第5話 変身
この村において、満月について研究していた鮫島博士は、ある仮説を立ててみた。
「男の子ばかりが生まれるこの土地には、吸血鬼伝説があることで、女性の生き血を吸うドラキュラというものが、昔から伝説としてあったのではないか?」
ということだった。
それは、あくまでも、
「満月の夜に、男の子ばかりが生まれる」
ということに気づいた村人が、
「その理屈を大義名分として、説明がつくように、伝説として口伝で伝えてきた」
ということではないだろうか?
そのうちに、その伝説を、
「おとぎ話の口伝」
であるかのように仕立てれば、
「大義名分も、そんなに騒がれることもないだろう」
ということであった。
「満月の夜に、男の子ばかりが生まれる」
などというウワサガ立てられれば、その原因を勝手な理屈をこねて、
「妖怪の類だ」
ということで、一刀両断されてしまうと、村の存続というものが、問題だということになるだろう。
「伝説の一つ」
ということにしてしまうと、
「他の村にも伝わっている妖怪の類だ」
ということで、ごまかすことができるというものだ。
「木を隠すなら森の中」
という言葉があるが、まさにその通りではないだろうか。
特に、このような、
「村の存続にかかわる」
というようなことは、
「村の伝説」
として。しかも、
「口伝」
ということにしてしまうと、ごまかしも利くということである。
そんな伝説をさらに深くしようと考えたのが、
「祠の隣にある神社ではなかったか?」
村人の一人が、そのようなことを口にしていた。
「村に昔あった神社なんだけど、あそこは、今は取り壊されて、祠を立てたということなんだけど、その時の神社にあったものが、近くに埋められているということなんですが、それがどこにあるか、まったく分からないんですよ。未来の人間に分かっては困るということだったのか、昔から、その秘密を探ろうとしていた人が、災難にあったということは、伝説として残っているわけですよ」
というのだった。
「それもおかしな話のような気がしますね。どうして、神社を壊したのかということも問題だし、その神社の存在を知られたくないということなのかも知れないけど、その理由が分からないですよね」
というと、そこで、この村人が、
「昔から伝わっているはずの伝説がこの村にはあるはずなんですが、それが何かということを分からなくするためではないかと思うんですよ。今残っている伝説としては、満月の夜に、男の子が生まれるというもので、先生は、その伝説を調べにきたんですか?」
と言われた。
「ええ、そうなんですが」
というと、
「なるほど、この村に、今までにも何組か、大学の先生が調べに来たことがあったんですが、結局、どこまでわかったのかわかりませんが、学会などで、分かった秘密を暴露できるものではないということでしたね」
ということであった。
「伝説というのは、公開してはいけないと感じたのかも知れないですね」
と、鮫島教授は、そう考えたのだった。
その次に訪ねてきた村人からは、
「この村に伝わる伝説というのは、海外の物語に似たものがあると聞いたことがある」
ということを言っていた。
それが、
「オオカミ男」
なのか、
「吸血鬼ドラキュラ」
なのかということまでは分からなかった。
相手が、敢えて言わなかったということなのか、それとも、
「いわない方がいい」
ということで、ヒントのようなものだけにとどめておいたのか、
とにかく、教授ということで、
「ピンとくる」
と感じたのだろう。
そもそも、
「満月」
ということで、
最初に思い浮かんだ伝説というと、
「オオカミ男だ」
というのは当たり前のことである。
そして、月という発想から、
「吸血鬼ドラキュラ」
を思い浮かべるのも当たり前ということだ。
それぞれの話に、
「月が絡んでいる」
ということは、
「満月の夜」
というキーポイントを聞くことで分かったことだったのだ。
だから、この村の伝説として、
「満月の夜」
という言葉を聞いた時、教授は、その言葉が気になったのだ。
自分が、
「軍医を目指している」
ということも、その一つに入っているのだろう。
この時代になると、戦争というのも、
「大量殺戮兵器」
というものが開発されていく時代だった。
元々は、第一次世界大戦であるが、最初は、
「そんなに長引く戦争ではない」
と言われていたが、実際には、
「塹壕戦から始まり、大量殺戮の時代」
に入っていったということである。
「塹壕戦」
というのは、相手の弾丸が当たらないように、壕を掘って、少しずつ相手に近づいていくというものであった。
その頃になると、大砲や機関銃というものが、戦争で使われるようになり、
「隠れて進まないと、ただ、相手の標的となり、兵を減らしていくだけだ」
ということになるのだった。
だから、穴を掘って、そこを進みながら、相手が出てきたところを、
「撃っては隠れる」
という、相手から身を守るために、実に原始的な方法で、進むしかないという戦争形態であった。
だから、戦争では、
「完全な膠着状態」
ということになり、それこそ、
「大消耗戦」
ということになるのだった。
実際に塹壕というと、そこには、水たまりができたりして、衛生面では最悪となり、
「病気の蔓延」
であったり、
「塹壕の後遺症」
というもので悩まされるという人が増えるのだった。
元々、
「クリスマスまでには帰ってこれる」
というようなことで、
「数か月で戦争は終わるだろう」
と言われていたが、実際には、
「数か月どころか、4年も戦争をしていた」
ということだったのだ。
最初の方の、
「塹壕戦」
によって、兵もくたびれてしまい、完全に、戦闘意欲を失うような膠着状態に陥ったことで、各国ともに、
「一気呵成に、戦争を終わらせるにはどうすればいいか?」
ということで、いろいろと模索された。
しかし、膠着状態を打ち破る方法としては、結局、
「相手を撃滅するしかない」
ということで、塹壕戦の膠着状態を打ち破る兵器が必要になってくるのであった。
それが、向かう先というのは、結局、
「大量殺りく兵器」
ということになるのだ。
まず考えられたのは、
「相手の機関銃を跳ね返す、鋼鉄の馬とでもいえばいいのか、それが、戦車というものだったのだ」
鋼鉄で守られ、相手に攻撃を加える
という新兵器である。
もう一つは、航空機というものだった。
ライト兄弟によって発明された航空機が、実際に戦場で大いに威力を発揮するのは、第一次大戦以降になるのだが、それでも、偵察などの任務をこなしたのだから、立派な兵器といえるだろう。
そして、大量殺戮という意味で、
「人類の歴史を、黒歴史」
にしてしまった最初の兵器として、
「毒ガス製造」
というのがあった。
「無色無臭の毒ガスは、相手の風上に陣を張って、そこから空気中にまけばそれでよかった」
ということである。
たくさんの兵士が死亡し、死ななくても、失明したりなどの後遺症に悩まされることになる。
今でも、
「戦争においては使用禁止兵器」
ということで、毒ガスは、言われている。
何といっても、毒ガスを開発したドイツ人の科学者に、
「毒ガスの父」
と呼ばれる、
「フリッツ・ハーバー」
という人がいるが、彼は、それ以前に、
「窒素から、アンモニアを生成する」
という発明で、地球における、食糧問題を解決し、ノーベル賞を受賞したという経歴の持ち主であった。
彼は、毒ガス開発に、ためらいはなかったという。
「平時は、人類のための科学者であるが、有事になると、母国のための科学者となる。愛国心に燃えて開発することの何が悪いというのか」
という考えであった。
いい悪いの賛否両論はあるだろうが、科学者として、彼がどういう存在だったのかということは、
「いずれ歴史が、答えを出してくれる」
と言って、いいものだろうか?
そんな、
「大量虐殺の時代」
というものがやってくると、
「兵器の製造合戦」
というものが行われる。
大量虐殺を行えば、確かに、非難を受けるかも知れないが、戦争というものは、
「殺し合い」
というものだ。
「こっちがやらなければやられてしまう」
ただし、本来であれば、ルールのあるもので、戦争においての国際法だといえる、
「陸戦協定」
というものがあり、そこで、
「戦争における、使用できない、禁止兵器」
であったり、
「捕虜というものに対しての対応」
などというものが、決められていて、それに批准する国が、ほとんどのはずである。
だから、戦争のたびに、
「大量殺りく兵器が開発される」
ということは、それだけ
「陸戦協定で禁止になる兵器が増える」
ということだ。
「禁止になったら、新たに兵器を開発する」
ということで、完全に、
「イタチごっこ」
というものを繰り返すことになるわけである。
そもそも、
「大量殺りく兵器を開発する」
ということへの、
「大義名分」
というのは、
「戦争を早く終わらせえること」
というのがすべてである。
しかも、
「自国が敗戦ということにならないように」
ということになると、相手に、
「戦意を喪失させる」
ということか、
「戦争継続不可能なくらいに、相手をやっつける」
ということしかないというものである。
「どれくらいになると、戦意を喪失するのか?」
ということは、その時々によって、さらには、国の事情によっても違うだろう、
だが、その語の世界のように、
「一発の爆弾で、数万という人間が即死する」
というような、
「悪魔の兵器」
というものが生まれるのだから、人間ほど、恐ろしい動物はないといってもいいだろう。
ただ、毒ガスというのも、その語に開発された、
「核兵器に、負けず劣らずの兵器」
であり、
「後遺症」
という意味で、核兵器も、毒ガスも、同じではないだろうか?
そんな第一次世界大戦というものを、日本は、ほとんど巻き込まれなかった。
「日英同盟」
にのっとって、ドイツの植民地であった、
「山東半島、青島の攻略を進め、それによって、日本は、ドイツ権益の植民地を占領できた」
ということで、第一次大戦では、
「二匹目のどじょう」
をとらえることができた。
ということであろう。
第一次世界大戦が終わってから、大日本帝国は、
「戦争特需」
で、成金などが増えたりしたことで、一時期、
「世界の大国」
と言われるようになったが、すぐに、襲ってきた、
「世界大恐慌」
というものをまともに受けた。
その時に、世界恐慌の煽りを食った国の中で、
国家というものの、
「強い国同士」
で、
「ブロック経済」
なるものを築いたせいで、
「日本という国は」
「弱小の、持てざる国」
ということで、仲間外れとなったのだった。
しかも、アメリカなどが、
「海軍軍縮会議」
において、海軍増強をもくろんでいた日本としては、アメリカなどの、
「経済政策に飲み込まれる形」
において、軍縮に調印してしまったのだ。
本来は、
「日本の国力を落とす」
ということが目的だったはずなのに、それができないということで、結局、日本は、アメリカから敵対視されていることが分かり、次第に、日本が中国進出をけん制してくることで、
「対米戦争」
というものを、真剣に考えるようになった。
その前提として、
「資源の乏しい日本」
という日本で、
「対米戦争」」
を考えている間に、欧米列強から、
「経済制裁」
というものを食らうのだから、どこに進むかということは、歴然としていたのだ。
そもそも、
「ソ連という国を、仮想敵国」
ということで、満州や、満蒙国境を守備するということが、絶対条件だったのに、中国という国に南下してしまったことで、欧米列強に対して、申し開きができなくなった上に、
「中国が、欧米列強から、支援を受けているということで、すでに、日本とは敵対している」
といってもいいだろう。
だからこそ、日本は、
「満州に、善良ば資源が眠っていないことが分かったところで、あとは、南方の資源地帯に進出するしかなくなった」
ということである。
それが、結局、
「アメリカが、戦争に参加したいと思惑を、国民に植え付けるために、日本を刺激した」
ということで、
「それに日本がまんまと乗ってきた」
というべきか、いや、
「日本とすれば、そこまでいくしかなかった」
といってもいいだろう。
「中国大陸に食指を伸ばしたことが、ある意味、アメリカに参戦の口実を与えた」
といってもいいだろう。
元々、対米戦争は、想定内ではあっただろうが、
「今じゃない」
ということだったに違いない。
そういう意味で日本は、
「負けない戦争」
をするしか手はないということであろう。
「対米戦争には間に合わなかったが、今からでも、それに匹敵するような兵器を作れるか?」
というのが、軍の依頼だった。
そもそも、軍としても、
「そんな依頼をしても、この時代にできるわけはないだろう」
ということは分かっていただろう。
何といっても、前述のとおり、
「資源がない」
ということで、欧米列強の作戦に乗り、南方の資源地帯に入り込んでしまったことで、本来であれば、
「他国との協調路線でなければ、兵器開発はうまくいかない」
という状況で、日本だけで、しかも、資源がない状態での開発を言われても。無理なのは分かっていた。
というのは、
「まずは、現場主義」
というのが、大前提であり、
「戦争をしているのだから、まずは、そちらに物資や資源を送るのが当たり前だ」
ということなのである。
確かに、兵器開発といっても、実際に金もかかるし、それなりの試作品であったり、テスト期間も必要で、さらには、いくつもの、サンプルデータをとるために、
「どれだけのお金と資源が必要なのか?」
ということである。
つまりは、
「兵器開発には、時間とお金。もちろん、資源などが必要である」
ということになるのだ。
そういう意味では、
「お金のかからない、兵器ということになると、まずは、消耗品でない兵器」
ということになる。
そして、普通の殺りく兵器ではなく、
「相手の精神を狂わせる」
というような作戦をとる。
ということも考えられる。
実は、日本国において、兵器として、
「精神疾患」
というものであったり、相手に
「集団催眠をかけて、相手を錯乱させ、お互いに、殺しあうような、いわゆる、
「相手を疑心暗鬼にさせる」
という作戦を考えたことがあった。
その時の集団催眠というのを、薬のようなものを使って、
「誰でもが、催眠術師にする」
というようなものを開発し、それを兵器として使おうという考えもあったりした。
「兵器というのは、何も、相手を殺傷するだけが兵器ではない」
といえるのだろうが、相手を攻撃することなく。
「相手が殺しあうというようなことを行うのであれば、それは、どのようなものなのか?」
ということである。
この村に来た目的は、表向きは、
「民俗学の研究」
ということであるが、今のような、
「目の前に有事が迫っているような時代に、そんな民俗学の研究などを、大学が、いや、政府が許すわけはないだろう」
というのだ。
大学は、国立大学なのだ。
「帝国大学」
といってもいいくらいの大学で、
「東京、京都、大阪に匹敵するところであるはずなのだが、少し地方で、都会に比べれば、少し落ちるというレベルであるが、それをいかに考えるか?」
ということになるのであろう。
だが、鮫島博士というと、民俗学においても、兵器開発においても、表と裏で、国家に貢献しているのであった。
この村において、
「何かの兵器を開発する」
ということまで思いついたわけではないが、そもそも、この村に興味を持ったのが、
「満月に必ず、子供が生まれる。そして、その子供は男の子だ」
という、本当の都市伝説のようなものが、気になって、研究に来た。
今までの研究の中で、民俗学を研究しているのは、その中に、
「人間の遺伝子が絡むこととして、人間の精神状態が、何かの理由で変化した時、違う人間になってしまう」
という、それこそ、
「オオカミ男」
のような話を頭に描いていたのだ。
それが、いわゆる、
「変身」
という発想であり、
「人間には、超能力のようなものとして、変身機能がついている」
ということを考えるものであった。
もちろん、そんな機能が本当にあるとは、まともに信じてはいないが、
「昔の人が、物語として書き残して、それが、ベストセラーとなり、今でも全世界で読まれていて、SFやホラーの元祖と言われるようになった」
ということであれば、それこそ、
「オオカミ男」
という話を、ところどころかいつまんでみることで、いかに信憑性のあるものにできるかということで、
「未来において、不可能を可能にするためのステップができる」
と考えると、
「俺が、開発者とならなくとも、それはそれで科学の進歩に役立ったということで、いいことだ」
と思うようにしていた。
もちろん、
「発明」
「発見」
などという、名誉欲を欲しているのは当たり前のことであるが、それだけが、科学者の使命ではないと思っている。
そういう意味で、
「専門は、民俗学」
ということであり、裏で、大学から研究を許されるという立場にまで上り詰めていたのだ。
もっとも、大学で、自分を推薦してくれる教授がいたから、自分が、こうやって、民俗学の傍ら、医学もできるのだ。
それを教えてくれたのが、自分を推薦してくれた、
「恩師」
といえる教授だった。
その教授は、博士号を持っている人で、専門は、物理学と医学であった。
元々は、物理学の権威であったのだが、
「それを医学に生かして、日本の役に立ちたい」
と考えていたのだ。
鮫島教授も、その意志を受け継いだ形で、恩師の研究所の土台を受け継いだのだった。
だから、何といっても、
「恩師のお墨付き」
ということと、実際に、鮫島教授の発見は、定期的に学会で発表され、推薦した博士の株も上がったというものであった。
「その博士がひそかに研究していた」
というのが、
「変身」
というメカニズムであった。
「何かのタイミングで、細胞組織が入れ替わり、それが、変身をさせる力になる」
ということを、博士は、物理学から考えていた。
鮫島教授は、それを、
「医学の観点から考える」
というのが、
「民俗学にヒントが隠されているのではないか?」
というところにつながっていくのであった。
そんな、
「変身」
というメカニズムがどのようなものか?
ということであるが、そんな変身のことを、いつ頃から言われるようになったのか、それはよくは分からないが、ひょっとすると、
「同じことを考えていたのは、鮫島教授だけではないのかも知れない」
と感じたのだ。
というのは、鮫島教授が戦後、心理学においても、研究するようになった時、
「最近言われるようになったこと」
という話で、
「カプグラ症候群」
というものがあると、聞いたのだった。
それはどういうことなのかというと、
「自分の近しい人、つまり、家族や恋人などが、どこかの秘密結社のせいで、その人たちとそっくりな人間と入れ替わってしまっている」
という幻覚のようなものだというのだ。
テレビが出てきて、特撮ドラマであったり、マンガなどの、SFものであったりというものには、そういう発想が結構あったりする。
それだけに、
「変身するということは、姿かたちが変わってしまうというだけでなく、その人の人間性も変わってしまうことが大切なのだ」
という。
そして、この
「変身」
という発想は、それこそ、マンガや特撮番組でいうところの、
「正義のヒーロー」
という発想に通じるところがある。
しかし、当時は、あくまでも、
「戦時下」
といってもいいくらいの時代背景だから、
「正義のヒーロー」
というのではだめなわけで、それこそ、
「人間兵器」
と呼ばれるもので、
「カプグラ症候群」
というのは、あくまでも妄想なのだが、教授がこの時代に依頼を受けて考えていたのは、この、
「カプグラ症候群」
というものによって、作り出される、
「天使の顔をした、悪魔のような人間」
というものだった。
この発想は、一種の、
「多重人格者」
だといってもいいだろう。
いや、そもそも、変身した人間に、感情などという性格が必要なのだろうか?
元々の変身前は、
「普通の人間」
として、生活していなければ、人間社会に浸透することはできないので、その時点で怪しまれてしまう。
つまりは、変身前というのは、普通の人間なのだ。
変身することによって、
「オオカミ男」
のように、姿かたちが変わってしまい。その時に、凶暴性と、自分に対しての危害を、「周りのみんなが与えるのではないか?」
ということになるのだ。
そういう意味で教授は、
「オオカミ男」
と満月という発想は、この村のことを知るまで、自分の中の構想としては、最初からあったといってもいいだろう。
しかし、それだけではなく、この村にやってきたことで、今度は、ホラー話の双璧といってもいい、
「吸血鬼ドラキュラ」
と、
「コウモリ」
の話がくっついたことで、
「この村にきてみないと分からない」
ということもあり、来るだけの、価値はあったということである。
というのも、
「吸血鬼ドラキュラ」
の発想がヒントになって。
「ねずみ算的に増やす」
という発想が生まれてきた。
「吸血鬼に血を吸われた人間が、今度は自分が吸血鬼になって、他の人を襲い、また、吸血鬼化してしまう」
というものであった。
そうやって、どんどん増えてくると、
「昼間は、普通の姿なのだが、何かのきっかけで、吸血鬼に変わり、獲物を探してさまよい歩く」
という、まるで、ゾンビ映画のような発想であった。
そんな状態において、
「変身することによって、まったく違う人間が形成される」
いや、その人は姿かたち、性格など、すべてが、悪魔のように変わってしまうのだ。
だから、普段と変わってしまったことで、
「自分がカプグラ症候群に襲われている」
というように、
「替え玉」
なのか、それを、
「幻覚だ」
と思ってしまうことが、それこそ、
「カプグラ症候群」
ということになるのだろう。
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