変わる日常の予兆
コンコン
朝のひととき。
ぼうっとニュースを見ながらコーヒーを飲んでいるとノックの音が聞こえてきた。
相手はわかっている。
昨日の夜にメッセージが届いていた。
俺は扉まで向かうと扉を開けた。
「おはようございます。智樹さん。」
「おはよう。麗奈。鍵を渡しているんだから勝手に入っていいんだぞ?」
「では明日からそうしますね。」
全く律儀な女の子である。
2年ほど前から彼女は毎日泊まりに来ていたので鍵はとっくに渡していた。美羽はよく鍵を無くすからしっかり者の彼女に任せていたのだ。
そろそろ来るのは分かっていたので用意していたコーヒーを差し出す。
麗奈はありがとうございますと受け取ると俺の横に座った。特に会話もなくゆっくりとニュースを眺める時間が続く。
会話がないという事は言ってしまえば1人でいる時と一緒だ。その時は常に美羽の事が思い浮かんで心が沈んだ。でも何故か隣に麗奈がいるだけで心が落ち着いている事に気づく。
この3ヶ月ひとりで過ごしていた俺の横に誰かがいるのは違和感になるかと思ったが、実際そんなことはなかった。
それはきっと彼女なら隣にいてもおかしくないと俺の心が感じているからだろう。
タイマーがなる。そろそろ出る時間だ。
「あの…。」
「ん?どうした?」
「お弁当を作ってみました。お昼ご飯一緒にどうですか?」
弁当か。7時にここに来てるのに用意してくれたのか。何時に起きたんだろう。ここで断るほど俺も鬼畜じゃない。
「ありがとう。じゃあ昼休みに部屋で待ってる。先に着いたら入ってていいから。」
「分かりました。」
麗奈が安心したように微笑む。
俺はそっと頭を撫でた。美羽によくやっていたからこれら癖だ。しまったと思って手を引くとその手が掴まれる。
「あっ…ごめんなさい。」
麗奈も無意識だったのか俺の手を離した。
少し心が痛んだが今は時間もない。
「また後でな…。」
今の俺にはこう言うのが精一杯だ。
だが麗奈ははいと笑顔で答えてくれた。
「よう智樹。昨日はお楽しみだったみたいだな。」
席に着くと海斗が話しかけてくる。
「なんの話だ。」
「麗奈嬢と上手くいったのだろう?全く…。お前も隅に置けないな。あの狂犬を落とすとは。この人たらしめ。」
どうやら既に噂が回ったらしい。というか狂犬とはどういう意味だろう。まぁ聞くのも野暮かと発言をスルーする。
「彼女の家でご飯を頂いた。今の所はそれ以外にないぞ。今の俺にそんな余裕があると思うのか?」
「無いだろうな。まぁ安心しろ。俺はお前達を応援してやる。それでお前が立ち直れるならお前に恩も売れる。更に3ヶ月前のお前が戻ってくればこの学園での楽しみも増える。一石二鳥とはこの事だ。」
実に合理的だ。使えるものはなんでも使う。まさに帝王の理論である。
事実として彼にはそれを為す権力とネームバリューがある。この学園で彼を敵に回すのは得策ではない。味方につければ百人力だ。
「お前は俺を過大評価しすぎだ。」
「逆だな。お前は自分自身のことを過小評価しすぎだ。お前でなければ美羽嬢はトップアイドルにはなれなかった。それはお前以外の周知の事実で、だからこそお前には今だに価値がある。確かに今のお前は妹がいた時ほどの覇気はない。そして麗奈嬢だって美羽嬢の代わりにはなれない。何故ならばお前に代わりがいないように美羽嬢の代わりもいないからだ。それでも献身の化け物であるお前が尽くしたいと思える相手と出会えた時はそれに近い活躍を見せるだろう。」
ニヤリと笑う海斗には確信に近い何かがあるように見えた。そんなことを言われても俺にはわからない。俺は美羽をトップアイドルにしたかっただけだ。これは献身ではなく俺自身の夢の為だ。やはり過大評価が過ぎる。
「なんにせよ昨日の誘いは忘れてくれていいぞ。今は麗奈嬢を優先してもらってかまわない。俺の父と彼女の父は友達だ。昨日の夜にお前たちの事は父から頼まれてしまってな。どうする?外堀がどんどん埋められていくな。」
「なんだよそれ…。怖すぎ。」
思ったより大きな存在に俺は目を付けられていしまったのかもしれない。
「やりすぎたお前にも責任ある。お前は自覚のないやらかしをするタイプの人間だからな。」
そんなやらかしをした覚えはない。いや自覚のないやらかしだから覚えていないのは当然なのか?なんだか頭が混乱してきたが、先生が入ってきたので俺は頭を切り替えて授業に集中するのだった。
午前の授業が終わり席を立つ。
「急いでいるからまた今度な。」
「うむ。麗奈嬢によろしく伝えてくれ。」
どうやらバレバレらしい。
俺は苦笑いで返しておいた。
扉を開けるとすでに靴があった。
急いできたがどうやら遅かったらしい。
「あっ、お疲れ様です。智樹さん。」
リビングに入ると弁当が広がられており、味噌汁も置かれていた。いい匂いが鼻腔をくすぐりお腹がなった。
「あぁ。すまない。君は高等部だから昼休みは有限だよな。早速食べようか。」
「はい!」
お弁当を見ると中には色とりどりのおかずが並んでいる。俺が教えた時よりも腕が上がっているし栄養バランスも考えられているようだ。
『いただきます。』
ハンバーグを口に入れる。
しゃくしゃくとした感触。
「蓮根か。」
「お嫌いでした?」
俺は首を振る。
「俺もよく美羽に作ってたよ。これが好物でな。うん。とてもおいしいよ。俺のとはちょっと違うな。この風味は味噌か?」
「隠し味に気づくなんて流石ですね。基本は智樹さんのレシピを元にしています。それは私なりのアレンジです。」
驚いた。最初はお菓子しか作れなかった彼女がこんなに成長していたとは。
次に卵焼きに手を伸ばす。
「うん。美味い。ウチは甘い卵焼きだがこれは白だしを使っているな。凄いな。もう教えることはない。逆に教えてもらう立場になったようだ。頑張ったんだな。」
「貴方の胃袋を掴みたかったんです。」
まっすぐな言葉に自分の頰が赤くなってるのがわかる。こんな事を言われて嬉しくないわけがない。今までこんなに誰かに尽くされたことがあっただろうか。今までは尽くす側だったからむず痒い。
「そうか。ありがとう。嬉しいよ。」
「えへへ。」
顔を赤くしながら頬をかく麗奈はとても可愛いと思った。
昼食が終わって俺たちはソファで座っている。
俺は後でという約束を守って彼女の頭を撫で続けていた。
弁当箱は昼以降暇な俺がやると彼女には伝えた。甘やかすと決めた以上彼女の役割を増やしたくはない。
「今日は午前で終わりですか?」
「あぁ。高等部からの成績と生活態度を考慮されて、俺は単位数が周りより遥かに免除されている。美羽の為にこの制度を利用しなければいけなかった。全てのテストで一位を取り、生活態度も模範生徒となれるように最新の注意を払った。結果として俺は午前授業しかない。」
「特別優秀生徒制度ですね。卒業分の単位がすでに確保されているので、授業を受ける必要がない。その分だけ仕事に集中できる。この特殊な学校故の制度ですね。」
特別優秀生徒制度。
三年間平均で全てのテストの順位が3位以内。
内申点の合計点が9割に達すること。
内申点は1教科事に5点が最高点で換算される。
この二つを満たしたもののみ適用される制度。
授業を一度も受けなくても卒業まで約束されるというとんでもない制度だ。
大学部になった際に全ての時間を美羽に使う為に我ながら頑張ったと思う。
そのせいで毎日の睡眠時間が2時間ほどになった。辛かったが今となれば懐かしい思い出だ。
「まぁ今となっては無駄に暇な時間が増えただけになってしまったがな。」
本来一切学校に行く気はなかった。だがこの制度が適用されているとはいえ卒業までには3年間在籍は必須だ。やる事もないし俺は授業に出ている。性格的に怠けるとどこまでも怠ける事を自分自身のことゆえ分かっている。
「じゃあ午後はここに来れば会えるんですね?」
「ん?あぁそうだな。買い物の時間以外ではいるよ。暇な時は尋ねてくれていい。俺もその方が嬉しい。」
1人でいると暗くなるのは必至だ。
それなら彼女といた方が気が楽である。
「なら泊まりに来ても?」
「あぁ。構わない。君のお父さんには俺から話す。手を出さなければ何も言われないだろう。」
俺の言葉に麗奈がぷくっと頬を膨らませた。
「手を出して欲しいんですけど!?」
「それは今後の付き合い次第だな。今は…すまん。据え膳食わねばという言葉があるのは知っているが、少しずつ立ち直るから。」
「まぁいいです。私だってあなたの負担になる気はありません。」
少し安心する。暫くゆっくりとした時間を過ごしているとタイマーがなった。
「では行って参ります。今日からここに住みますから学校の許可を頂いてきます。ちゃんと私の帰りを待っていてくださいね。」
それだけ言って麗奈は部屋から出ていった。
いや異性での同室が認められてるのは身内のみだと伝えようとしたが、俺がそれを伝える前に麗奈はさっさと出ていってしまった。
だが彼女ならルールを覆す可能性がある。
この特別優秀生徒制度の一つだ。
両者共に特別優秀生徒かつ婚約者である場合、特例として大学部から同室を認める。
これがあるから可能性は0ではない。
その場合、学生結婚、学生妊娠でさえ黙認されるというとんでも制度になる。
過去にもそういうことがあったらしいが年齢的に何も問題がないので学校側は寧ろ祝福するらしい。本当に寛大な学校だと思う。
彼女は秀才だ。勿論本人の努力もあるだろうが成績は俺の高等部の時と遜色がない。
間違いなくこの制度を勝ち取るだろう。
と言っても彼女は高等部だ。
特例が認められるかはわからない。
だが彼女の家系は例外なくこの制度を勝ち取っている。俺の一つ上に彼女のお兄さんがいる。彼は大学部になってから一度も学校に来ずに海外で輝かしい活躍をしている。
この前はレッドカーペットを歩いていた。
とんでもない一流俳優だ。ただパートナーは見つかっていない様でちょっと不貞腐れていた。
この様に九条院家は学校の評価を爆上げしてきた歴史がある。九条院という家は学校側からしても大事な一族なのだ。
つまり特例を勝ち取っても何もおかしくない。となれば俺の今やるべきことは一つだ。
もしもの可能性を考慮して、俺はやれやれと部屋の掃除を始めるのだった。
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