている。

「そうか、心強いな。いつか一緒に行こうな」

「うむ、次の楽しみじゃ」

 四つの霊峰の内で奥地を越えられそうな山はロルヴィスだけだったが、四天獣の少女達と一緒なら他の霊峰も踏破できそうだ。いつか皆で、全ての霊峰を制覇したいと思う。そのためにも、安定した居住地を見付けなければならない。

「エイタ……」

 アイは心配そうに、眉を顰めている。

「アイ、どうした……?」

「……異世界には戻らなくていいの?」

 僕が夜半を過ぎてもこの世界にいることを、アイは心配してくれていた。

「大丈夫。明日は土曜日……ええと、つまり大丈夫な日なんだ」

「ドヨウビ……? まぁ、問題がないのならよかった」

 アイはホッと胸を撫で下ろし、愁眉を開いている。どうやらアイは自分事のように、本気で僕のことを気に掛けてくれていたようだ。

 仮想現実に於けるログアウトの方法は限られている。瞑目して三十秒が経過するか、現実世界の身体が目覚めるかの二つに一つだ。ラズハによる仮想現実は夢の中であるため、現実世界の身体の覚醒には抗えない。騒音や尿意であろうと、強制的に起こされてしまう可能性があるのだ。

 一度目が覚めるとすぐには入眠できないので、長時間に渡る仮想世界への滞在は危険である。急に姿を消してしまっては、少女達を驚かせてしまうことだろう。

「異世界人だの、ヘンテコな設定を守るのは大変じゃのう」

「ヘンテコで悪かったな……」

 ライハは茶化してくるが、この件を信じさせる必要はない。



 奥地の地形を乗り越え、以前に足止めをされた崖の前に到着した。

 霊峰ロルヴィスの奥地に突如として現れ、冒険者の侵入を拒む天然の要塞。

 現在は霧が晴れており、薄っすらと対岸を確認できる。改めて見ても、跳躍でどうにかなる距離ではない。

 僕は恐る恐る崖を覗き込んだ。以前に《エルスカーの花》を採取した崖とは異なり、崖下には剣山のように尖った樹林が一帯を埋め尽くしている。まるでベネズエラにあるギアナ高地のようだが、崖の深さは比較にもならない。辛うじて底の存在を確認できるが、地球では有り得ない高度だ。飛行機から地上を見下ろした時の景色に近く、落ちれば即死であることに変わりはないことだろう。

「ここがお主らでは越えられなかった崖じゃのう。余の背に乗るのじゃ。纏めて対岸まで運んでやろう」

 ライハは得意げな笑みを見せながら、背に龍の翼を具現化させた。

 ところがフウカは、何かを思い出すように一点を見詰めている。

「フウカ、どうした?」

「あたし……行けるかも!」

 フウカは僕を背負ったまま、崖へ向かって飛び出した。

「お、おい――!」

 自殺行為とも思える突飛な行動だが、すぐに僕はフウカの意図を理解した。

 フウカは落下することなく空を駆け抜け、あっという間に対岸の崖へと辿り着いたのである。セツナとの戦いで見せた異能《天駆》を、完全に物にしている。

「この力の存在を以前に知っていれば、もっと早く奥地を越えられたのになー!」

 対岸に着地したフウカは、悔しさと喜びが織り交ざった表情を浮かべている。

 フウカは転生して一箇月ほどしか経っていない。前世の知能を継承しているものの記憶がはっきりしていないため、自身の技を忘れていたようだ。前身の颱虎を打倒したのも三年前なので、僕もこの異能の存在を忘却の彼方に葬っていた。

 ライハが異能を使う時には、雄々しい龍の翼と尾が顕現する。それに対して、フウカの場合は可愛らしい猫耳と尻尾なのかと思うと笑い転げそうになった。しかしフウカに伝わると崖下にぶん投げられそうなので、僕は笑いを噛み殺した。

「フウちゃん、凄いね!」

「余の飛行速度よりも速いとはのう」

 ライハとアイが追いついて崖を越えてきた。

 いよいよここから先が、僕にとっても未知の領域となる。この霊峰奥地の踏破は、僕がフィヨルディアを訪れる理由の一つだ。

 あともう少しで山を越えられると思うと、昂奮で胸が高鳴った。この暗闇の中、踏破できるかはフウカとライハに掛かっている。

「あたしに任せな! 速度を上げるぜ!」

「アイ、しっかり捕まっておれ。フウカとの競走じゃ」

「よぉし、楽しくなってきたね!」

「二人とも……安全運転で頼むぞ……」

 この四人なら、僕はどんな障害でも越えられる気がした。


   ◇


 遂に霊峰ロルヴィスの奥地を踏破し、山の裏側へ下山した。

 往路と同じく、麓には大きな鳥居が立っていた。しかし額束には何の記載もなく、不気味な印象を受ける。

 大きく息を吸い、僕は辺りを見渡した。ここはエンマルクとは違い、起伏も配置物もない開豁地だ。だだっ広い草原が広がるのみで、世界を取り囲む山脈を一望できる。謎の街へ向かって歩いていると、僕はあることに気が付いた。

 進路の真正面、地平線の向こうに見える山は霊峰トルエーノだ。ここからでも、ごつごつとした岩肌が見える。右側の山は雪に覆われていて、昨日に登った霊峰イスカルドに酷似している。左側に見える山からは溶岩流の奔流が確認できる。あれは霊峰ソルベルクだろう。

 つまりフィヨルディアは惑星のような球体で、ここはアルンの裏側だということだ。その発見を仲間に告げようかと思ったが、少女達の表情を見て思いとどまった。

 いつ見ても活発な少女達だが、今は目に見えて疲弊している。幽亀セツナとの死闘から休息ができていない上に、現在は普段なら眠っている時間帯なのだ。アイにとっては、こんな時間に活動すること自体が初めての経験だろう。

 フウカとライハは特に厳しい状況にあった。暗闇のロルヴィスを踏破するために、ずっと僕とアイを背負ってくれていたのだ。足取りは重く、喋る余裕もなさそうだ。僕の身勝手で、これ以上余計な体力を使わせるわけにはいかない。

 皆が進行方向を見据え、言葉を発さず黙々と歩き続けた。エンマルクと同様の面積を有する広原は、疲れからか実際の距離以上に長く感じた。



 遂に活動の限界を迎えたフウカとライハを、僕とアイでそれぞれ背負うことにした。二人はそのまま身体を預け、疲れて眠ってしまった。揺れても起きず、すやすやと寝息を立てている。

 そうして三十キロメートルの距離を歩き、僕達は世界の裏側の街へと辿り着いた。ゲームの中の仮想空間とはいえ、人類史上初、誰にも知り得ぬ大いなる一歩を僕は踏み出したのだ。

 街の入口の看板には、《アジール》と書かれている。

 街は簡単に飛び越えられる高さの虎落で囲われており、せいぜいサッカーコート程度の広さしかない。平屋の建物が点在し、アルン以上に簡素な街である。年代を感じさせるアジールの日本家屋を見ると、時代を遡行したかのように思わされる。人口物があるということは、誰かの思惑によって創られた場所なのだろうか。

 一体誰が、何のために――。

「エイタ! 人がいるよ!」

「本当だ、人がいるな。世界の裏側で何を……」

 驚くべきことに人がいた。こんなところで、一体何をしているのだろうか。ここはゲーム上では到達できず、ラズハを介さねば辿り着くことができない場所だ。なぜここにNPCが生み出されたのか。何かの意図を感じざるを得ない。

 アイはライハを背負ったまま、入口前に立つ男に話し掛けた。

「あの……こんばんは……」

「ようこそ、ここはアジールだよ」

 男は随分と棒読みで台詞を言った。やはり――。

「ここに休めるところはありますか?」

「ようこそ、ここはアジールだよ」

「えっと……」

「ようこそ、ここはアジールだよ」

 ――一定の台詞。この男はNPCだ。NPCであることは当然わかっていたが、アルンの住人とは違い、一切進化をしていない純粋なNPCだ。製作段階で投げ出され、アジールにずっと放置されていたのだろうか。

「アイ、行こう……」

「……うん、そうだね」

 これ以上話しても埒が明かない。アイを促して、僕は街に足を踏み入れた。



 街の中央には、厳めしい屋敷があった。アジールの建物はどれも日本家屋だが、中央に位置するこの建物だけかなり凝った外観だ。

 僕は恐る恐る棟門をくぐった。すると、敷地に足を踏み入れた途端に空気が変わった気がした。醸し出す異様な雰囲気は、言葉では言い表せないほどに異質だった。

 庭の手入れが不自然に行き届いている。枯山水に鹿威し、松の木も植えられている。ここに誰かがいるのかもしれない。いくらAIが進化しても、知識を持たずに日本庭園を再現できるとは思えない。

 屋敷の中を覗くと、そこは道場のように広々とした一室だった。

 よく見ると、部屋の中央に腰を掛ける男がいた。黒の和服に身を包み、長髪を後頭部で束ねている。歴史の教科書から抜け出してきたような、いにしえの武士らしき佇まいである。座卓に向かって何かを書き連ねており、その表情は真剣そのものだ。街の入口にいたNPCとは異なり、顔色には命の息吹を感じ取れる。

「……ん? 誰だ……!?」

 厳かな空気を纏う男は、僕達の存在に気が付いた。

 すると男は驚いて立ち上がり、たたらを踏んで後退していた。

「あ、有り得ない……き、君は一体どこから来た……?」

 男は驚愕するあまり、声が震えていて訥弁だ。

 どうやら純粋なNPCではないようだ。

「こんにちは。俺達は霊峰ロルヴィスを越えて来ました。あなたは……?」

「君は……まさか……」

 すると男は、とんでもないことを口にした。

「まさか……君はプレイヤーなのか? 更にこの世界に……転移してきたのか?」

「――――!?」

 男は僕がプレイヤーであることと、通常のゲームプレイとは異なり、ラズハを介してフィヨルディアに訪れていることを見抜かれた。こんなことは初めてだ。

「……ということは、あなたも?」

 僕の質問に男は返答をせず、俯いて肩を震わせて笑っている。

 次に発せられた男の言葉は、衝撃的であった。

「君は……邑川英太君で間違いないね?」

「――!! ど、どうして俺の名を!?」

 なんと男は、僕の現実世界での実名を言い当ててみせた。

 男は落ち着きを取り戻し、堂々と名乗りを上げた。

「私の名は――神凪恭吾かんなぎきょうご。神凪商事株式会社の代表取締役であり、フィヨルディアの管理者だ。唯一ログインをしているアカウントがあることは知っている。エイタ君、それが君だね。ようこそ、我が社の世界――フィヨルディアへ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る