第18話 蘇る過去、帰ってきたお星さま・・・

 虚空を舞う瓦礫の流れは流砂のごとく、術者の手に誘われて一箇所に寄り集まる。


 場所は宙に浮くフィッツジェラルドの下方――数百メートルと離れた地上に山と成し、その大きさを瞬く間に高めていく。


 やがて瓦礫の集合により形成されたそれは、まさに決闘場と呼ぶに相応しい摩天楼であった。形の上だけで例えるなら、それはイタリアの〝ピサの斜塔〟の上にローマの〝コロッセオ〟を乗せたような非常に危うい外見かつ珍妙な構造ではあるものの、余人を寄せつけぬという目的を考慮すれば、これほど術者の意思を反映した建物はそうあるまい。


 そして落成を経た塔の上、決闘場に降り立ったフィッツジェラルドが、いま高らかに創造物の名を口にする。


「――『タワー・オブ・アディオス』ッ!!」


 いまや世界創造の魔法ちからを得たフィッツジェラルドは、自分自身を〝神〟とまで驕り高ぶっていた。その証拠に、神たる自分への拝謁を許すこの塔を〝神の身元へアディオス〟と名付けるあたり、彼の尊大な性格を物語っているのがに窺えよう。


「始まったぞ。クライマックスが」


 フィッツジェラルドがつぶやいた。


「もはや誰にも止められん。我が宿願」


 数十年の時を経て日の目を見る、その理想。


「悪を打ち倒す正義の味方でも、現れない限りは」


 だからこそ待つ。番組を盛り上げる重要なファクターを。


「さぁ戻ってこい。ディアアステル。キミとの戦いで世界は知るだろう。新しき神話の誕生を。そのときこそ大衆は認めるのだ。我が理想は現実なり、と……」




                ☆☆☆




 声、声が聞こえる。

 ■■■■■■■――ッ!

 少女が誰かに叱られている。

 顔の見えない誰かに怒られている。

 誰かはヒステリックな喚き声で捲し立てる。

 誰かは泣きながら少女のことを責め立てている。

 そのたびに少女はうつむき、身体を震わせ、誰かの声を黙って受け止めている。

 やがて、それは起こった。起こってしまった。

 ピシッ、というその音は鞭のような何か。

 だが次の瞬間にはベルトだと気づく。

 怒号とともに重なる少女の悲鳴。

 叶南はそれを止めたかった。

 止めようとした。

 けれども、まざまざと見せつけられるだけで、何もできない。

 叶南の口をいて出る「やめて」という言葉。

 だが嘆願も虚しく、制裁は途切れることなく。

 果てには――


『ごめんなさい』


 少女に謝罪を紡がせた。


『もうしません、しませんしません』


 否、機械のように言葉を吐き出させる。


『しませんしませんしませんもうしませんしませんだから許してくださいわたしが悪いんですわたしが殺したんですわたしのせいなんですだからだからだからいやいやいやいやいやだからやめてやめてやめてやめてくださいもうしませんしませんから痛いイタいいたいイタイいたいからやめてやめてやめてごめんなさいごめんなさいゆるしてくださいおねがいだから――』


 少女の目から、涙がぽろぽろと零れ落ちる。

 少女の顔には、ベルトで叩かれた痕がいくつもあった。

 少女の身体は、まるで死体のように横たわり一切動かない。

 少女の■■は、豸吶r豬√@縺ヲ蜿カ蜊励?蜷榊燕繧貞他縺ウ邯壹¢繧九?


 ……。

 …………。

 ………………。


 少女のすすり泣く声が聞こえる。

 泣きながら学校の制服を抱きしめている。

 その制服は、かつて叶南が着ていた中学校のものだった。


「泣かないで……」


 痛ましい姿を眺めるにつれ、叶南はどうしようもない惻隠そくいんを抱かされる。


 いますぐ駆け寄って慰めなくては。

 大丈夫だよ、と声をかけなくては。

 なのに手足は動かせず、悔しさが涙に変わるばかり。


 泣かないで――


 泣かないで――


 ああ、なぜ私は死んでしまったのだろう。


「泣かないで……っ!」




                ☆☆☆




「――イリスッ!!」


 叶南の覚醒は、そのとき脈絡もなく突然に。


「……え?」


 半身を起こした彼女の眼前に広がる――どこかの部屋の中。猫足の可愛らしいインテリアに囲まれたそこは、如何にも小さな女の子が使う調度品に満ちていた。


「目覚めたか、友よ」


 声がしたことで叶南はハッとした。振り向くとそこには――


「エステルミア」


 悠然と佇む銀髪の美女が、茫然とする叶南を見守っていた。


「まったく骨が折れたぞ。キミの魂と繋がるのは」

「は? 魂? ……えっと、何がどうなって……」

「覚えてないのか。キミはフィッツジェラルドに消されたんだ」

「――――」


 その言葉に愕然とするあまり、叶南は事の前後を把握すべく必死になった。


ドローンの襲撃からイリスを助けようと、身をていしてビームの競り合いに臨んだ。が、抵抗も虚しく身体は焼き尽くされ人事不省――否、肉体は塵と化し、跡形もなく消えてしまった。


 思わず身体を確かめると変身が解けていた。元の制服を着た自分がここにいる。


 克明に想起された顛末が引き金となり、叶南を構成するナノマシンに変化が起きた。


 ネットワークを通じ、デウス・インターナショナル本社ビルに置かれたサーバーにアクセスを開始。ダウンロードされる情報の数々が、叶南に【聖女】システムの開発経過、そのための人体実験、そして【聖女】の仕組みと正体について余すところなく理解させる。


 とたんに激しい頭痛に見舞われ、彼女はうめきながら額を抑えた。


「うぅ……何これ……【聖女】ってこんな……ひどい……ッ!」

「どうやら記憶領域を司るナノマシンに変化が起きたようだな」


 契約で繋がっている魔法使いと【聖女】では、心を読むこともまた容易なのだろう。叶南の頭痛から心情を悟ったエステルミアが、少女の顎に手を添えて覗き込んできた。


「それら情報はすべて真実だ。だが私は謝らないぞ。契約はキミの意思だった」

「……本当に私は機械なの?」

「少し違う。正確には魔法で人間の魂を物質化し、『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』の中に固定化した高次元存在。またの名を【Ex‐magiaエクスマギア】。魂は間違いなく本物だが、その身体はナノマシンで構成された〈疑似星辰体アストラルモザイク〉。人類とは似て異なる――しかし本質的には人間――いや、魔法と科学の融合によって生まれた〝新人類〟と言えよう」

「やめてよ!!」


 パシッ、とエステルミアの手を叶南は払いける。


「人をこんな身体にしておいてよくも……私だけじゃない、ワンダフルアリスだって!」

「言っておくが、契約した少女たちの全員は事前に詳細を聞かされている。自分が何になるか、それによりどういう人生を歩むことになるのかも」

「まさか」


 叶南は首を横に振った。


「ありえない。親が反対して……」

「身寄りのない者、難病で苦しむ者、そういった少女たちが【聖女】に選ばれる。まあ、当然だろうな。【聖女】になれば無病息災どころか老化さえ止まり、あらゆる体調の不都合からも解放される。そのうえデウスから莫大な資金も得られるとなれば、拒む手はあるまい?」

「口止め料の間違いじゃないの」

「そうとも言える」


 淡々と応じるエステルミアを前に、叶南は気が遠のきそうになった。自分が憧れてきた正義の味方が、倫理に反する実験を経て生まれたナノロボット――そのことに、拒みえない罪悪感と絶望を覚えて思わず、膝を折る。


 その動作から、またもや心情を見透かしたようにエステルミアが言う。


「キミがこれまで魔法少女、もとい【聖女】にいだいてきた理想や憧れは、なにも間違ってない。彼女たちが契約した動機は、それこそ利己的なものが大半だったが、人命救助を通し培われた正義の心は本物だ。真実を知らずにいた自分を悔やむ必要はない」

「だからって受け入れられない、たくさんの人を犠牲にして……」

「たしかに私やデウスが犯した罪は許されない。片や故郷を取り戻すため、片や魔法少女産業で稼ぐため。だが【聖女】は違う。彼女たちは他者のために命を賭ける」

「何が言いたいの」

「たとえ出自が忌まわしくても、キミは正義の味方だ。思い出せ。当初の目的を」

「……ワンダフルアリスを救う……」


 呆然と口から漏れた言葉を耳にした瞬間、叶南のなかで鈍い感傷がよぎった。


 犠牲の上に成り立つ【聖女】の活動であっても、そこには他者を救うという大義名分がある。あくまで善意に根差した存在、エステルミアはそう伝えたいのだろう。


 未だ受け入れがたい事実ではあるが、それでもアリスを思えばこそ嘆いてはいられない。


 混沌とした思考と感情を、いったんは脇に追いやりながら、叶南は立ち上がった。


「勝手な言い草だね」

「重々承知だ」

「でも、許したわけじゃない」

「構わんさ」


 簡素なやり取りでこの場は収まった。激情に身を任せたところで思いはひとつ。

 ワンダフルアリスを救う。他の何を差し置いても、それが叶南の至上命題なのだ。


「それで、この場所はなに? 連れて来てどうするつもり?」

「ここは魂の揺籃ゆりかご。キミの『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』の中だ。連れて来たのではなく、私が訪れたんだ」

「死後の世界とは違うの? 私の身体、消えたよ?」

「ナノマシンの身体を失ったことで、意識だけが『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』に移されたんだ。身体は乗り物に過ぎない。待っていろ。すぐに新しい身体を再生する」

「あはは、なにそれ。不死身ってこと? ちょ、待って……えぇ……」


 エステルミアの説明に愕然とするも、叶南は失笑せざるをえなかった。全身をナノマシンで構成する機械の自分。けれど本体は宝石で、身体は消えようとも新しい身体を再生可能。我が事ながら、あまりにも驚異的過ぎる。


 しかし、そうとはいえ気になる部分があり、叶南は室内を指差しながら訊く。


「じゃあこれは? 『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』の中が子供部屋とか、どういうこと?」

「純粋無色の力たる魂は、人間には到底理解できないものだ。ゆえに当人の記憶や意思に反応しやすく、その者にとって馴染みある場所に構築される」

「馴染みある場所?」

「そうだ。いまキミが見ているのは記憶の旅路。いわば追憶だ」


 追憶。その言葉の意味に首を傾げるも、叶南は今いる部屋に既視感を覚えた。


「ここ見たことある……知ってる……あの女の子がいた……」


 ワンダフルアリスの変身が解け、泣き喚く少女に触れたあの瞬間、脳裏に浮かんだどこかの部屋の中。そう、間違いなくあのとき見た逆行再現フラッシュバックと同じ部屋だった。


 だが馴染みあるというほど叶南は、この場所に慣れていない。

 ともすれば、やはり忘れているとしか言えないわけで……。


「ねぇ、エステル――」


『イリスッ! どうしていつもそうなの!?』


 確認しようとした叶南の言葉が、そのときふいに響く声で阻まれた。


「――っ!?」


 何事かと思い振り返った先――そこには、小さな女の子と大人の女性が立っていた。


「あの子……」


 イリスと呼ばれた女の子が、顔をうつむかせたまま身体を震わせている。


 対して、女性は手に一枚の紙を持ちながらイリスを見下ろしているだけ。


『お姉ちゃんは百点なのに、どうしてあなたはママを満足させられないの!?』

『ご、ごめんなさい……今度は、今度は頑張るから……』

『この前もそう言ってダメだったじゃない!』


 テストの点数を叱られているのだろう。二人の状況から叶南はそう推し量るも、女性の容姿を目の当たりにしたことで驚愕が口を出た。


「お母さん!?」


 艶やかな黒髪と大きな瞳。瓜二つの顔は叶南の母親だった。


「なんで……どうして……!?」

「キミたちは家族だった」


 エステルミアが静かに告げた。


「イリスはキミの妹だよ」

「――――」


 信じられない事実に叶南は呆然とする。けれども、心のどこかでその予感は何となくあった。少女に対する言いようのない既視感は、家族であれば当然の印象なのだから。


 母親の叱りはイリスが泣き出したことでますますヒートアップした。どんな反論も許さないほどの剣幕で捲し立てるさまに、叶南は当惑しつつも割り込もうとする。


 だが次の瞬間、部屋に入って来た人物にさらなる衝撃を覚えた。


『お母さん。勉強終わったから遊んでもいい?』


 現れたのは、もうひとりの叶南であった。だが服装だけが違う。白くゆったりとしたカットソーにデニムスカート。どこか大人びた組み合わせは叶南の記憶にない私服だった。


『あらまぁ!』


 母親が手を合わせて喜ぶ。


『それこの前、お母さんが買ってあげた服じゃない。似合ってるわよ叶南。さすがかずさんの子供だわ』

『大袈裟だよもぉ。……それよりさ。今日は久しぶりにお母さんの料理食べたいなぁ~』

『料理……。外食や出前じゃダメなの?』

『うーん、それもいいけど……テストで百点取ったんだし。お願い!』


 叶南の要求にしばし懊悩する母親だったが、可愛い娘の頼みとあらば親として断れないのか、意を決したように頷くと顔を綻ばせた。


『仕方ないわね。それじゃ、お母さん腕によりをかけちゃうわ。ハンバーグでいい?』

『うん。お母さんのハンバーグ大好き!』

『うふふ、ありがと。じゃあさっそく買い物に行ってくるから、お留守番してなさい』

『は~い。いってらっしゃ~い!』


 母親が部屋を後にしたことで訪れた静寂。それを私服の叶南が小声で破る。


『本当はまだ勉強終わってないけど』


 そう悪戯っぽく笑みを浮かべる叶南に感化されたらしい。

 イリスも暗い表情から一転、控えめな笑顔になる。が、すぐにまた暗い面持ちとなるや、その瞳から涙を流した。


『わ、わたし、ママに嫌われてるのかな……いつもダメで……ママを満足させられなくて……やることぜんぶうまくいかなくて……わたし……っ!』


 苦しそうに泣くイリスを眺めるうち、叶南のなかで哀切が膨れ上がった。


 同時に、母のイリスに対する言動に困惑を禁じえない。記憶の中の母はいつも優しかった分、知りえもしなかった一面が叶南には信じられなかった。教育熱心だったのは憶えているものの、それがもうひとりの家族を追い詰めていたことに、胸が締めつけられる。


 憐憫の情を抱かされ、思わずイリスの肩に触れようとした矢先――


『泣かないで。イリス』


 横合いから伸びてきたもうひとりの自分の手に、ハッと息を呑む。


『後でアイス買ってあげるから』


 イリスの肩に触れた手は、次いで小さな頭へと。


『なんでも好きなのだよ?』


 記憶に相違なければ、この後に続く言葉は。


『「お母さんに内緒でね」』


 二人の叶南の声が、ほぼ同時に重なった。


 気持ちよさそうに手の平の感触を確かめていたイリスが、涙を途切れさせて微笑する。


『ありがとう――お姉ちゃん』

『お母さんはイリスのことが嫌いだから怒ってるんじゃないよ。いつも厳しいけど、それは私たちのことを愛してくれてるからなの。それにね……』

『それに?』

『もしつらくなったらお姉ちゃんのこと呼んで。さっきみたいに助けに行くから』

『……うふふ、ありがと。大好き。大好きよ、カナン』

『私もイリスのことぁーーーい好きっ!』


 二人の少女が互いに抱擁を交わしながら、幸せそうな笑い声を上げた。その姿は端から見る叶南にとって、羨ましく思えるほどに仲睦まじいもの。何者も侵してはならない、尊い姉妹の関係がそこにはあった。


 だからこそ、やはり目の前の二人に困惑してしまう。


「……なんで忘れてるの……?」


 疑問はことさらに色濃く、傍らに立つエステルミアへと向けて。


「ねぇ、なんで忘れて――」


 投げかけようとした刹那、もうひとりの叶南の言葉に胸騒ぎを覚えた。


『ねぇ、お外行こっか?』

「え?」


 私服の叶南がイリスを遊びに誘っている。


『いつも読んでる絵本みたいに冒険しようよ』

『――不思議の国のアリス!』

『そう。ウサギ役は私で案内してあげる』

『じゃあイリスがアリス役ね。あ、でもぉ……』

『お母さんなら心配ないよ。私が言っとくから』

『本当?』

『うん。大丈夫。さぁ、しゅっぱーつ!』

『きゃはは! 高い、高ーい!』


 幼いイリスを肩車し、そのまま部屋を抜け出していくもうひとりの叶南。


「だめ……行ったらだめ……」


 だがその姿に焦り、端から見ていた叶南も続こうとしたが、


「ここまでだ」


 エステルミアに腕を掴まれ引き止められてしまう。


「時間がない。現世に戻るぞ。そのためにキミを迎えに来た」

「待って。その前に二人を止めないと。大変なことになる!」

「よせ、何をしようと無駄だ。これは追憶でしかない」

「それでも知らなきゃ。何が起こったのか知りたい!」

「知れば心が壊れて再生できなくなるぞ!?」

「それでもいい!!」


 エステルミアの手を強引に払いのけ、叶南はその場から駆け出した。


「待て!! 戻ってこい!!」


 だが叶南は止まらない。急ぎ二人を引き留めるべく追いかけるが、


「え……ッ!?」


 部屋を飛び出した直後、何の脈絡もなく変転した状況に戸惑いを覚える。


 いつの間にか場所は、自然豊かな森林公園へと様変わりしていた。良く晴れた日の、暖かな木漏れ日の中で、イリスの楽しそうな歌声が聞こえてくる。


『きーらーきーらーコウモリさん♪ あなたはーどこでー光るのかー♪』

『なんでコウモリ? 星じゃないの?』

『帽子屋さんがハートの女王に披露したのよ』

『ふぅん、面白いね。光るコウモリかぁ』

『カナンと同じだわ』

『え、私コウモリなの?』

『うふふ、違うわよ。お星さまみたいにキラキラで、暗いところを照らしてくれるの』

『なんだかロマンチックだね。私はイリスのお星さまだ』

『そうよ。何でも願いを叶えてくれるんだから』


 仲睦まじく談笑する姉妹が、叶南の前を通り過ぎていく。


「待って、ダメだよ!!」


 言いようのない不安が叶南に妨害を促した。姉妹の前に立ちはだかり、両手を広げて怒鳴る。しかしその声も、行動も、姉妹が何度も叶南をすり抜けたことで徒労に終わった。


 すると次の瞬間、イリスの前に青く美しい蝶が現れた。


『あっ、蝶々だわ!』


 どこからともなくヒラヒラと、陽の光を受けてキラキラと輝き宙を舞う。


『ちょっとイリス。ひとりで行ったら危ないよ』


 その忠告に従うことなく、イリスは嬉しそうに蝶を追いかけていき、


『知らないのカナン? あれは元芋虫さんよ。アリスに問いかけをする――』


 得意気に説明しようとしたそのとき、イリスは忽然と姿を消した。


 イリスッ! 二人の叶南の叫びは、ほぼ同時だった。


 足元の悪い獣道、傾斜は緩やかであろうと幼い少女には踏み止まれるはずもなく。余所見をしていたイリスは足を滑らせ大きく体勢を崩した。


 次いで滞空から落下、制止など望むべくもなく、小さな身体は谷底まで転がり落ち――川に流されてしまった。


『「ああぁああああああッ!?」』


 二人の叶南の悲鳴が重なる。

 だが慄然とする制服の叶南と違い、私服の叶南はすぐさま斜面を下っていく。母に買って貰った服が泥で汚れるのも厭わず、川に飛び込んだ。


 待って。


 過去の自分に叱咤されたような気がして、急ぎ叶南も慌てながら斜面を下る。だがそれは過ちであったと、川に飛び込んだ後で思い知らされた。


 流れは急で泳ぐなど無理だった。水中で喘ぎ、激しく回転する身体に翻弄されながら、叶南は平衡感覚を失い藻掻くばかり。そのうち水を飲み込んでしまい、疲労で意識が遠のきかけるなかで目にしたのは……。


 もうひとりの叶南に救われたであろう、川岸で泣き崩れるイリスだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る