第2話 コウモリとオオカミ

 満月というと、いろいろなことを想像してしまう人も多いだろう。

「満月を見ると、オオカミに変身してしまう」

 という、

「オオカミ男」

 の話があるが、映像化しようとすると、人間がいきなり苦しみ始めて、顔をしかめながら、重低音で、いかにも苦しんでいるような声で震えているのだった。

 震えが止まらないという状態で下を向いていたかと思うと、毛むくじゃらの顔をこちらに向けて、それまでにない顔になったかと思うと、いきなりの危機を感じさせられ、身の危険に打ち震えたかと思うと、

「その場から、いかにして逃げるか?」

 ということだけを考えるようになる。

 本当はその場に音楽など流れているわけはないのだが、何かが迫ってくる時のようなBGMが流れてきているような予感がする。それを感じると、今度は、虫の声が聞こえてくる。

 その声は、まるで、

「今まで暑かった時期が、終わりを告げるかのような、秋の虫の声で、静かな声ではなく、比較的、騒々しさがあるのだ。

 だから、湿気を感じさせる雰囲気は、まだまだ暑さが残っていることを感じさせ、それとともに湿気があることで、必要以上の汗を掻いているという感覚を覚えるのであった。

 さらに、オオカミ男の出編は、夜に限られている。

 それが宵の口なのか、深夜なのかは、はっきりとしない。どちらにしても、人通りはないのだった。

 そこが日本ではないということは、最初は分からなかった。なぜなら、

「外国になど行ったこともないので、何か変だと思いながらも、そこが、どこなのか、模索をしているということで、夜だということが分かるだけで、それが、夜のどのあたりなのかということまでは、想像がつかないのであった。

「虫の鳴き声は、本来の季節よりも、少し早い気がする」

 と思えていた。

 ただ、セミの声だけは、梅雨が終わり、夏が来たという時期に、恐ろしいほど、耳をついてくる。

「これほど耳障りな声というのはないものだ」

 と感じさせる。

 セミの声というのが、そのまま夏の日差しであったり、鬱陶しさすべてを表しているかのように思えるのだ。

 暑さだけではなく、湿気も含んでいる。ただの暑さだけでは、ここまでセミの声を鬱陶しく感じさせるものはないということであろう。

 セミの声は、夏の間、鳴き続ける。

 しかし、最初に鳴いていたあの声が、夏が終わる頃に聞こえているセミとは、違うセミであるということを誰が感じているだろう。

「セミというのは、寿命が短く、その声が高いのは、

「地上にいられる数週間だけだ」

 ということである。

 一か月ともたないセミが、夏に入ってから鳴いていたセミの声であるわけはない。それを思うと、

「最初のセミがどうなったのか?」

 と考えてしまうこともたまにあったりした。

 当時、クーラーなどというものがあるわけもなく、それでも、皆暑さに負けずに生きていた。

 それは、田舎でも都会でも変わることはない。ただ、なんとなくであるが、

「田舎の方が、心なしか涼しいのではないか?」

 と感じさせるのであった。

 そんな夏の夜に、

「オオカミ男が出現する」

 ということを聞いたこともなければ、想像したこともない。

 それは、

「オオカミ男に、セミの声はふさわしくない」

 と感じたからであろうか。

 ただ、この当時の村と呼ばれる比較的田舎、いわゆる、

「農村」

 と言われているところでは、

「オオカミ男の伝説」

 というのは、かなり変わったものだったといえるだろう。

 ただ、想像できないことではないともいえることで、

「話が、交錯している」

 といってもいいかも知れない。

 というのも、

「オオカミ男という話に、吸血鬼ドラキュラの話が混ざってしまっていたのだ」

 ということである。

「吸血鬼ドラキュラ」

 という話は、あれも確か、夜に行動することから、

「吸血鬼というと、コウモリというものを想像させる」

 ということであった。

 コウモリというのは、

「基本的に夜行性で、人がいないところを徘徊している」

 というイメージがある。

 それは、当たり前のことで、

 コウモリというものの童話に、

「卑怯なコウモリ」

 という話があり、

「鳥と獣が戦をしているところに、コウモリが出くわした」

 というところから始まる話で、

「鳥に合えば、自分を鳥だといい、獣に合えば、自分を獣だといって、難を逃れてきたのだ」

 ということであるが、いずれ、戦が終わって、平和になってくると、鳥と獣の会話の中から、

「コウモリの話題」

 というのが出てきて、

「コウモリは卑怯な奴だ」

 ということになり、獣からも鳥からも、相手にされなくなり、結果、暗くて湿気の多い、洞窟の中で人知れず暮らすようになった。

 ということを言われている、

 だから、夜の湿気のあるところに現れて、そこで、女の生き血をすすり、血を据えあれた女が、今度は、自分も吸血鬼として生まれ変わるという話だったのだ。

 湿気が多いのだから、吸血鬼が出るのは、夏ということになるのではないだろうか?

 しかし、オオカミ男は、夏に現れるというわけではないので、

「うまく重ならないように、現れる」

 ということであろう。

 しかし、考え方によると、少し違っているのであって、

「何も季節が違っている必要はない」

 ということだ。

 そもそも、オオカミ男と、ドラキュラというのは、

「同じ時に出てきてはいけない」

 という発想がある。

「別の町での伝説ではないか?」

 と考えれば、それもそうなんだが、

「オオカミ男にも、ドラキュラにも、それぞれ同じタイミングで出てくることはない」

 と感じさせる何かがあるのだった。

 というのは、

「オオカミ男というのは、満月の夜にしか現れない」

 と言われている。

 明るい月の光の中で、オオカミ男は現れて、光を浴びたことで、

「オオカミに変身する」

 ということが、目の当たりに見せられるのだ。

 だが、ドラキュラの場合は、そもそも、黒い外套を着ていて、いかにも目立たない様子。それこそが、

「コウモリ」

 というものを彷彿させるということになるのだろう。

 そもそも、コウモリというのは、真っ黒な姿でたたずんでいて、人の前に姿を現すことがほとんどない。

 しかし、自分たちが生息できる場所が限られていて、そこに、大量のコウモリがいるのだから、その多さというのは、

「集団で行動している」

 としてしか、認識できない。

 しかし、本来、ドラキュラというのは、伯爵一人である。大量のコウモリとは、イメージが違っている、

 しかし、コウモリが集団でいるのは、他の動物のように、

「助け合って生きているからだ」

 ということからであろうか?

 単純に、

「限りのある場所で、たくさんが生息しなければいけない」

 ということなだけで、彼らは、まったく干渉しあっているわけではなく、そもそも、

「助け合う」

 などということとは、無縁なのではないだろうか?

 何しろ、

「暗い洞窟の中で、しかも、湿気を必要とする」

 という形を想像する時、思い浮かぶものがあるのではないだろうか?

 そう、思い浮かぶもの、それは、

「鍾乳洞のようなところ」

 といえるだろう。

 鍾乳洞というと、それほど、どこにでもあるものではない。

 ただ、それは、あくまでも、

「観光地のようなところ」

 であり、

「コウモリが生息する」

 という程度のものであれば、一つの村であれば、山間のところに、少しくらいはあるのではないだろうか。

 ただ、そんなに大きなものは存在していないだろう。

 本当に少ししかない限られた場所に、

「所せまし」

 と暮らしている。

 だから、

「吸血鬼ドラキュラ」

 という話は、いくつかのパターンがあるらしい、

 基本的には、どこも同じものなのだが、

「ドラキュラの話の中に、オオカミ男の話が、微妙に絡んできている」

 というものだったのだ。

 ただ、オオカミ男の話に、

「ドラキュラの話が、絡んでくるということはない」

 と言われている。

 ドラキュラの話の方が、絡まれやすいということなのか、伝わっている話は、それぞれに特徴が深く、そのうちの特徴である部分の、何かが合致してくることで、それぞれの話が、共通している部分が多いと感じさせるのだろう。

「この二つの話は元々、つながっていたのではないか?」

 と考えさせられるところがあるのだった。

 オオカミ男の話の、一番の特徴は、

「満月の夜にしか現れない」

 ということであろう。

 そして、吸血鬼の話はというと、

「吸血鬼に血を吸われた人は、そのまま、吸血鬼になってしまう」

 という、

「まるで、ネズミ算として増えていく」

 ということであった。

 まったく違う話のようだが、よく考えると、

「お互いに不足している部分を補って。話の辻褄を合わせている」

 ということになるのだろう。

「ドラキュラという吸血鬼というのが、コウモリを彷彿させる」

 ということであれば、前述の、鍾乳洞の話も分かるというもので、

「洞窟の中にたくさんいるコウモリの中で、一匹ドラキュラがいる」

 ということであり、

「他のコウモリというのは、ドラキュラに血を吸われて、吸血鬼になり、さらに吸血鬼になった人間が、またしても、血を吸って、どんどん増えていった結果だ」

 ということになるだろう。

 ただ、そのコウモリは、二度と人間の世界に帰るわけではない。この洞窟でずっとコウモリとして生きていくことになるのだろう。

 では、

「オオカミ男」

 というのはどういうものなのだ?

 元々の話というよりも、ドラキュラの話を組み合わせた方が、分かりやすいというものである。

「オオカミ男というのは、満月の夜になると、オオカミに変身する」

 ということであるが、そもそもは、人間の姿だったのだ。

 それが、満月を見ると、オオカミ男に変身をする。

 つまりは、

「人間の姿を仮の姿として、満月で月の光を浴びて、オオカミ男の本来の姿に変わる」

 ということであろうか、

 そうなると、

「吸血鬼ドラキュラ」

 とは、話が、根本から違っているということになるだろう。

 吸血鬼は、ずっと吸血鬼として暮らしているので、血を吸う時だけ、元の人間に変わるということだ。

 しかし、オオカミ男が、

「元々は、ずっと人間の姿だった」

 と思わせるのは、

「オオカミ男に変身する、あの瞬間のことではないだろうか?」

 ということであるが、

「それは、オオカミ男が、人間から変身する時、低い声でうまき、変身するところをなるべく見せないようにはしているのだが、変身するところがどうしても見えてしまう」

 ということである。

 その理由が、

「満月の明かりが、それだけ明るい」

 ということを示していることだろう。

 もっと言えば。

「満月の明かり」

 というものを浴びたオオカミ男のその姿を、まともに見ることができたかどうかということである。

 このあたりの村で言われていることは、

「見てしまうと、その瞬間に殺される」

 ということであった。

 だが、よくよく考えると、

「見た瞬間に殺されるのだということであれば、そもそも、オオカミ男が犯人だということをいかにして知ることができたのか?」

 ということである。

 しかも、オオカミ男が、人間からオオカミに変身するということも、死んでしまった人から聞くわけにもいかない。そうなると、

「これは、架空の話ではないか?」

 ということになる。

 そして、

「オオカミ男」

 の話に信憑性がないとすると、

「吸血鬼ドラキュラ」

 の話にも信憑性などないといえるのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、

「逆に、この2つの話を、合わせ技として考えると、それ以上の信憑性を感じさせることになる」

 ということで、それぞれの話が、絡み合って、伝説的なことになっているのではないかと感じるのだった。

 オオカミ男というのは、あくまでも、

「満月の夜」

 にだけ行動するものであるが、ドラキュラと一緒に出るということは聞いたことがないので、ドラキュラは、

「それ以外の時に出現するということになるのだろう」

 しかも、

「なるべく、暗い時」

 ということになるのは、

「卑怯なコウモリ」

 という話が証明しているからに思えるのだ。

 だが、そもそも、

「吸血鬼ドラキュラ」

 という化け物の招待が、なぜ、コウモリだということになったのか、それは、

「吸血蝙蝠」

 というところからきているのかも知れない。

 しかし、この

「吸血鬼ドラキュラ」

 という話は、

「ルーマニアという、ヨーロッパの国が発祥だ」

 という。

 しかし、この

「吸血蝙蝠」

 と呼ばれている種族が生息しているのは、中南米ということで、ヨーロッパにいる種族ではない。

 それを考えると、

「吸血鬼」

 と

「コウモリ」

 という発想は、あくまでも、

「その性質が由来している」

 ということになるのであろう。

 それを考えると、

 あくまでも、吸血鬼といいよりも、コウモリとしての性質の方が、

「ドラキュラ」

 の話には、ふさわしいといえるのではないだろうか。

 そもそも、満月というものは、

「女性の血液を連想させるものではないか」

 それは、

「女性にしかない、一か月に一度の、生理」

 というものである。

 それを、生理の血と、ドラキュラ尾を組み合わせて考えようとすると、どうしても、

「オオカミ男」

 の話とは、

「切っても切り離せない」

 という話になるのではないかということである。

 そうなると、今度は、

「オオカミ男」

 と、

「吸血鬼ドラキュラ」

 という話との共通点を見つける必要があるということであろう。

 そのことは、

「吸血鬼と、オオカミという関係」

 を考えるのか、

「コウモリとオオカミ」

 というものの共通点を見つけることになるのか、非常に難しいものではないかと思えるのであった。

 コウモリもオオカミも、まったく共通点はないように思える。

 ただ、ホラーとしての題材としては、それぞれに単独ではふさわしいということであろう。

 それを思うと、

「オオカミもコウモリも、共通点は、何かの媒体を介するということになるのではないだろうか?

 コウモリとオオカミ、それぞれに、特徴があり、考え方もあるだろう、

 コウモリに関しては、どうしても、

「孤独である」

 ということを強調しているが、それはあくまでも、

「種族としての孤立」

 ということであり、それが、

「孤独なのかどうか?」

 というのは、疑問に感じさせるというものである。

 確かに、

「卑怯なコウモリ」

 という話は、

「獣と鳥が戦をしている」

 という場面であるから、

「1対1」

 ということではなく、人間の戦のように、数百、いや、数戦という軍隊を形成していて、しかも、

「鳥という分類」

「獣という分類」

 ごとに隊を組んでいることだろう。

 しかも、その組み方も、

「種族事態に、差別化されていて、たとえば、獣の中で、王としては、ライオンがいて、その下には、トラがいて、というように、種族ごとで、ランクが決まっているのかも知れない」

 といえるだろう。

 さらに、

「同じ種族の中で、さらに、階級が分かれているとすれば、戦のやり方は、人間とはかなり違っている」

 というもので、その戦のやり方が、

「コウモリをいかに巻き込んだのか?」

 ということになる。

 つぃまり、ここでの

「コウモリ」

 というのが、本当に、

「一匹だったのか?」

 ということを考える。

 もし、一匹だったとすれば、

「この一匹のコウモリのために、他のコウモリが、他の動物の目に触れないような生き方をしなければいけなくなった」

 というのであれば、あまりにも理不尽である、

 人間社会でいえば、

「連帯責任」

 ということであり、ここでいう、

「軍隊方式ではないか?」

 ということになるではないか。

 そもそも、これが

「一匹ではなく、コウモリの中の一つの種族だ」

 としても、すべてのコウモリがそうだというのは、理不尽である。

 と考えると、

「コウモリの中には、別に、隠れてすまなくてもいい種類があるのかも知れない」

 といえるのではないだろうか。

 つまり、

「コウモリというものを、すべて卑怯なコウモリと同じなのだ」

 ということで、必要以上な距離感をもって見るということが、

「そんな、一つの偏見のような見え方になってしまったのではないか?」

 と考えると、

「あくまでも、コウモリの世界を、本当に、人間の尺度というものだけで測ってもいいのだろうか?」

 とおうことになるのである。


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