第6話 悪魔の人間兵器

 このような人間兵器というのは、どういうものなのだろう?

 最初は、オオカミ男として君臨し、それが、人を襲うことで、ドラキュラのように、吸血鬼を増やすということなのか?

 とにかく、発想としては、いかにこの世を、

「人間兵器というものにするか?」

 ということであったが、教授にも、それなりに、人間としての、モラルのようなものがあった。

「もし、研究に成功したとしても、その使用は、最後でなければならない」

 ということだった。

 それは、戦争に勝っている時であっても、負けている時であっても、同じことである。

 まずは、

「勝っている時」

 の発想であるが、

「戦争に勝っている時は、何も、こんな兵器を使う必要はない」

 と考えるが、この兵器を使うことで、

「早く戦争を終わらせることができる」

 ということであった。

 相手に対して、最後のとどめということで、相手に、戦意を喪失させる効果があることで、相手に、

「参った」

 と岩瀬、和平交渉にて、

「自分たちがいかに、優位な条件で、戦争を終わらせることができるか?」

 ということである。

 和平交渉の場合が、一番問題なわけで、

「特に勝っていての和平の場合は、どこまで、自分たちに優位にことが運べるか?」

 ということが大きな問題になるのだった。

 というのも、

「負けている方は、何とか被害を最小限にできるか?」

 ということだけが焦点なのだが、勝っている方はそうもいかない。

 国民が、

「犠牲を払ってまでの勝利を導いたのは、国民一人一人の努力だ」

 と思っているからであろう。

 だから、

「どれだけの褒美がもらえるか?」

 ということが、少なくとも最低ラインを超えることが必要だ。

 そうでなければ、

「暴動が起こっても無理もないことだ」

 というのも、以前の戦争において、

「戦況は、勝っていのであるが、実際には、これ以上の戦闘は無理だ」

 ということで、和平交渉に入れたのは、タイムリーなことであり、結果、

「相手との痛み分け」

 ということで、

「領土獲得」

 というのはうまくいったが、

「賠償金」

 というものが取れなかったということで、世論が沸騰し、暴動化したのだった。

 公園は、焼き討ちに遭い、その時の外務大臣や、全権大使として、和平交渉に臨んだ人のことを、糾弾するという意味で、家に石を投げたりなどして、治安が大きく乱れ、

「大日本帝国初」

 という、

「戒厳令」

 というものが、敷かれる事態になったのだった。

 そういう意味で、

「勝っている時の和平交渉」

 というのは、難しいといってもいいだろう。

 教授が、この村にきて、もう一つ感じたことが、今回の

「変身」

 をテーマにした開発に、もう一つのヒントを与えた。

 というのが、

「時間の感覚が違っている」

 という発想だった。

 変身をさせるためには、

「今の青年男子を、改造手術のようなもので、エージェントいしてしまおう」

 という発想しかなかったが、さすがに、それは、人道的に許されることではなく、結局、「人間が減ってくる」

 ということには変わりはないといえるのではないか?

 と考えられる。

 だとすると、

「満月の夜にだけ、生まれてきた男の子の、何人かは、潜在的に、

「変身機能」

 を持っていて、何かの現象によって、スイッチが入ることで、

「兵士」

 として、覚醒するということになるのではないだろうか?

 そもそも、変身というのは、今回の場合は、

「戦争に使う兵器の開発」

 ということであった。

 この時代には、生まれてきても、それは、

「大日本帝国の子供」

 であり、ひいては、

「天皇陛下のための子供」

 ということで、

 ある程度の年齢になると、

「徴兵」

 ということで、

「兵隊にとられる」

 ということであり、元々の、

「職業軍人」

 というだけではなく、ある年齢の者が一定期間入隊するという、

「兵役軍人」

 というものの二つがあるのだ。

 平時でも、そうなのだから、これが

「有事」

 ということになると、

「国家総動員」

 ということで、一気に、

「戦争機運」

 というものが、沸騰してくるというものである。

 戦争において、どのような、

「国家総動員」

 ということになるのかということを考えると、

「我々は、どのような戦闘をしなければいけないのか?」

 ということであった。

 生まれてからすぐ、

「人間兵器」

 としての変身機能を有した者は、

「兵役軍人」

 というわけではなく、最初から、

「職業軍人」

 ということになるだろう。

 もっと言えば、

「彼らは、最初から軍人になることが決まっているのであった」

 そんな、

「人間兵器」

 の開発は、

「来るべき、戦争に備えて」

 というものであるが、どうも、

「想像していた以上に、その時、つまり、Xデーというものが、早い」

 というのが分かってきた。

 世状は厳しいものだった。

 そもそもの、

「人間兵器」

 の発想は、

「生まれてからすぐに、その返信効果を植え付ける注射を行う」

 ということで、変身という、

「潜在能力」

 を植え付けることが、この研究の基本的な部分であった。

 だから、彼らが、

「いかに、その間、いろいろな経験をすることで、覚醒に近づいてくるか」

 ということが問題で、少なくとも、身体の発育は、そのままでないと、

「最大の兵器としての効果がない」

 ということになるのだった。

 しかし、実際の戦争は待ってくれないようだった。

 何といっても、軍というものが、

「天皇直轄」

 という、そんな状況であることから、

「軍部は、政府も口を出せない」

 という、どうしても、閉鎖的なところが、暴走したということになるのだが、それも致し方ないことであった。

 だから、大日本帝国が戦争に突き進んだ時、一番の失敗の一つとして、

「ドイツと手を結んだこと」

 ということになるかも知れない。

 ひょっとしてではあるが、ドイツと手を結んでさえいなければ、日本が中国に進出してきた時、欧米列強からの、

「経済制裁」

 というものはなかったかも知れない。

 中国侵攻によって、中国側が、どんどん撤退していくことで、

「日本軍が、どんどん奥地に引きずりこまれる」

 ということは、

「中国側が、本当に意図したものだったのか?」

 ということであるが、

「結果的には、相手の思うつぼにはまってしまった」

 といっても過言ではないだろう。

「中国側のそんな意図しない戦略が、結果日本を追い詰めることになるのだが、それは、中国側が意図していないだけで、ひょっとすると、欧米列強による指示やアドバイスのようなものがあったのかも知れない」

 といってもいいかも知れない。

 何といっても、ヨーロッパでは、

「待ったなし」

 だった。

 ナチスの侵攻は、とどまるところを知らなかった。

 文字通りの、

「電撃作戦」

 というものが功を奏して、どんどんヨーロッパは侵略されていく。

 特に、フランスを降伏させたことは、日本にとってもありがたかった。

 というのは、資源確保のための、進駐先として、まずは、

「インドシナ」

 というところが問題となるのだ、

 そもそも、

「仏領インドシナ」

 という言葉があり、そのあたりは、フランス領だったのだ、

 普通でいけば、フランスが敵国になるはずなのだが、ドイツが侵攻し、そこで、傀儡政権を作ってくれたおかげで、

「仏印には、宗主国であるフランスの許可を得た」

 ということで、大義名分が整うのだ。

 しかし、列強は、そこでさらに、

「石油などの輸出を全面禁止」

 と日本に対しての、経済制裁を強くしたのであった。

 そんな日本の侵攻は、

「非難されるものではなかった」

 といえるだが、それをわざわざ、締め付けるようなことをしたのは、

「アメリカとしては、早く日本を引きずりだすことで、自分たちも戦争をする大義名分が欲しかった」

 といってもいいだろう。

 それが、世界情勢の、

「スピードを速める」

 ということの理由だったのだが、

「日本における変身を使った人間兵器」

 というものが、実際に機能していないといってもいい。

「このままであれば、まだ、10歳未満の頃に戦争が始まってしまう」

 ということであった。

 教授がくぎを刺すように、口を酸っぱくして言っていることだが、

「この兵器は、勝っていても負けていても、あくまでも、最終兵器だということをお忘れなく」

 ということを、軍には説明していた。

 しかし、軍というところは、実際に、士気が高まってくると、頭の中が、

「戦闘脳」

 になってしまうので、視野が極端に狭くなってしまい、そのために、

「戦争というものが、いかに正攻法になるか」

 と考えるようだ。

 始まってしまうと、

「なんでもあり」

 とまで考えてしまうことが、戦争というものであり、それによって、時間が短く感じるのは、

「頭が猪突猛進になってしまうからだ」

 というのが、教授の独自の考え方であった。

 ただ、どうしても、世間の声は無視できないとも思っていた。世間の声を無視できる人であれば、

「鬼になれるのだろうが、世間の声を無視できないせいで、鬼に徹することができない」

 ということである。

 世間の声を気にしるからと言って、教授が、

「聖人君子だ」

 ということではない。

 そもそも、兵器開発をする人間の、何が。

「聖人君子だというのか?」

 ということであるが、そんなことはない。

 例えば、一つの話として、

「伊藤博文は、日露戦争に反対だった」

 という話を聞くと、

「ああ、じゃあ、伊藤博文という人は、戦争反対論者で、平和主義者なんだ」

 と果たしていえるだろうか?

 日清戦争の時には、首相として、奮闘していたのだ。

 日露戦争の場合は、

「時期尚早」

 ということで、

「今、戦争になったら勝ち目はない」

 ということでの、他の方法を模索していただけであった。

 だから、伊藤博文とすれば、

「今ロシアと敵対するよりも、来るべく、対米戦に国力を蓄えておかなければいけない」

 という思いもあったことだろう。

 しかし、

「時間が経てば経つほど、ロシアとの国力が増してくるので、やるなら今しかない」

 という言葉に、納得したということでしかなかったのだ。

 一つの言葉だけを切り取るという、

「マスゴミ」

 による、常套手段をとってしまうと、

「事実を見失ってしまい、真実が遠ざかってしまう」

 ということになるのだ。

 さらには、

「人の上に人を作らず」

 といった、あの福沢諭吉だって、平和主義者というわけではなく、戦争はする時はしなければならないということであったり、中国の革命家である、孫文に肩入れしたり、助言したりしていたではないか。

 本当の、いわゆる、

「平和主義者」

 であれば、そんなクーデターを起こそうとしている人に援助をしたりはしないのではないだろうか?

「平和主義者」

 というのは、実に曖昧な表現で、平和主義者が、すべての戦争に反対しているわけではないし、逆に、戦争推進派も、相手の国に侵略し、国土を拡大するというような、独裁的な人ばかりではないということだ。

 それは、歴史認識がしっかりしていないから、そんなことになるだけで、逆に、

「歴史を勉強しないから、好きになれるわけはない」

 という理屈を同じで、それこそが、

「交わることのない平行線だ」

 といえるであろう。

 だから、その後に訪れる、

「平和な時代」

 というものを、学校で習う。

「平和憲法の下で、恒久平和な国」

 ということであったり、

「基本的人権の尊重」

 などといういうのが、

「夢幻のごとく」

 だということを分からないのだ。

「人間は生まれながらに平等である」

 という言葉があるが、これこそ、民主主義においては、

「欺瞞」

 ではないだろうか?

 というのも、

「民主主義というものの問題点は、品保の差にある」

 と言われている。

 だから、生まれてくるのも、

「誰の子供で生まれてくるか?」

 ということによえい、その後の人生が、まったく変わってしまうということは、当然のごとくあるということだ。

 だからといって。

「金持ちの家に生まれたから幸せだ」

 とも言えないだろう。

 金持ちの家に生まれると、ほとんどは、その人の人生の階段は、決まっているようなものであり、

「帝王学」

 なる、

「経営者であったり、政治家、医者になるための、いわゆる、後継者としての道しか、用意されていない」

 そのために、先代は、後継者を育てることも、大切な仕事だからである。

 だから、

「家は裕福で、何不自由のない生活を送れるかも知れないが、裏を返せば、自由というものはまったくない」

 ということになる。

 本人の意思など、まったく関係なく。親が敷いたレールに乗っかるだけで人生を終える人も多いことだろう。

 しかし、それが、封建制度の時代であったり、帝国主義時代などの、大日本帝国などであれば、その時代には、

「帝王学を叩き込まれても、立派な2代目になるということも多いだろう」

 といえる。

 ただ、

「初代が偉大過ぎると、目立たなかったり、まわりが勝手に比較することで、自分が惨めな立場に追い込まれることも少なくはない」

 それを考えると、

「しっかり次世代につなげられた2代目というのは、初代にはない素質のようなものを持っていないとできないだろう」

 つまりは、その人の性格にもよるというもので、大日本帝国が、敗戦まで続いたのは、

「しっかりした議会や、内閣制度、さらには、軍政もしっかりしていたからではないだろうか」

 ただ、それよりも、いろいろと物議をかもすということも多いが、

「天皇制」

 という、

「日本の国体」

 というものが、

「国民一人一人にしみついていて、ひどい言い方をすると、洗脳されていたともいえるかも知れないが、国家体制の継続という意味では、しっかりしたものだった」

 といっても過言ではないだろう。

 それだけ、大日本帝国というのは、しっかりとしたものであって、

「不平等条約撤廃」

 を目指し、

「富国強兵」

「殖産興業」

 政策がしっかりと行われ、先進国に近づくための、議会政治であったり、内閣制度の確立。さらに、軍部の統制と、

「天皇直轄であった」

 ということが、賛否両論あるだろうが、功を奏したと考えてもいいのではないだろうか?

 それだけ、大日本帝国は、その後の、平和主義になった時代から見れば、

「古めかしい黒歴史」

 のように思われるかも知れないが、その後の時代の民主主義に比べて、決して劣っていたわけではないといえるのではないだろうか?

 鮫島博士は、そんな大日本帝国の、

「国家の存亡」

 を任されたという気概を持って。研究をしていた。

 それが、

「愛国心」

 というものであり、その後の、

「民主主義」

 と言われる時代に、

「もっとも低下した」

 あるいは、

「消滅した」

 と言われるものではないだろうか?

 何といっても、新憲法の下では、

「国民主権」

「基本的人権の尊重」

「法の下の平等」

 であるが、国民主権だからといって、

「個人主義」

 というわけではない。むしろ、平等というのも、

「法の下の平等」

 ということであって、裏を返せば、

「法律に違反することになるのであれば、平等でなくてもいい」

 ということになる。

「民主主義というのは、多数決だ」

 と言われる。

 それは当たり前のことであり、その場合の少数意見は、完全に、抹殺されるといってもいいだろう。

 例えば、

「人一人の命は地球を重い」

 という人がいるが、たとえば、

「悪の組織のテロリストのような連中が、自分たちの要求を受け入れさせえるために、誰か善良な市民を人質にとったとしよう。その時、人質解放の条件として、犯罪人の釈放を要求してきたとして、聞き入れられなければ、人質を殺す」

 となった場合、

「人の命が、一番大切だ」

 ということになれば、まずは、人質解放のために、相手の意見を飲むだろう。

 しかし、普通はそんなことはしない。

「国の威信」

 ということで、相手の要求を蹴ったりすることだってあるだろう。

 実際に、レンジャー部隊を送り込んで、

「ひょっとすると、人質が危ないかも知れない」

 という状態でも、治安を取り戻すことが大切だということで、強硬突破を試みる国もある。

 それは、人質一人の命と、この時間にでも、他に犠牲者が出ているかも知れないと考えた時、

「どっちが、まだましなのか?」

 と考えることだろう。

 それを思うと、

「国家がどちらを選ぶのか?」

 ということが、そのまま、国家主義に結びついてくるといってもいいだろう。

「民主主義なら、こうする」

「社会主義なら、こうする」

 ということである。

 そういう意味で、

「本来、人間の命は平等であるはずだ」

 ということであれば、

「国家体制によって、変わってくるというのであれば、どの国に生まれるかということで、運命が変わるというものだ」

 さらに、どの国に生まれても、一生のうちに、クーデターが起こらないとも限らない。国家によっては、ずっと内乱が続いているところもあるではないか。表に出るだけで、殺される危険にさらされるということであれば、それが、その人の運命だとすれば、

「これのどこが、平等だ」

 ということになるだろう。


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