第4話

 正子はずっと一人だった。

 康介が幼い頃、父親は家を出て行った。以来、康介は父親には会っていない。

 母子家庭だからと言って不自由を感じた覚えがないのは、正子の性格ゆえだと康介は思っていた。

 康介の記憶では、父がいなくなっても正子はあきれるほどあっさりしていた。

「いないものはいないんだ」

 何を聞いてもそういうばかりで何も教えてくれなかった正子だが、泣き言をいうでもなく、己の身を嘆くこともなかった。

 そのおかげで、父の存在がすっぽりと抜け落ちた生活でさえ、康介にとってはそれまでと大して変わりはなかった。

 高校を出たら働くつもりだった康介に進学を勧めたのは正子だった。

 経済的な負担をかけまいと思っていた康介の心を見透かしたように「あんたがちゃんと勉強して一人前になったら、たんまり親孝行してもらうよ」と言っていた。

 そのくせ康介の結婚が決まると、正子はさっさと家を出て行ってしまった。

 康介は、結婚しても同居するつもりだった。

 静江も快く同意していたにも拘わらず、正子は康介に何の相談もなく近所にアパートを借りて、勝手に一人暮らしを始めてしまったのだ。

 当初、康介夫婦は困惑した。

 静江が言葉を尽くして引き留めたが、正子は聞く耳を持たなかった。康介はすぐに匙を投げた。

 正子は人の言うことを聞くようなタマではない。康介には説得するだけ時間の無駄だということがわかっていた。

 静江は「お義母さん、私のことが気に入らないのかしら」と心配していたが、そういうわけではない証拠に、正子は時々ふらりと遊びにくる。

 静江を買い物や食事に誘うこともあって、嫌っている風でもなかったから、そのうちに静江も安心したようだった。

 ひとり暮らしがいかに楽しいかと静江相手に自慢げに話をする正子に、

「まるで母さんのほうが里帰りした娘みたいだな」

 康介が言うと、正子は意を得たりといわんばかりの笑みを浮かべた。

「なんせ人生で初めての一人暮らしだからね。こんなに好き放題できるんだから、私は本当に幸せだわ。放っておいてくれるのが何よりの親孝行だよ」

 正子には一人で生きている悲壮感など微塵もなかった。

 若い頃の康介はそんな正子を我儘な母親だと思っていた時期もあったが、今になって思えば、誰とでも適当な距離を保つことで衝突を避けていたのかもしれない。

 子である康介に対しても、つかず離れずの姿勢ではあったが母親らしい愛情は注いてくれていた。

 その姿勢は死ぬまで変わることはなかった。

(結局、死に際まで自分一人ってところがお袋らしいな)

 満足げな正子の顔を見ていると、寂しさは感じるが涙は出てこなかった。

 紘一の言うように、湿っぽいのが嫌いな正子のことだから傍にいてぐずぐずと悲しんでいてもどやされるだけだろうと思い、康介は立ち上がった。

 最後まで好きなように生きたいというのが正子の意思ならば、母の意に沿って送り出すことが息子としてできる最後の孝行だった。

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