夢幻の灯火

辻 信二朗

第一巻

プロローグ

 山深い霊峰の奥地で、エイタは大きな崖に行く手を阻まれた。

 大地が断裂されたように、眼前には底の見えない奈落が口を開けている。

 対岸の崖まで目測で十メートルはあり、飛び越えることは不可能だ。

 霊峰の奥懐に広がる険阻な樹海には、整備された山道など存在しない。こうした障害に進路を阻まれる度に、エイタは迂回して異なる道を探していた。

 しかし、試行錯誤を繰り返した末に辿り着いたこの場所は、更に深奥へと進むための最後の希望だったのだ。

「ここまでか……」

 エイタは手詰まりになり、崖の前で佇立していた。

 ふと崖下を覗き込むと、絶壁に咲く小さな花を見付けた。朱色の花弁は殺風景な岨に似合わず、赤々と異彩を放っている。

 危険だが、頑張って無理をすれば花に手が届きそうだ。

 エイタは切り立った断崖の先端に手を掛けて、恐る恐る花に手を伸ばした。

「もう少し……」

 そうしてなんとか、花の採取に成功した。

 すると花は、ボンッ――と小気味良い音と共に煙に包まれ、一枚の札に姿を変えた。確認すると、札には《エルスカーの花》と書かれている。

「エルスカー……? 変わった名前の花だ。アイへ贈ろう。喜んでくれるかな」

 花の採取を終えたエイタは、手に入れた札を懐に収めた。

 そして、身軽な動きで崖を上がろうとした時だった――。

「え……?」

 手を掛けていた崖が抵抗を失い、ガラガラと不穏な音を立てて崩れ始めた。

 支えを失ったエイタの身体は、崖下へと真っ逆様に落ちていく。

「あぁ……今日も儚い命だった……」

 エイタは死を受け入れて目を閉じた。



 ――数瞬の暗闇の後、エイタはゆっくりと瞼を開いた。

 やはりというべきか、あの崖の高さでは助からなかったようだ。

 視界に映るのは、天井にぶら下がる小さなシャンデリア。中二階に色鮮やかなステンドグラスが彩られた、礼拝堂の裏手にある診療所の一室だ。

 ベッドで布団に包まったまま、エイタは探索の反省を頭の中で巡らせていた。

 あの崖を突破するのに、何か良い方法はないものか。

「…………」

「…………ん?」

 視線を感じて振り返ると、教会の神父がじっとこちらを凝視している。

 神父にとってエイタは、突如として現れた不法侵入者だ。驚きと不快感を持っていることだろう。

 神父による無言の圧力に耐え切れず、エイタは教会を飛び出した。



 外では眩しい日差しが燦々と照り付けている。

 寝るにはまだ早い時間だが、エイタはいつも投宿している宿屋へと足を運んだ。入口の扉を開けると、店主の少女が受付台の前で茫然と立っているのが目に入る。

「いらっしゃいませ。お泊りですか。一泊三十リオです」

 少女はいつもと同じ台詞を無感情に述べた。

 エイタはいつものように、笑顔で少女に声を掛ける。

「まだ時間があるから、霊峰の探索を続けるよ。夜になったら、また来る!」

「…………」

 少女からの応答はない。表情にも変化はなく、虚ろな瞳には情緒を感じない。

 エイタは懐から一枚の札を取り出した。すると札は光り輝き、《エルスカーの花》が具現化する。その朱色の花を簪として、少女の結われた髪束に挿した。

「よく似合っているよ。気に入らなかったら、外してくれて構わない」

「…………」

「では行ってくる。アイ、また後で」

「…………」

 エイタは衣嚢から、複雑な術式が描かれた札を取り出した。

 その札を天に翳すと、エイタの足元に緑色の魔法陣が現れる。魔法陣から発せられる光に照らされ、立ち上る風と共にエイタは姿を消した。

「…………」

 残された少女は、エイタが消えた跡をじっと見詰めている。

 そして髪に挿された花の簪に、少女はそっと手を添えた。

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