第9話
「健次郎……」
口に出して、ようやく父の名前だと思い当たったが、康介はさらに混乱するばかりだった。
康介はもう数十年も父に会っていない。
どこで何をしているのか、どうして家を出て行ったのか、まったく知らずに過ごしてきた。
幼い頃ならともかく、今となっては遠い過去の記憶の中の人でしかない。
ふと「父は生きているだろうか」と思うこともあった。
生死さえわからないままだという事実が、康介の心に小さな棘のように刺さっていた。
だからと言ってどうすることもできないのだと、康介は長い時間をかけて自分に言い聞かせてきたのだ。
そんな父の名を何故、駒田が知っているのか、康介には理解できなかった。
況してや、突然「今後のこと」など聞かれても答えようがなかった。
康介の沈黙をどう捉えたのか、駒田は確認するように康介に問いかけた。
「健次郎さんは体調が優れない上に認知症も進んでいます。耳もほとんど聞こえていないので、常に介護が必要な状態です。こちらに泊まるのは難しいでしょうから、通夜が終わった頃、お迎えに来て、また明日の葬儀に改めて送ってくるという形でよろしいでしょうか」
「お迎えって……」
康介が非難していると思ったのか、駒田は恐縮したように言葉を継いだ。
「差し出がましいかと思ったのですが、ただでさえお忙しい時に介護にまで手が回らないだろうと……」
「ちょ、ちょっと待ってください。話がちっとも見えてこない。健次郎は私の父ですが、もう数十年も会っていません。それどころか、どこにいるのかも知りません」
康介の言葉に、駒田は「えっ」と言ったきり言葉を失って、大きく目を見開いた。
駒田もかなり混乱しているようだった。無言のまま見開いていた目は車いすに乗っている老人に注がれた。
それから、老人と康介を交互に見つめた。
老人は相変わらず目を閉じていて、身じろぎ一つしない。
駒田の態度は康介に一つの推測を与えた。
康介は車いすの正面に腰を下ろすと、目を閉じた老人の顔を間近で見つめた。
記憶の中の父は今の康介よりずっと若かった。目の前の老人に若き日の父の面影を見つけることはできない。
それでも何か見つけようと、康介は老人に顔を寄せた。気配に気がついたのか、老人がそっと目を開いた。
「正子……か」
聞き取れないほどの小さな声で呟くと、老人はまた目を閉じた。老人が発したのはたった一言だけだった。
だが、その呟きには親密さが滲んでいた。
康介は無性に腹が立った。腹わたが煮えくり返る思いが全身を駆け巡る。
何に対する怒りか、自分でもよくわからない。
ただその一言を聞いた瞬間、自分だけが何も知らずに生きてきたのだと思わずにいられなかった。
「父なんですね」
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