第一章 仮想現実の世界へ

第一話 転移

 七限目の終わりを告げるチャイムを聞くや否や、僕は急いで高校を出た。

 AIの機械音声が行うホームルームに興味はない。学校が終わると、いつも寄り道をすることなく家路に就いている。


 帰宅すると真っ先に浴室へ直行し、シャワーを浴びた後に軽く食事を取る。

 流れるような動きで一通りの生活習慣を終えると、迷うことなく慣れたさばきでゲームを起動させ、滑るようにベッドの中へと潜り込んだ。

 左耳に装着された小型のデバイスが緑色に点灯し、次第に熱を帯びていく。


 僕はそっとまぶたを閉じた。これから起こる事象を心待ちにしながら――。




 僕の名前は邑川英太むらかわえいた。十八歳の高校三年生だ。

 本当に良い時代に生まれてきたと、僕は心の底から実感している。なんと現在はAIがあらゆる職業に取って代わられており、労働無用の社会なのである。


 そのため両親は世界中を物見遊山ものみゆさんに出掛けており、兄弟がいない僕は日本で独り暮らしをしている。両親が家にいないことによる不都合はない。むしろ膨大な自由時間が発生したことで、僕は大好きなゲーム遊びに没頭することができるのだ。


 お気に入りのゲームは、MMORPG――《フィヨルディア》。

 ゲームタイトルが世界の名称でもあるこのソフトは、全世界のプレイヤーが一つの世界を共有し、協力をして攻略を目指す自由度の高いゲームだ。


 しかし、フィヨルディアは百年以上も前にサービスが終了している。祖父から聞いた話では、このゲームの稼働期間は一箇月足らず。図無しに不人気なゲームソフトだったそうだ。当時は作り込みが甘いと、ネット上で酷く叩かれていたらしい。


 ところがどういうわけか、このゲームはログインが可能であった。

 当然ながらアップデートは一切行われておらず、サービスが終了した時点で時が止まったように放置されている。クエストはうに全て達成され、簡素な街が一つと、敵と成りる存在がいないわびしいフィールドがあるだけである。


 それでも僕は毎日欠かすことなくフィヨルディアを訪れている。遊ぶ目的が存在し得ないこのゲームにログインをしているのは、地球上で恐らく僕だけだろう。


    ◇


 閉じた瞼を開けると、視界には一本木のおおばりが飾られた天井が映し出された。

 白色のクロスを基調とする自室の天井とは全くかけ離れた意匠である。変化した視界の風景を確認すると、僕の口角は無意識に吊り上がっていく。


 ここはフィヨルディア唯一の街――《アルン》。その外れにある宿屋の一室だ。

 外から小鳥のさえずりが聞こえ、大きな窓のカーテンからは陽光が差している。


 僕は宿屋のベッドで横になったまま、掌を眼前に差し出した。

 網状に流れる手相はあまりにもリアルで、かつ精密に形作られている。


 そう、僕の視界に広がる景色は現実ではない。


 かつてのゲームはPCやゲーム機を介して、モニター上に異世界を映し出していた。マウスやキーボード、コントローラーといった機器を操作して2Dや3Dで描かれたキャラクターを動かすという、何とも没入感の欠片もない代物だった。


 しかし、十年前に開発された《転送機ラズハ》の登場によって、ゲームという娯楽は生まれ変わった。誰もが夢にみた、仮想空間との接続を実現したのだ。


 人は誰しも、疑似的な仮想現実を体験したことがある。自然科学や摂理を一切無視して、現実では有り得ない世界観や人物と出会える理想的な空間――。

 それは――『夢』だ。睡眠による心的現象をゲームに置き換えることで、なんと人類は時空を操ることに成功したのである。


 ラズハはイヤホンのように、片耳に取り付ける小型の装置だ。これをゲームと無線で繋ぎ、眠ることでゲームの世界へ意識が飛ばされる。まるで異世界に降り立ったように、モニター上の世界を現実に近い感覚で体験できるのだ。


 機器の小ささ故に、僕は肌身離さずラズハを左耳に装着している。

 これよって得られる仮想現実は睡眠中の出来事ではあるが、実態は明晰夢めいせきむなどとは根本的に異なっている。寝覚め、またはログアウトによって現実世界に戻ると、ゲームデータが保存されているのだ。つまり、仮想空間での行動は空虚な幻想ではない。夢のようだが、夢ではないのである。


 プレイヤーネーム――エイタ。それが、この世界での僕の名前だ。何を隠そう、僕はこの古びたゲームを独りでクリアし、フィヨルディアを救った英雄なのだ。

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