探偵と姉弟
静かな部屋の中、本を目から音だけが聞こえる。氷華は真剣な目で台本を読んでいる。
暫くするとパタンと台本が閉じられた。
「流石は私を産んだだけある。とても面白い内容だと思うよ。」
そう言って氷華は体を伸ばした。
「今後もあるだろう。次はドラマとしてな。」
俺がそう言うと氷華は首を振った。
「それはやめたほうがいいだろうね。」
まさか氷華からそんな言葉が出るとは思わなかった俺は彼女を見る。彼女は苦笑いでこちらを見ていた。
「この前の仮説通りなら麗奈は私に脳の大半を譲渡している状況だ。あまりいい状態とは言えないね。麗奈の思いは叶えてあげたい。それ程の覚悟があるのは私にもわかるしね。まぁここまで確立された人格がどうやれば消えるのか私にもわからないけれど。」
確かに問題はあるだろう。せめてもう少し互いに繋がりがあればいいんだが…。
「君の考えは顔を見ればわかるよ。でもはっきりと切り離されていては対話も不可能だね。」
まさに打つ手無しだ。
「まぁそれは後で考えるとして出来ることをしないとね。」
そう言って氷華が立ち上がる。
「どこに行くんだ?」
「演技を学びに行くのさ。」
そう言って氷華は俺にウインクをするのだった。
「麗奈のお姉さんの部屋はどこかな?」
氷華にそう言われた俺は少し頭が痛くなった。
麗奈はあの二人に宣戦布告をしており、氷華はそれを知らないのだから。
だが案内はするべきだ。どういう展開になるかはわからないが…。
そしてあっという間に部屋の前についてしまった。氷華は躊躇わずにノックをする。
「どうぞ。」
中からの返答に扉を開けるとそこには台本を読む香澄さんがいた。
「お邪魔するよ。令嬢さん?」
「氷華ですか。どうぞ。私も貴女と話がしたかった。ちょうどいいですね。」
香澄さんが立ち上がって俺たちをソファーに促す。氷華は堂々と歩を進めて着席する。続いて俺も座った。目の前に紅茶が差し出される。
「本日はどのようなご用件ですか?」
「演技を習いに来たんだ。」
氷華がゆっくりと紅茶を飲んで美味しいねと感想を告げると香澄さんはふふッと笑った。
「貴女は演じる必要がないでしょう?」
「うん。ないね。」
「では何故?」
氷華はニヤリと笑った。
「一流から学べる機会があるからさ。私は知りたい。一流の演技というものを。そしてその先の世界をね。」
「知識欲…ですか。いいでしょう。私に教えられるかはわかりませんけどね。」
「では…君の婚約者の話を聞かせてもらおう。」
これは台本の一節だ。
「私に婚約者はおりません。」
香澄さんの雰囲気が変わる。より優雅に。紅茶の香りも舞台装置として噛み合っている。
まるでこうなることを最初っから予想していたように。
「質問を変えようか。また婚約者の話を教えてくれるかな。」
「何の事を言っているかわかりませんね。」
「ふむ。取りつく島もないね。まぁいいや。助手君はどう思う?」
「ひょ、氷華さん!いきなり失礼ですよ?」
暗記している一節を口に出す。演技とかは俺には無理だ。とりあえずセリフを言うだけの存在になれば場は繋がるだろう。
「君にはいつも言っているだろう?探偵は失礼じゃなきゃいけない。他人の庭を踏み荒らしながら相手の感情を引き出すんだ。」
台本と違う。ここでアドリブ?
「君はどう思う?」
香澄さんの雰囲気は変わらない。感情は凍っているように動じず。令嬢はゆっくりと閉じていた目を開いた。
その瞬間肌が粟立つ。この視線には怒りの感情が乗っている。口元は微笑んでいても、目では怒りを表現している。
そこには香澄さんではなく間違いなく婚約者に関する事を他人に突っ込まれることを最も嫌う令嬢がいた。
氷華はその視線を受けてなお不敵に笑う。
「もういい。わかった。」
香澄さんが目を閉じて開けるといつもの優しい姿があった。
「アドリブへの対応、キャラへの理解度、咄嗟の判断力。どれをとっても一流だ。今のもアップにできる映画だからこその表現方法だろう?劇だったらまた別の表現をしていただろう。ふふ。うん。楽しいね。」
「ご期待に添えましたか?」
香澄さんの言葉に氷華が笑い出す。楽しそうだ。
「あぁ!勿論だとも!あの時の君には明らかに君以外の人間の気持ちが乗っていたよ!私はこの脚本を見た時に思ったんだ。この令嬢はまるで人形だとね。だけど君が演じると人間味が出てくるじゃないか!」
「麗奈の真似事なら多少はできます。一番近くで見てきましたから。キャラの理解度を深めてそれに合わせた演技をする程度ですが。」
十分凄い事だ。このキャラは本編にはいない。材料がこの台本以外ないのにこのレベルで仕上げてこれるのかと驚愕する。
「うんうん。頼もしいね。私は私のやりたいようにやるけれど君となら大丈夫そうだ。明日から1時間いただきたいんだけどいいかな?」
「えぇ。勿論。私としても有難いです。」
氷華は嬉しそうに頷き、二人は握手をした。
「さて。次は兄だね。」
「今日のタイムリミットはあと1時間だ。」
一応時間を伝えるとわかってるさと頷く。
「可能なら今日中に兄とも会っておきたい。明日以降は1時間ずつ時間を割きたいからね。」
どうやら彼女は本気でこの映画をよくしたいと思ってくれているようだ。
「助手としてサポートはさせて貰う。」
「君の事は世界で一番信頼してるさ。だから今のままでいい。君の時間は麗奈にこそ使うべきだ。そうだろう?」
氷華が苦笑するが俺は首を振る。
「麗奈の為にも君を大切にする。麗奈に対する気持ちとは違うが、君の事も俺は気に入っている。なんだろうな…悪巧みをする悪友みたいなポジションと言えばいいかな?」
氷華は少し目を見開いて驚いた後にニヤリと笑った。
「悪友か。いいね。そういう表現は私好みだよ。もし、麗奈が私という人格を維持するならば、この私が困ったら知恵を貸してあげる。悪巧みでもなんでもね。」
そう言ったタイミングで部屋の前に着く。
ノックをすると開いてるぜと声が返ってきて俺達は扉を開けた。部屋は真っ暗だ。
「すまねぇ。電気つけてくれ。キャラをインプットするときは情報を制限してるんだ。」
成程。やり方は人それぞれ。これが彼のやり方ということか。
電気を付けると目を瞑っている仁さんが目を開けた。
「何か用か?わざわざその状態で。」
「へぇ。気づくのが早いね。」
「まぁな。これでも兄だ。それに俺は麗奈の演技を模倣している。変な意味じゃなく、じっくりと観察しているのさ。少しでも真に迫るためにな。佇まいから別人なら流石に気づく。姉さんは別の方向の秀才だから気付かないとは思うけどな。麗奈は俺にとって今の俺を作り上げた師匠なんだよ。」
彼の目の下には真っ黒いクマがある。
これは犯人と一緒だ。彼はその身に違う人格を宿している。それが犯人だ。
だが仁さんがクマを作る必要などない。
それはメイクでどうとでもなるのだから。
「なるほどね。大体わかった。今日ここに来たのは明日から1時間君の時間を貰い受けたいからさ。」
「なんで?」
「この映画をよくするためさ。協力をして欲しい。」
「へぇ。本当に友好的なんだな。いいぜ。俺も学びが多そうだ。」
「ありがとう。とりあえず君は一回寝た方がいい。あまり根を詰めても体調を崩すだけだからね。」
「ん?あぁ…そうだな。そうするわ。」
「じゃあ失礼するよ。」
氷華は行くよと俺の耳元で囁いて俺の手を引くと扉を開けた。
「一応忠告だ。この方法はお勧めしない。君なら出来てしまいそうだけど、麗奈と違う点がある。それは最愛のパートナーがいないという事だ。」
仁さんは氷華の言葉に何も返してはこない。そして氷華もそれ以上は何も言う気がないのか部屋を出た。
「さっきのはどういう事なんだ?」
「初めて会った時と纏う雰囲気に違いがあった。彼は麗奈を真似ている。麗奈にできるなら多少ランクは下がっても自分も出来ると考えたんだろう。そしてそれは歪な形で成功してるようだね。だけどこのまま続ければ麗奈とは違って悲惨な事になりかねない。」
氷華の言葉にゴクリと喉を鳴らしてしまう。
「例えば?」
「新しい人格を作るというのは普通に考えればデメリットしかない。戻れなくなる可能性だってあるんだからね。麗奈は複数の思考を同時に思考できるから問題がなかっただけで、彼が同じことをすれば間違いなく戻れなくなる。今のままで止めておくのが利口だと思うよ。だけどそれをハッキリと伝えるのは彼のプライドを傷つける事になる。私は彼と仲がいいわけじゃないからね。助手君はどうだい?」
俺だって仲がいいわけではない。だから俺にも無理だと首を振る。
「うーん。まぁ私としてはこの劇が成功するなら別に問題はないのだけれど、令嬢には話しておいてもいいかもね。」
「香澄さんな。」
氷華はふふっと笑う。
「どうした?」
「そう言えば自己紹介をしていなかったと思ってね。失敗失敗。つい楽しくなっちゃって。自己紹介は大事だよね。明日はちゃんと世間話をするとするよ。」
珍しい。氷華はあまり口数が多いわけではない。必要事項を話すと黙るタイプだ。
俺とはよく話すが、それは俺を助手として認識しているからだ。
どうやら香澄さんのことを気に入ったようだ。
仲良くなれるならそっちの方がいい。
部屋に戻るとタイマーがなった。
「これから週末は麗奈をデートに誘うといい。週一くらいで休養日を作らないと精神に影響が出るかもしれないしね。」
「わかった。気にかけてくれてありがとな。」
俺の言葉に氷華は一蓮托生だからと笑うのだった。
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