第17話 蘇る過去、帰ってきたお星さま・・・

 ――全身が熱い。焼けつくような痛みに意識が霞む……。


 惨憺たる破壊の爪痕が刻まれた公園に佇むフィッツジェラルドの胸中は、邪魔者を排除した成果とは裏腹にひどく焦っていた。


 感覚のない左手で『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』を眺める。これさえあれば問題ない。やり直せる。いったいどういう経緯でディアアステルに負けたのかは不明だが、ともかくワンダフルアリスの魔法を使えば失敗は帳消しだ。


 忌々しい魔法使い――エステルミア・フレダ・メネルダリウス。まさか捨て身の覚悟で魔法を使うとは思いもよらなかった。おかげでこの身体も限界が来ている。


 急がねばならない。


 息苦しさを覚え、激しく咳き込みつつもフィッツジェラルドは、茫然自失としている少女に足を引きずりながら近寄った。乱れた頭髪を後ろに撫でつけ、片膝立ちでしゃがむ。


「アリス」


 掠れた声であろうと口調は厳めしく。どんな反論も許さないという意志を込めて。


「私のお願いを聞いてくれるか」

「……ぅぁ……」

「アリス」

「……わた、し……」


 少女が再び泣きだす。


「ひぐ、負けちゃった……」

「アリス。いいから話を――」

「ご、ごめんなさ……う、ぁああ――」

「そんなことはどうでもいい!」


 パン。フィッツジェラルドが少女の頬を張り手する。


「勝敗など問題ではない! 今すぐ変身して魔法を使え! この私を、私に魔法を使うんだ! かつて夢見た魔法少女……いや、魔法少女を超える存在にしろお!!」


 頬を叩かれただけでなく、鬼気迫る顔で怒鳴られたアリスにとって、それは抗いようのない絶対遵守の命令だった。あと数瞬でもぐずれば、目の前の男は拳を振るってくる。その危惧が、恐怖が、震える手となって差し出された『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』を受け取る。


「アリス」


 再び呼ばれてビクつく少女が目にしたのは、人が変わったように優しい笑顔。


「安心しなさい。お前は――イリス・フィッツジェラルドは世界中で誰よりも強い子だ。パパの自慢の娘だ。お母さんもきっと満足してくれる。だから、一緒に行こう」


 その穏やかな口調で、少女――イリスの心は完全に傀儡かいらいとなった。


「うん、うん……わたし、頑張るね!」


 躊躇なく、臆することなく、ワンダフルアリスへと変身したイリスは、


「見ててね! パパ、ママ!」


 満身創痍のフィッツジェラルドに抱きつくと、


「『幻想加筆・概念置換オーバーライト・アトモスフィア』――〈絶対無敵の有翼魔獣フォールンワン・ザ・フェルビースト〉ッ!」


 心から幸せそうに、禁断の呪文を紡ぎ出した。


 この光景を上空から見守っていた番組アナウンサーは、後にこう語る。


『――はい。アリスとフィッツジェラルドさんが光に包まれましてね。するとそこから怪獣が出てきたんですよ。あれは今までのヤツとは何もかも違った。人狼……いや虎かな。とにかくそんな動物が人みたいに立ってましてね。大きさは三メートルくらい。結構小さいでしょ? でもね、恐ろしく強かった。だって、アリスの魔法を使うんですから……』


 ついに番組アナウンサーは理解し得なかったが、その人虎じんこは『幻想加筆・概念置オーバーライト・アトモスフィア』の全権を奪った三番目の召喚獣〝バンダースナッチ〟に変貌したフィッツジェラルドその人であった。彼に唆されるあまり、その心のすべてを委ねたことによってワンダフルアリスは無意識に魔法を放棄。術式が暴走した結果、怪獣への再構成に巻き込まれ、その身体をバンダースナッチに取り込まれたのが事の真相である。


「これが力ァ! 私だけのぉオお! 魔法だああうゥああアアあああ――ッ!!」


 獣のように吼え猛り、自身を中心に魔力を迸らせるフィッツジェラルド・バンダースナッチ。泡沫市を包んでいた結界は範囲を拡大し、その支配圏を数百キロの彼方にまで展開。結界内の生命体を次々と分解し始める。


 異変に気づいた泡沫市が、騒動の兆しを見せはじめた。住民たちは身体の不調を訴え、何が起きたか知る由もなく昏倒。手足の末端から少しずつ塵と化していく。


 だが、この現象を邪魔する者がいた。


「また随分と派手にやるじゃないか。フィッツジェラルド」

「――ぬゥっ!?」


 不意に響いた何者かの声を聞くと同時に、フィッツジェラルドは妨害に気づいた。

 泡沫市を覆う結界の天蓋てんがい。その内面にいくつもの魔法陣が浮かび上がり、回転と併せて内部の異変に干渉。住民たちの容態を映像の逆回しのように回復させていく。


 かような奇跡を実現しえるのは、ひとえに魔法使いをおいて他にいない。

 そして現状、泡沫市に滞在する者と言えば――


「エステルミア……ッ!」


 振り返った先に立つ銀髪の美女を認めて、フィッツジェラルドは歯噛みした。


 性質変化した結界内にありながら、まるで効かぬと嘲笑うかのように、凛然と佇むその佳容かよう。目の当たりにする彼にとっては、つい先刻の憤怒を思い出させる居住まいだ。が、


「あまり強がるなよ。いくらお前でもアリスの呪いはこたえるだろ」


 フィッツジェラルドの言う通り、エステルミアは振る舞いこそ気丈としているが、その衣服の下に広がる呪いは着実に彼女を蝕んでいた。


 激痛という表現すら生温い。皮膚を染める黒い魔力は肉をあぶり、骨を軋ませ、神経を絶えず責め苛む。バーナーで肌を焼かれるような、全身をプレス機で圧迫されるような地獄が、いまエステルミアの感じるすべてだった。


 口から滴る血液、蒼白の顔色。そして滝のように流れ落ちる脂汗。

 一目で異常とわかる容態。それでも活動を続けられるのは、強靭な肉体と精神を持つ種族ゆえであろう。


 とはいえ、その忍耐も時間の問題である。


「そんな状態で魔法を使えば、自分の生命いのちを削ることになるぞ。今すぐ解いたらどうだ?」


 ところがエステルミアにとっては、その問答より怪我人の手当てのほうが重要らしく、身を屈めながら真礼の腹部に手をかざすと、その傷口に向けて治癒の魔法を施した。


「エ、エステルミアさん」


 真礼が涙声でささやく。


「叶南が……叶南が……」

「喋るな。すぐに良くなる」


 挑発を無視されたフィッツジェラルドが、苛立ちで引き攣った笑いを漏らす。


「まったくお前という女はどこまでも私をイラつかせる。……まぁいい。それよりもどうだね、この美しい姿は! いまや『幻想加筆・概念置換オーバーライト・アトモスフィア』は私のものだ!」


 両手を広げて自画自賛するフィッツジェラルドの毛深い胸板。そこが光の粒子となって一部霧散すると、その内部に取り込まれたワンダフルアリスが露出した。生きながらにして魔法の制御、並びに動力源にされているのだ。


 それを横目で一瞥するだけで、エステルミアは治療に専念したまま応じる。


「肥溜めでも覗いてる気分だよ。アリスを取り込むとは……」

「こうでもしなければ私は死んでいた。あの雷、なかなかに痛かったぞ」

「ああ、それで察したよ。お前、【聖女】の実験台にされたな?」


 指摘され、フィッツジェラルドは胸元を覆い隠して呵々大笑かかたいしょう


「ご明察! デウス社が行った非合法の生体実験、その第一号がこの私だ!」

「それで雷を受けても平気なわけか。だが、察するに実験は失敗だったらしい」

「おかげで念願の【聖女】には成れなかったがね。手に入れたのも頑丈な肉体とナノマシンによる治癒能力だけだ」

「――ナノマシン……っ!」


 治癒魔法で幾分か回復した真礼が、血色を取り戻した顔で起き上がる。


「やっぱり。そうなんだ……」

「待て。まだ治療は済んでない。寝てなさい」


 だが真礼は従わない。制止するエステルミアの手を払い除け、力強く言い放つ。


「叶南も、ワンダフルアリスも、【聖女】はナノマシンの集合体! そうなんでしょ!?」

「……知っていたか」

「解析したから。『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』を。最初は信じられなかったけど……今でも信じたくないけど……けど、なんで……なんで言わなかったの!?」


 朝露高校で知った【聖女】の真実は、それまでの常識を覆すほどの、にわかには信じがたき現実――否、真礼にとっては許しがたい所業であった。


 身体拡張技術は現代医療において実用化されてはいるものの、実際は義手義足や人工臓器等の補助止まりであり、こと全身を代替するには生命倫理や適合の問題があるため、現状完全な普及とまでは至っていない。


 ところが【聖女】になった叶南の身体は、そんなサイバネティクスを遥かに超えるナノテクノロジー。肉体を構成する全細胞がナノマシンに置換されており、磁力による粒子結合で肉体の再構築・解除を可能にした――いわば変幻自在のサイボーグと言える存在なのだ。


 しかし、この超技術を素直に喜べるほど、真礼は愚かではなかった。


「人をナノマシンに変えるとか、殺したようなものだよ!!」


 魔法使いは短く溜息して、まるで些事さじと言わんばかりに滔々と語りはじめる。


「なぁマアヤ。考えてもみろ。私たちの身体を構成している分子や原子は絶えず分解され、捨てられ、また新しい物質が入ってきて置き換えられる。一〇年もすればあらかた変わって別人になってしまうんだよ。なのに、いまさら【聖女】の在り方を説く必要になんの意味がある? 一〇年前の別人のキミを、今のキミと違うことを嘆いたってしょうがないじゃないか」

「違う、そんなの違うよ! 生きてることに価値があるの! 歳をとって死ぬから人間なの! 叶南には、あの子には未来があったのに! それをぜんぶアナタが奪ったんだ!」


 たしかに人間は新陳代謝によって、身体を構成する組織を日々新しい細胞に置き換えられているが、その事実を〝ナノマシンに再構成された人間は同じ人間である〟と同義とするのは、自己の唯一性を尊ぶ人間にとって受け入れがたい理屈であろう。


 ゆえに真礼の怒りは当然だった。老いることも、死ぬこともない人間はロボットにも等しく、ただひとり在り続ける残酷を想像できるがゆえに、真礼は友人の境遇を嘆いているのだ。


 しかし人間の姿形をすれども、その価値観においてまったく異なる種族のエステルミアからしてみれば、真礼の主張は理解できても共感には至らなかった。ゆえに――


「許してくれとは言わないよ。憎むのも構わない。だが理解してほしい。すべては我々の悲願、アースノールを取り戻すための手段なんだ」


 その主張があまりにも人道に反するからこそ、二人の関係は決定的なまでの溝が生じた。


「私、アナタを許さない! 絶対に許さないから――ぁ……っ!」


 激情に駆られるあまり傷を忘れていたのか、苦痛に言葉を途切れさせて真礼は倒れる。


 それを咄嗟に抱き留めたエステルミアが、治療を再開しながら乾いた声で告げた。


「キミたち人間にとって永遠に存在するということは、それだけで残酷なのだろう。が、世界の守護者とは〝そういうもの〟だ。犠牲によって定義づけられる」

「……ごめんね、叶南。友達なのに何もできなかった。ごめんね……」


 涙を流して己の無力を嘆く真礼に、フィッツジェラルドが微かな動揺を示す。


「樫木真礼くん、だったね。どうやってプロテクトを解除したかは知らんが、『聖櫃ラナ・輝石ジュエル』を解析したことは我が社にも伝わっている。そこで提案なんだが、どうだろう。大学を卒業した暁には、是非技術部門にスカウトして――」

「お断りよ! 誰がお前のいる会社になんか、くたばれ!」

「むう、フラれちゃった。なら殺すしかないな。【聖女】の正体は我が社の最高機密だからね。……だがその前に、エステルミア。キミも人が悪いな。まさか伝えてなかったとは」

「必要あるまい。ホシミカナンは私の要求にこたえ、みずから進んで【聖女】となった。たとえ真実を知ろうとも彼女の――ワンダフルアリスを救う目的だけは変わるまい」

「……なるほど。そうせざるをえない人物を選んだわけか……」


 フィッツジェラルドが踵を返し、やおら虚空に向けてその身体を宙に浮かせた。ワンダフルアリスを取り込み、『幻想加筆・概念置換オーバーライト・アトモスフィア』の支配権を得たことによる質量操作と気流制御が、彼に飛行を可能とさせているのだ。


「どこへ行く」


 治療を終えたエステルミアに呼び止められ、フィッツジェラルドが振り向いた。


「気が変わった。とてもファンタスティックなアイデアを思いついたからね」

「何をするつもりだ」

「わからないのか?」


 フィッツジェラルドが不敵な笑みを浮かべる。


「おいまさか……」


 事ここにきて嫌な予感めいたものを感じながら、エステルミアは顔を渋くした。


「そのまさかだ! レッツショウタァァイム!」


 パチン、とフィッツジェラルドが指を鳴らした直後、それは起こった。


 彼の周囲に浮くドローンから鳴り響く、場違いなまでに軽快な音楽をエステルミアは憶えている。あれはそう、〝プエラ・マギ・バトル〟を発表したときの――


「我が魔の手から逃れし市民の皆様!! 如何お過ごしでしょうか!? 新企画の発表です!!」


 事実、記憶に相違なくフィッツジェラルドは自身を大型ビジョンに映していた。おそらくはこの目論見のために、わざわざ分解から除外したのだろう。依然として空を飛ぶ魔法結社TVの撮影陣スタッフは、またもやカメラの権限をドローンに奪われたのである。


「苛烈を極めた〝プエラ・マギ・バトル〟も最終局面を迎えました! これに伴い、本バトルも新たなステージへと移行します! その名もォオオオオオオ――ッ!」


 白熱する実況を雄叫びに変えて、身体を極彩色に輝かせるフィッツジェラルド。そして次の瞬間には両手を突き出すが早いか、触れもせずに眼下の建物を分解する。


「これは……ッ!?」


 尋常ならざる魔力の放射から、『幻想加筆・概念置換オーバーライト・アトモスフィア』による崩壊であることを魔法使いは察した。指揮者のように手を振るうだけで建物を分解させるフィッツジェラルドは、さながら破壊神のごとき威容である。


 だが圧倒される暇もあればこそ、続く凄惨な光景に目を見張るしかない。


 崩壊する建物の中から、成す術も無く地上へと落下していく市民たち。悲鳴を上げて瓦礫に呑み込まれるさまは、悲劇と言わずして何という。


「――ねぇ、何とかしてよ!?」


 すでに治癒魔法で完治を果たしていた真礼が、エステルミアへと助けを乞う。


「無理だ。助けようにもこれ以上の魔法は――」


 と、言葉を続けようとした瞬間、吐血。エステルミアはその場に崩れ落ちた。


「ちょ、ちょっとぉ!?」


 咄嗟に抱き留めた自分の行動に、今度は逆の立場を感じる真礼だったが、目の前で繰り広げられる災害に新たな変化を認めるや、いよいよ抜き差しならない状況を理解する。


 建物のみかに思われた分解が、地上までをも巻き込みはじめたのだ。


 それは、さながら地滑りと呼べるような現象であった。


 遠く音を立てて迫りくるその轟音はアスファルトを崩し、乗用車を呑み込み、逃げ惑う人々を一人、また一人と地の底まで滑落させる。崩壊は縦横無尽に繁華街へと行き渡り、かつての景観を損なわせる大災害となった。


 だがそんな認識もまた、続く崩落で塗り替えられてしまう。


「――待って。待って待って待って待ってぇえええええええ!?」


 かつてディスカバリーチャンネルで見た雪崩のそれを思わせる速さで、地崩れが近づきつつあるのを真礼は見て取った。しかし昏倒するエステルミアを放ってはおけず、さらに恐怖で足がすくむとくれば逃げられない。


 かに思えたそのとき、地に臥せったエステルミアのコートから、何かが飛び出した。


「Cyoooooooo――ッ!!」


 鼓膜を破らんばかりの怪鳥音とともに、空間拡張魔法の収納領域から姿を現したのは、全身を金属で構成する梟であった。つい先刻、ドローンによるビームで破壊されたミネルヤと同じ、寸分違わぬそれが勢いよく宙を舞う。


「待たせたな! オレ様復活だぜぃ!」

「ウソォ!? ミネルヤッ!? なんで!?」


 空を仰ぎながら動転する真礼に、二体目のミネルヤが大声で告げた。


「機械だからな! 壊されても意識は新しい機体ボディに移るぜ!」

「え、それっていまデウス社で開発中の記憶転写メモライズ技術――」

「言ってる場合か!」


 危険を顧みず喰いつく真礼を、だがミネルヤは一喝するやすぐさま急降下。少女の襟首を足で掴み上げ飛翔すると、そのまま猛スピードで崩れ行く地上から脱した。


「ひぃいいいいいいい――ッ!?」

「振り落とされんじゃねぇぞ!?」

「ま、待って。置いてけない!」


 並々ならぬ高さに慄然としつつも、真礼は魔法使いの安否を気遣う。


 しかしその心配も次の瞬間、予想だにしない現象によって杞憂きゆうとなった。


 エステルミアの肩に羽織られた『天翔星女アステリア』が主の危機に瀕し、彼女の身体を宙に持ち上げ後を追ってくるではないか。


「えぇ……ッ!?」


 いったいどういう仕組みでエステルミアを飛行させているのかはさておき、差し迫った問題が解決したと見るや真礼は、振り落とされまいと必死にミネルヤの足を掴んだ。


 やがて虚空を舞う瓦礫の群れを抜け、その脅威から遠く離れた南柯町なんかちょうまで飛行した頃、ミネルヤが徐々に高度を下げた。低空飛行からの軽やかな着陸を経て、真礼を開放する。


 エステルミアを運ぶ魔法のコートも追いついた。

 主を道に寝かせ、自身は浮遊する。


 未だ治まらぬ動悸を自覚しつつも、真礼は半ば放心状態のまま繁華街を眺めた。


 すでに崩壊は止まっていた。だが地上にまで及んだ分解は火災を発生させ、至る所で黒い煙を噴き上がらせている。黒煙は沈黙と死を纏った火の粉を漂わせ、高みに達しては空気と溶け合い甲斐なく消えていく。


 ふと、視界の端で忍び寄る魔法のコートを見て、真礼は顔を向けた。


 まるで人間が腕を伸ばすかのように、『天翔星女アステリア』がそでを差し出していた。袖口には、これまた器用に握られている青い宝石――叶南の『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』がある。


 それを受け取って呆然と見下ろすうち、胸に込み上げる悲哀を覚え真礼は泣いた。


「叶南……」


 失われた関係。温かな笑顔。共に過ごした時間に和やかな日々。


 取り戻せるなら何でもする。記憶を維持したまま、時間を巻き戻したい。そしたら【聖女】の契約なんかさせなかったのに。ひとり叶南を帰らせず、魔法使いから守ることもできた。


 溢れる涙が宝石の表面に滴下したそのとき、横合いから震える白い手が伸びてくる。


「――希望はまだ、ついえていない――」


 エステルミアの手だった。しかし指の弱々しい痙攣けいれんが、それだけの動作さえ精一杯なのだと察して、真礼は気遣いながらも問いかける。


「どういうこと……?」

「【聖女】の肉体を構成するナノマシンは……核となる『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』から放出され――」


 ゴフッ。

 無理な会話がたたったせいか、エステルミアがさらに喀血かっけつしだす。


 だが、その内容に鈍い感触を覚えた真礼にとって、容態に対する心配は二の次だった。


「じゃあ、叶南はまだ……」

「消えてない」


 口元の血を拭い、霞む意識を奮い立たせながら魔法使いは、渾身の言葉を絞り出す。


「たとえ身体が塵と化そうと『聖櫃輝石ラナ・ジュエル』がある限り【聖女】は――何度でも蘇る」

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